3章 ― 夕暮れの逃亡 ―
時間の断片 黒江 奏
ガイア歴1054年7月 ミドガルド西域 レイキャヴィーク
1
背筋が凍るような禍々しい気配が闘技場を満たした。
先ほどまで人の喧噪で賑わっていたこの閉鎖空間は、今や、魔物の狩り場と化している。たった一匹の巨大な魔物に、人間が大量虐殺されているのだ。
「――逃げろ!」
「……あなたは!?」
「僕はやらなきゃならないことがあるから」
きっぱりと言う。
わたしは、その言葉にどこか立ち入れない雰囲気を感じた。
大蛇が威嚇するように唸る。それは、飢えた獰猛な肉食獣の声だった。
狡猾に、執拗に。
獲物を見るような目つきで、隙をうかがっている。
わたしたちに飛びかかり、命を屠る一瞬の隙を。
彼は、ひときわ高く設計された観覧席の上座から、コロッセオの舞台へと飛び降りる。
高低差はかなりのものだ。
息を飲んだが、難なく着地する。
そうだ、この子。さっきわたしを肩に担いで軽々と跳躍したのだった。どうやら人間ではないらしい。だから、わたしの世界での常識は通用しないのだ。
わたしを、お守りします、と跪いた少年。
蜂蜜色の明るい髪と、薄紫の瞳、女の子とも見紛うくらい綺麗な顔立ち。多分、わたしよりも2、3歳は年若い。
さっきまでは、戦場の中で、子犬のように生き生きとした表情を見せていたのだ。
それが、あの恐ろしい生き物が現れた途端。
人が違ったかと思うような憎しみを見せた。
無言で魔物を睨み付ける眼差し。
それは、まるで静かに燃える青き炎のようで。
小柄だが筋肉質な体全身をばねのように使って跳躍し、蛇の背中に飛び上がる。振り上げた剣は、特撮映画と錯覚するほど、スムーズに魔物の皮膚を抉った。真っ青な生々しい返り血が、まだ幼い少年の肌を奇怪な色に染める。
「その子をお願いします!」
少年はよく通る声で言った。
「ひとつ貸しな。……逃げるぞ」
ぽんと肩にかかったのは、無骨な手。
振り返ると、灼熱色のローブに、顔の大半を覆うマスクの男。
先ほどまでVと剣を交えていたはずの、あの貴族の男だ。
「……ええっ?」
「ほら、行くぞ。もう王の兵士たちは姿を消してるし、実質機能していない。だから、仲間じゃないとか面倒な偽装する必要もないし。
ま、それは俺の都合なんだけど」
マスクとローブの隙間から、ホライゾンブルーの色をした瞳が、目線でわたしを促した。
有無を言わせぬ声に背中を押され、駆け出す。
……敵じゃなかったの?
(何この一人だけ取り残された感じ……)
釈然としない。Vと貴族は先ほどまで剣を交えていたのに、わけがわからない。
だが、大蛇の尻尾による鋭い一撃が頭の上から降ってきて、足場が崩れたときに、そんな思案をしている暇はないのだと本能が告げた。わたしはここから全力で逃げるべきだ。
「……きゃっ!」
足場が崩壊し、闘技場とは逆側、街側に投げ出された。
地面までは相当な距離がある。落下したら衝撃は相当なものだろう。足の一本どころでは済まないかもしれない。最悪、打ち所が悪ければ、死ぬなんてことも。
ぎゅっと目を閉じる。
わたしは、痛みを覚悟した。
「……!」
……。
だが、覚悟した痛みはわたしには訪れず。
代わりにふわりと宙に浮かぶ浮遊感。
そしてわたしを支える、がっしりした両腕の感覚。
「何してる? どんくさいな」
予想以上に近くで聞こえる、低い声。耳の側で響く声は、どこかくすぐったいような、心地よいような。
目を開けると、優しい眼差しが、そこにあった。予想よりもずっと側に。
紅蓮の貴族は、華麗に地面に着地する。重くはないと言っても、女子の平均体重はあるわたしを軽々と両腕に抱えている。
その瞬間、脳がオーバーヒートした。
「あ、ありがとうございます」
思わず動揺のあまり某掲示板ばりに『w』が付きそうになる。
いかん、壊れそうだ。わたしのキャラではない。
何とか冷静を装って立ち上がる。装いきれているかどうかは自信がないが。
心臓が早鐘のようにどきどきと打つ。
「無事でなにより。行くぞ」
「は、はい」
無意識にだろうか、それとも危なっかしいと思ったのか、右手が繋がれている。
手袋を通して微かに伝わる温もりに、どこか安堵する。
何故だかうまく言えないけれど、この名も知らない異世界で、全く理解できない状況下で、精一杯足掻いて、何とか生きている、そんな感じがした。
時間の断片 知られざる男
2
命の危機。
そう表現するのがふさわしい状況に、俺は晒されている。
自由を奪われているのだ。この世に誕生してから17年と少々の年月が経過しているが、こんなことは一度もなかったことだ。
拘束されたように、とある場所に閉じ込められている。
原因がわからない。想像の中で推察できるのは、何か重大なことが起ころうとしているということだ。
俺は死ぬのだろうか。想像だけが一人で巡る。
だとしたら、何も為さないまま、誰にも知られないまま、消失していくことになる。あの少女と一度も言葉を交わすこともなく。
絶望に全身が震えた。もっとも、俺に身体などという高等なものはないが。
こんなことはかつてなかった。
意識体だけの俺が、閉じ込められられるなど、考えられないことだ。
確かに、何者かの意思によって、俺はこの場所につなぎ止められているらしい。
とある人間の内側に。
視界はその男の視神経を借りて、鮮明だ。これが見る、ということか。俺はその色彩の強烈さに圧倒される。よりライブで、生き生きとしている。
対峙しているのは、二人の男である。
そのうちの一人は、まだあどけない顔をしており、男というよりも少年と言った方が相応しいかもしれない。
もう一人が、俺が閉じ込められている『入れ物』だった。
その『入れ物』が、蜂蜜色の少年の剣の隙間をぬい、素早く切り上げる。刹那、赤い血の筋が少年の頬に鮮やかに描かれた。
つうと、流血する。
その鮮血を、歳若い少年が、ぺろりと舌をだし、嘗めとる。
まだ幼さの残る顔つきに、殺伐とした空気が漂う。
俺の『入れ物』である男の顔は見えない。
緋色のマントがばさりと空気をはらんで揺れた。
一体どうなってる。
離してくれ。
俺を解放してくれ。
怒鳴ってみるものの、当然、声は誰にも届かない。
『入れ物』の男が、胸中でつぶやいたのが聞こえた。
……物騒だな。
人間が愛おしいなんて言ってるくせに、命のやりとりが好きでたまらないって顔してやがる。
意味のわからない独白。
不思議なことに、俺がつぶやいたのか、『入れ物』の男が呟いたのか、俺にはうまく区別できなかった。もちろん、俺が呟くような内容ではないから、『入れ物』が呟いたのであろう。消去法で判断する。
世界が崩壊した後。
奏と一緒に、この世界へと飛ばされた。
落下する奏を受け止めようとしたのだが、どうやら落ちている間にはぐれてしまったらしい。
気がつくと、こうやって意識をつなぎ止められている。
そこは観覧席の中でも際立って見晴らしが良かった。すぐ後方では、偉そうにふんぞり返った老人が見える。頭に王冠をつけているところを見ると、王なのだろう。
気持ち悪くにたにたと笑ってやがる。見ているだけで殺意を覚えるような、緩んだ顔だ。
(……何だ、これ)
その時、緋色のマントの男の、独白が聞こえた。
(……魔術の匂い?)
意識は、明らかに俺に向けられている。
今まで誰にも気づかれなかった、思考の亡霊。
そんな存在の俺を、男はしっかりと認識した。
何か事件があったのだろう、人々が悲鳴を上げ、四方八方に逃げ出す。
そんなことはおかまいなしに、男は、自分の内に潜む未知の生き物を調べ上げているらしい。
それも、一瞬で。
(ずいぶん丁寧な術式だな。しかし複雑で、意図がわからない。
……ま、念のため)
『入れ物』の男は一瞬で俺を捕らえ、分析し、判断したらしい。
俺は、嫌な予感に凍り付いた。
男の胸中での呟きは、少しも危険な様子を感じられなかった。
だが、男の鋭い意識が集中するやいなや、全身が万力で締め付けられたように痛んだ。
俺の意識はたわみ、圧力に砕けそうになる。
……壊しとくか。
紅蓮の男のあっけらかんとした呟き。
瞬間、奏のいた場所が大きく砕け散り。
足場がなくなり、バランスを崩し、落ちていくのがわかる。
奏のぎゅっと閉じられた目が恐怖に震える。
慌てて手を伸ばす。
――奏!!!
不思議なことに、俺の思いは祈りとなって、男の身体を動かした。
『入れ物』が跳躍し、華奢な体を軽々と受け止めたのだ。
俺は、自分が初めて彼女を守れたことが、嬉しかった。もしかしたら俺の意思は何も介在しなかったのかもしれないけれど、結果として俺が関わる何かで、奏を守れたことが、嬉しかったのだ。
俺の旧知の少女は、大きな瞳を見開き。
今まで見たことがないくらいに、真っ赤になった。大きな瞳に、紅蓮のマントの男が映り込む。
長い睫毛。大きく見開いた黒曜石の瞳。薔薇のように赤い唇。
まるでおとぎ話のお姫様が現世に舞い降りたように。
側で『目』を通じて見つめた彼女は、信じられないくらいに美しく、その一瞬が永遠にも感じられた。
他人を介在させてとはいえ、初めて彼女に『触れた』瞬間だった。恐怖と緊張に震え、命の危険に晒され、髪も乱れてはいたが、俺を見上げるその様子は、心の琴線に触れる物があった。時が止まればいい、本気で思った。
それは、俺が奏を目にした、最後だった。
途端、握りつぶされる力が強まった。
――奏、その男は、危険だ!
俺は必死に叫ぶ。
どうしても、伝えたかった。伝えなければ、彼女に危険が迫ってしまう。
だが、願いもむなしく。
ばちん。
精一杯叫んだところで、俺の意識はばらばらになり、消えた。
誰にも知られず、弔われることもなく、こうしてひとつの存在が、ひっそりと息絶えた。
時間の断片 黒江 奏
3
街並みは野獣派のような鮮烈な夕暮れ色に染め上げられている。
石造りの建築物は中世の絵画に迷い込んだような錯覚を呼んだ。何かに怯えるように迷宮のように入り組んだ建造物の隙間を駆け抜ける。わたし達の影が踊るように地を這い、壁を伝い、建造物をすり抜ける。まるで獲物を追うように。
呼吸音と足音が石畳の路地裏を反響する。通り過ぎる足音に店先の看板が揺れた。美味しそうな夕餉の匂いが家々の窓ガラスを温かく曇らせている。懐かしいけれどもう遠さすら感じる家族の風景。わたしはそれを横目で眺めて通り過ぎた。
何もかも、わからないことだけだった。
この世界がどこなのか。
わたしは何のためにここにいるのか。
東京に帰りたかった。英語の予習もしなくてはならないし、撮りためたTV番組も消化しないといけない。冷蔵庫には大好きなダロワイヨのマカロンが保存してあったはずで、今日帰ったら楽しみに食べようと思っていたのに、と考えると、無性に悲しくなった。
帰りたい。だけど……。
先ほどの大災害の様子が、まざまざと思いだされ、心臓をきゅっと掴まれたような心地がした。滅びの惨事が瞼の裏に焼き付いている。あれがもし本当のことだったらと考えると、怖くてたまらなかった。少年がくれたケープにすっぽりと覆われていたので、寒さは感じなかったけれど、震えが止まらない。
わたしは、もしかしたら、あの時重大な損傷を負ってしまったのかもしれない。妙な空想だけが空回りし始める。ビルの崩落に巻き込まれて、あるいは鉄柱に押しつぶされて。今頃、どこか病室のICUで、点滴と無数のチューブに繋がれて、人工的に生かされている状態で、醒めない夢を見ているのかも。だって、異世界なんてあるはずがないから。
だけど、前を走る赤毛の男と、力強く握りしめられた手から伝わる温もりだけは、とてもリアルで。これが脳内で作られた架空の世界だなんて、とても思えなくて。
「……あの、」
ようやく男は足を止めた。持久力はある方だと自負しているが、肩が上下するほど息が上がってしまった。わたしを闘技場から逃がした紅蓮の男は、息ひとつ切らしていない。闘技場の壁を飛び降りた時も、超人的な運動能力を見せつけたのだった。
「ここまで来ればもう平気だろう」
男は、くぐもった声で言った。口のあたりに、顔の大半を覆うようにマスクをしているために、表情は伺えない。存外に優しい瞳がわたしを見下ろしている。
「あの、ありがとうございます。さっきの男の子と、知り合い……なんですよね?」
封鎖されたコロッセオの、地位の高いらしい老人をかばった時は、敵なのだと思った。だけど、あの見たこともないような大きな怪物が現れた時、怪物に斬りかかる前に。赤衣の男に、彼女を任せます、と言ったのだった。
「ああ。Vは同族だ。今は、霜の巨人たちを屠る殺戮マシーンと化しているだろうが。個人的な調査をしていたら、たまたまあいつに出くわして、驚いていたところだ」
「霜の巨人たち?」
「……異世界からやってくる化け物の名だ。別名を、神を喰らいし者という。
……本来、この地方には出現しないはずなのだが」
さっぱりわからない。わからないことは何でも聞け、というのがわたしの信条だ。 だから、全く理解はできなかったけれど、とりあえず聞く。
「……神を、喰らいし者って?」
「やつらは神を喰らう。文字通り、神族の血を体内に取り入れ代謝することで、魔力を増幅させ、寿命を延ばす。そういう生命体だ」
「神様なんて、いるの?」
思わず尋ねると、男は怪訝な顔をした。
「いるさ。というより、俺はその質問が奇妙に感じられるのだが……」
男はわたしの手を引いたまま、路地を進む。時々耳を澄ませたり、気配を窺っているところを見ると、誰かに追われていないか、警戒しているようだった。
「……まるで他人事という様子だが、わかってないのか……?」
「え?」
紅蓮の男は、曰くありげに呟く。意味がわからず、どう対応していいのかわからない。きょとんとしていると、ため息をつかれた。何かわたしは見当はずれなことを言ったらしい
視界が開けて、三叉路に出た。行くあてがあるのだろうか、男は私の手を引いたまままっすぐに直進する。急こう配だったり、三又路や四又路に分かれていて、まるで迷宮のようだ。敵に攻め込まれないように城下町を迷路のように作った、と歴史の授業で聞いたことがあるけれど、まさにそんな感じだった。
薬草やお茶を売る小さな商店を抜け、紙のいい香りが立ち込める本屋を通り過ぎ、そうかと思うと不思議な佇まいの店先には干からびたものや地図やまじない用品が売っていて、一体何の商店なのか確かめようと看板を見上げると、見たこともないような不可思議な飾り文字が刻まれている。暮れなずみ訪れる日没に合わせて、皆早々と店じまいしている。コンビニやファーストフードの店が四六時中煌々と明かりを灯している、東京では考えられないことだ。こんな不思議な状況でなくて、旅行をしているのだとしたら、足を止めてみたくもなるけれど。
それはそうと、先ほどから、気になっていることがあった。
「……あの」
わたしの手は、男の手の中にすっぽりと収まってしまっている。視線で訴えかけると、慌てたように手を放した。
「……すまん!」
ちょっと慌てた様子に、笑ってしまう。どうやら、悪い人ではないようだ。
とにかく。これを着ろ、と差し出されたのは、群青色のマントだった。
フードが付いていて、すっぽり頭からかぶれるようだ。裏地にはびっしりとルーン文字が縫いこまれている。
「魔力を遮断するローブだ。お前、魔力が制御できないようだからな」
何のことかわからない。思わず首を傾げた。
男は、眉をひそめて、何を言っているんだ、と首を傾げた。
「お前、流浪者だろう」
「……ノーマッド?」
「あー、流浪者はこの世界の言葉だったな。つまり、お前、異界の神だろう?と聞きたいわけだが」
ノーマッド。異界の神。理解するのに時間がかかった。あわてて、ぶんぶん、と首を振る。
「……わたし、人間だし、魔力とやらもないです。誤解なさっているようですが」
「しかし、その魔力の量は尋常じゃないだろ。その割に、にじみ出てる魔力を制御できないようでは、危なっかしいぞ。『霜』の餌にしてくださいと言っているようなものだ」
逆に怒られてしまった。身に覚えがないので、ちょっと納得いかなかったりする。
ケープの方が短いので、かわりに青いローブを着ることにした。Vという少年が貸してくれたケープだから、傷つけてはいけない。丁寧に肩から外す。
「……」
男が不意に黙った。
視点の先を読むと、左瞳にあてがわれている。ホライゾンブルーの瞳とかち合うと、言い訳のように紅蓮の男は呟いた。
「……いや、よく知ってるやつにすごく似てたもんで」
顎に手をやり、思惟深げだ。ふいっと離れ、そっぽを向いて、何かを考え込んでいるようだ。
よくわからないからスルーしておく。
青いローブは上質の布で作られているらしくしっくりと肌に馴染んだ。
ちらりと横目で眺めると、暮れなずむ異国の街並みに、金髪碧眼の男が佇む光景。
横顔が様になる。不覚ながら、思わず見とれる。身長は180センチはあるだろうか。視線が再び絡みそうになって、慌てて目をそらした。
何でだろう、心臓がざわめく。不安に襲われて、わたしは視線を彷徨わせる。
「……どこに向かってるんですか?」
「待ち合わせ場所だ。どうした」
「……うん、ちょっと」
空気の匂いが変わった。視界が陰ったような気がしたので、頭上をふり仰ぐ。しかし、暮れなずむ空の鮮やかな紅は、少しも雨の気配をはらんでいない。
カラ、カラ。
何か小さな硬いものが転がる音が聞こえた。だけど、路地の向こうには人影一つない
「……何か聞こえない?」
強烈な風が不意に路地を吹き抜け、木々の枝葉を強い力で揺らした。思わずローブを手で押さえる。鼻につく腐臭。心なしか影が濃くなったような。
ケタケタ。
不意に、甲高い子供の笑い声が響いた。
石畳の隙間から、木の葉の唸り、風の流れから、空間の隙間から。
水が堰を切るように、闇が溢れだす。
渦巻き、収縮し、幾つもの影を形作る。目を凝らすと、無形の黒い霧は六歳くらいの小さな子供の形になった。数十体の影は、空気中に蚊柱のように蟠りながら、小さなヒトの形を真似て佇む。
それは、異様な光景だった。薄闇の中、わたし達から少し離れて、子供たちが無表情でじっと佇み、こちらを凝視している。夕陽は暮れかけ、それが影なのか、子供の実体なのか、もう判断はつかなかった。
紅蓮の男が舌打ちする。
「ヒトガタか。まさかこんな時に……こっちだ!」
腕を引かれ、走り出す。
「何!? 何が起きてるの!?」
「生存確率発生だ!とにかく、待ち合わせ場所まで走るぞ!」
「……ランドマイズって?」
軒先に佇みわたし達を見下ろしていた子供が、両手を伸ばして、落ちてくる。
その表情に浮かぶのは、歪んだ笑みと、凝縮された憎悪だった。目があった瞬間、背筋が凍るほど、それは何もかもを無尽蔵に憎んでいた。
サーベルが一閃した。
「……っ」
思わず、息を飲む。
黒い小さなシルエットは一突きされると、炎が吹き上がった。虫が火の中に飛び入るように、一瞬赤く燃え上がり、じわっと拡散し、消えた。
「……存在しないはずのエリアに霜が爆発的に発生する現象のことだ。さっきの大蛇といい、目的は多分……お前だろうな」
「……わたし!? 何で」
そんなものに狙われるようなことをした覚えがない。
今までの話をまとめると、わたしという存在について纏まるのだけれど、自分でもとても信じられないような虚構の結論で。
「今は説明している時間がない。ちょっと離れてろ。走れるか?」
「は、はい!」
「じゃあ付いてこい!」
前方に向かって、フルスピードで駆けだす。
直後、無数の方向から、大量の影が殺到した。
剣先が踊る。使用者の手を保護するサーベルの護拳が夕焼け色の空を反射し、虚空に残像を生んだ。一メートルの長さはあるであろう武器が軽やかに舞う。一瞬で、複数の影を炎の柱にした。
「……すごい」
「口開けてないでしっかり前見ろ。死にたくなかったらな」
忠告を預かり、わたしは必死に背中を追いかける。
疾駆する紅蓮のマントを目印に、街を駆け抜ける。
息遣いが聞こえそうなほど、後ろから闇の者たちが迫っている。たくさんの手が闇へと引きずり込み喰らおうとわたし達を追う。。
す、と横手の路地から闇があり得ない長さに伸び、わたしの腕を掴んだ。
「……っ!」
締め上げられるその強さに、思わず顔をしかめる。四方八方から、無数の腕がわたしに向かって伸びた。スローモーションのように黙ってみていることしかできない。怖い。心臓がきゅっと縮む。
剣士が体を躍らせ、刀身が煌めく。腕がすぐに解放される。掴まれた部分が内出血を起こして、どす黒いあざになっている。
赤い剣士は、わたしの手を掴んで走り出す。はずみでフードが落ちた。光を含んだ金髪の髪が、零れ落ちる。どこかで見たことがある人だな、と考えているけれど、少しも思いだせない。そんなはず、ないのに。わたしが一度見たことのある誰かを忘れてしまうなんて、あるはずがないのに。
明るい青の瞳が、気遣うように一瞬細められる。
「大丈夫! ぜんぜん、痛くないから!」
無理やり、笑って見せた。多少虚勢を張っていたけど、何故だか、安心してもらいたかった。
その後、安堵したように優しくなった瞳と、笑顔に、わたしはすっかり魅せられてしまった。
広場に止まっていた馬車に飛び込んだ時も、馬車の御者台にもはや懐かしさすら感じるVが、青い血塗れにも係わらず平然と乗っているのを発見した時も、一緒に来るとばかり思っていた赤い剣士が広場に一人立ちはだかって、馬車の後方に迫る黒い闇から守るためにサーベルを翳した時も、馬車が走り出しわたしが慌てて身を乗り出した時も、すっかり感覚が麻痺して、まるでフィルター一枚を通して映画の世界にいるような気持ちだった。ちらりと振り返り、彼を飲み込もうとうねり波打つ黒い霧に皮肉な笑みすら浮かべて、彼はこう言ったのが聞こえた。
また、虹の向こうでな、って。
20120609 UP
20120610 加筆
20120622 加筆
20120701 加筆
20120703 修正