2章 ― 某少年兵の特殊任務 ―
時間の断片 少年兵
ガイア歴1054年7月15日 ミドガルド西域 レイキャヴィーク
1
そこは、戦場だった。
人の絶叫、耳障りな金属音、戦乱につきものの地鳴り。
僕は、息を殺す。
錆びた一本のブロードソードを握りしめて。
柄の形が手になじむ。長い歴史を僕とともに生きてきた、愛刀だ。
目の前の男が、弓矢に倒れ伏す。動脈を斬られた男が、真っ赤な血しぶきを派手にまき散らしながら、絶命する。斬ったのは、まだ幼い顔をした奴隷だ。
マスターの命とはあれ、殺し合いの渦中とは、とんだところに派遣されたものだ。
まあ、忠誠を誓っている以上、どんな命令も聞くつもりだ。
それに、僕の能力のおかげで、どんなに危険なところであろうと、死ぬことはないけれど。
前腕部分に表示されているカラーを横目で素早く読み取る。致死率測定器は快調な白だ。
僕の能力は絶対絶命にはお手上げである。そのために、致死率百パーセントを回避する必要があるのだ。
『お前は、悠長すぎる。お前の能力が油断を生み、死を招くこともあるだろう。だから、これを貸そう』
マスターはそう言い、僕の腕に魔法をかけた。
手首を跨ぐように、手の甲から腕の半ばにかけて、電子的な棒状の光源が皮膚に張り付いている。オーパーツ、と言うらしい。言葉の意味はわからない。だが、時々マスターが自分に対して過度の心配をするときがある、ということはわかる。
危険度がないときは白、三十パーセント程度ならば黄色、五十パーセント程度ならば緑、そして八十パーセントならば青、百パーセントならば赤、という具合に危険度を表すのである。そのパーセンテージに合わせて、手首に光源の長さが伸びていく。『棒ぐらふ』というらしい。それが、赤にさえならなければ、僕はほぼ無敵である。
周囲は、命をかけた真剣勝負が繰り広げられていた。
人と人がぶつかり合う音、馬の嘶き、子供の絶叫、聞いていてあまりいい気分はしないBGM。
人間は守るべきものだ、というのが僕の信条だ。
人間は、優しい。人間は、弱い。
守るべき弱き愛しき存在が、このような愚かな殺し合いを行うことには、耐えられないぐらいの憤りを感じる。しかもこの戦いは、残酷王の名で知られるこの国を統べる王の、余興でしかないのだった。
巨万の富をえさに、申請者たちが、封鎖された闘技場内で殺しあうのだ。
奴隷や、罪人達は強制参加である。好きな武器を与えられ、制限時間を越えて、生きていたものが勝者となる、狂ったゲームだ。
僕は個人的に、国王に対して、憎悪すら募らせている。
今、鎮座して薄ら笑いを浮かべている冷酷人間には。
ヒトを殺さないという誓いを立てていなければ、即、首を刎ね、命を奪っているところだ。何故なら、このサディスティックな遊戯は、王が発案したものだからだ。
武器が足元に転がっている。
使用するために拾いあげた瞬間、頭の上をすごいスピードで鈍器が通過した。
星球武器、いわゆるモーニングスターというやつ。
……ああ、また『能力』を無駄遣いしてしまった。といっても、僕の能力は本人の意思とは関係なく自動的に発動するものだけど。
「危ないじゃないか」と怒りそうになって、思い出す。自分だけが、安全な舞台にいるのではない。
ここは戦場なのだ。
戦場と言えば、命の奪い合いは当然で。殺し合い、それだけで。
舞台は閉鎖された闘技場だ。逃げ場はない。
逃げれば王の兵士に殺される。逃げなくても敗北すれば殺される。
生き延びるには勝つしかない。それが、戦場だ。
僕の頭を全力でかち割ろうとして、当てが外れたおっさんの脇腹に、剣の柄をお見舞いする。
おっさんはぐっ、と、声にならない声を発し、もんどりうって気絶した。
殺生は好きじゃない。
殺す気でかかってきた以上死んでも仕方がないと思うが、殺しは良くない。特に対象が人間の場合は。殺すべき存在は、別にあるのだから。
『来るぞ、V』
『わかってる』
頭の中に鳴り響くテレパス。仲間のものだ。
誰にも聞こえない程度の音量で、小さく、呟き返す。
『上空1000メートル、900メートル、800メートル……』
「もう充分。見えた」
『視力、良すぎ。さすが野生児』
「うるさい、ヘイム」
闘技場の中央に向かって全力で走る。
何か小さな人影が落下してくる。
――人だ。それも少女。
魔術に包囲されて、黒髪をなびかせて、落ちてくる。
「ターゲット、確認。黒髪の少女」
『すごい魔力の匂い。そいつ、人間じゃない』
「そうらしいね。非音声魔術を使用してる。上級神族だ」
『やつらが来なければいいな。できるだけ早く対策をとったほうがいい。まぁ、ここは出現率は低レベルだから、そんなに危険度はないが』
魔術陣が周囲を点滅しながら、少女の体を包み込んでいる。まるで守るように。
ぐん、と、落下速度が落ちた。
どうやら重力系の魔術の効力が生きているらしい。
僕はそういうの、全くわからないけど。
ガタイのいいおっさんの肩を借りて蹴り上げ、飛び上がる。
落ちてくる少女を、受け止めた。
ルーン文字で飾られた魔術陣が生まれて、消える。
途端に、人間の重みが両腕にかかる。
魔術が、消失したのだろう。
陶器のような肌の少女だ。
作り物めいた顔立ちを、鴉の濡れ場色の髪が長く縁取る。
その繊細な睫毛が震えたのに、一瞬、見とれてしまう。
ぱちっと目が空いた時には、正体不明の罪悪感にかられて、心臓が跳ね上がった。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫」
少女は、助け起こそうとする手を制して、一人で立ち上がる。
どうやら、可憐な見た目に反して、ずいぶんな個人主義らしい。
「ここはどこ?」
大きな黒曜石の瞳が、不安げに周囲を見渡す。
戦いの場に綺麗な少女、おおよそ似つかわしくない図だ。まるで戦の女神が、愚かな人間の争いを嘆いて、天界から舞い降りたように。
「闘技場。戦ってるのは、罪人プラス志願者」
「何のために?」
僕は簡潔に答えた。
「自由、及び一生遊んで暮らせる財産のために。
マッドでスプラッタ好きの殺戮王が考えた悪趣味な祭り」
少女は眉を顰めた。
今一把握できていないようだ。
自分がどこにいるのかさえ、ぴんときていないように見える。
当然だろう。マスターの説明では、異世界を渡ってきたばかりなのだから。
「ご安心下さい」
少女が理解しようがしまいが、あのマスターが、こう言ったのだ。
『最上級の丁寧さで、接せよ。わたしだと思え。無論、全力で守れ』
そう命令を下された以上、僕はその命令に従うだけだ。
僕は身をかがめ、跪いた。
うやうやしく、頭を下げる。
「ご伝言があります。僕の上司から、あなたにです。
『世界崩壊の理由が知りたければ、わたしのところへ来い』
とのことです。マスターのところへ、お出でいただきたい。ただし、道中は危険になるかと思いますので、お守りいたします。命に代えても」
その瞬間、少女は、はっとした顔になった。何かを思い出したのか、焦点がぴたりと合う。
跪く僕の肩を、細い指でがしっと掴む。どこに力があるのかと思う程、相当な力がこもっていて、それが少女の切実な感情を伝えた。
「……君、何か知ってるの?
……さっき、災害が……。街が、大変なことになって……!
……助けが、必要なの……。戻らなきゃ……!」
「すみませんが、僕は何も聞かされておりません。あなたのことも、大切な異世界からのお客様である、としか聞かされておりません。詳しいことは後程。ご了承を」
少女は、震えていた。混乱のあまり自分を見失っているようだ。
細い肩が、哀れなほど恐怖に震い戦いている。
足元に飛んできた血濡れの腕を蹴り飛ばして、足場を作る。ひとまず、来ていたケープを少女に被せる。少しでも心細さが緩和されればいいのだけれど。
小柄な少女は、ケープに顔の大半まですっぽりと覆われてしまう。
僕には、少女を安全に、とある所まで連れて行く、という目的があるのだ。
「説明は、後程。ひとまず、ここから逃げましょう。僕のことはVとお呼びください。目的地まで、あなたをお守りいたします。……と、失礼します」
後方から風を切る音が聞こえたので、少女の肩を軽く横に押し出す。
矢は前方に立っていた奴隷風の男の肩に突き刺さった。
こうして、ゆっくり喋っている時間もないようだ。そして、観衆の視線をひしひしと全身に感じた。状況は変わりつつあった。
「おい、今……」
「空から降ってきた……よな」
王の兵士たちが騒ぎ始めた。
「……魔女よ! 穢れの血よ!」
貴婦人の金切声が響き渡り、観客が静まり返った。
その瞬間、銅鑼が二回、打ち鳴らされた。
休戦せよの意。
時が、ぴたりと止まったように、戦場が、静寂に満たされた。
まずい。状況は非常に良くない。
この世界では、とりわけ人間界であるミドガルドの西域、レイキャヴィーク王国では、特に力を入れている政策がある。
――魔女狩り、と呼ばれるものだ。
魔術の使用はおろか、魔力保持者の存在すらも抹殺しようとする政策。
今世紀最大の愚者にして狂気の王、オーラーヴ・トリュグヴァソン王が打ち立てた、恐怖政治の一環。
汚らわしい魔族の混血を排除し、聖なる人間の純潔だけを残す。そのためには拷問、殺戮、密告、監禁、国はどんなことでもする。概要をまとめると、このような方針だ。
魔力は魔力探知機によって検出され、魔力の使用時にメーターが使用強度によりふれる。1ミリでもふれたものは、投獄され、生きて日の目を見ることはない。
神は天上の存在である。
本来ならば、人間たちとは住処を異にする存在。
だが、そんな神の血筋が、時折下界と交わることがある。神とは言え、恋愛に支配されるのは人間と変わらないようだ。
混血は、魔力を生む。
つまり、魔力を持つ者は、すべからく神の末裔だ。
そのような背景の中、王の目の前で。
謎に包まれた、見目麗しい少女が、空から降ってきたのだった。
「……魔女か」
立ち上がったのは、殺戮王オーラーヴ・トリュグヴァソンその人だった。
老年の割に禍々しい気配を纏ったじいさんだ。
特に印象的なのが、どす黒い肌によどんだ目。
小柄な体のどこにそんな力があるのかと思う程、ぎらぎらとした瞳は血に飢えている。
「ふむ、自ら殺されにやってくるとはな。包囲しろ」
声は聞こえない。が、読唇するとそのようなことを言っているはずだ。
……面倒なことになった。ここで被害を出すわけにはいかない。
背後には、今だ状況を認識していない、怯えるばかりの少女がいて。
僕は彼女を、安全な場所まで連れて行くのが使命なのだ。
仲間が、問いかけてくる。
『……V、どうする』
「……今、考えてる。被害は出したくない」
『だが、兵がお前を攻撃したら、発動するぞ』
「……わかってる。ちょっと考えさせてくれ」
あっという間に王の兵士達に包囲される。
「……ひとまず、お下がりください」
不安そうな少女を背に庇いつつ、壁際へと誘導する。
「闘技申請者か!庇い立てするときさまも極刑だぞ!」
隊長クラスであろう、柄の悪そうな三白眼のおっさんが怒鳴る。
王が立ち上がり、残酷な笑みを浮かべるのが見えた。王の愉悦のために何万人が犠牲になったと聞いている。殺したい。
僕は、愛刀の柄を握った。どうせなら、今ここで、殺るか。
人間は、殺さない。だけど、あいつを殺せば。
どれだけの人間が救われることか。
かまわん。殺せ。
そう、王が命じたのだろう。
隊長らしき男が、追従するように、命令を叫ぼうとした。
ふと、王の言葉を制するように、王へと側近が近づく。
目立つ緋色の衣装を纏った貴族風の男だ。フードを被っているので、顔は見えない。
王に、何事かを耳打ちする。
王は、その男に絶大な信頼を寄せているのだろう。何か良からぬことを、吹き込まれたらしい。王が舌なめずりをするのが見えた。邪悪な笑みに顔を歪める。
この上なく、禍々しく。
2
すぐに、命令が下された。
少女を殺した者に、賞金総額を全て授与する。
王が提示した金額は、一人の人間が贅を尽くしても、到底使い切れるものではなかった。金に目がくらんだのだろう、闘技場内にいた人々の目の色が変わる。
残酷王の異名を持つオーラーヴ・トリュグヴァソンの意向に沿うのに、必死な者もいる。少しでも王に背反したとあれば、即刻公開処刑されるのは目に見えている。独裁政権の頂点に君臨する王は、指先一つで、人の命を奪う権利を有する。
だから、王直属の兵だけでなく、奴隷が、出場者が、罪人が、武器を構え直し、その矛先を僕たちに向けることも、無理からぬことである。
人が人の顔色を窺って息をひそめて生きている、そんな国家。自由意思も無くして、感情も殺して。
こんな、強制的なやり方で。
本来ならば優しいはずの人間に、牙を剥かせるなんて。
希望も、意思も、何もかもを奪い、侵食し、蹂躙している。
――許せない。
どす黒い感情が胸の奥から湧き上がるのを感じた。
「悪りィな! 金は俺たちが貰う!」
フライング気味に飛び出したのは三人の男だった。
一丁の拳銃を各々が構え、僕に銃口を向ける。入れ墨が肌をびっしりと覆っており、いたるところに傷があるので、堅気ではないだろう。邪魔な僕から始末しようという腹だろうか。
拳銃はアンフェアだが、武器のランクが不平等なのは、よりゲームの展開が読めないように、という主催者側の目的があるようだった。
黒髪の少女が、はっと息を飲み、身構えた。
僕は極めて冷静に言った。
「やめた方がいい」
三方から撃鉄を起こし、引き金を引く音が聞こえた。
「……その拳銃、安全の保証はしない」
「何だァ!? うるせェよ!」
「てめェは黙って死んどけや!」
かちり。
と、同時に、三つの爆発音が響いた。
男達の絶叫が響き渡る。観衆から、悲鳴が上がった。
三人の男は、銘々、指を抑えて、激痛にもんどりうっている。手首が花のように爆ぜ、そこから先が吹っ飛んでいる。傷口から鮮血がシャワーのように噴出していた。
火薬が燃えながら弾け、顔中にめり込んでいる。
タンパク質が焼け焦げる匂いが鼻をついた。
群集から、悲鳴があがる。
「……お前、何をした!?」
痛みに脂汗を流し、這いつくばりながら、男の一人が言った。
「……僕は何もしていない。ただの腔発だよ。銃の強度が落ちていたか、または火薬の質が悪かったみたいだね」
腔発。
つまり、銃身または薬室が爆発する現象。
しかし、三丁同時にその現象が起こるのは、どれくらいの確率だろう。きっと、計測してみると限りなく0に近いに違いない。
致命傷にはなり得ない。せいぜい指の数本を失うだけだ。
僕は、平然と男を見下ろした。
「フェアじゃないから言っておく。信じられないだろうけど。
今までに僕に銃を向けて無事だったのは、一人しかいない。大抵は腔発だ。他者に斬られたり、手元が狂って自分を撃ったり。引き金を引く直前、隕石に頭を直撃されたやつもいる」
「ふざけんなぁ! 糞がァ!」
「……だと思う。それがまともな反応だと思うよ。僕も、自分の能力を知った時は、嘘みたいだと思った。
だが事実だ」
「……能力だと!? 流浪者の末裔か!」
悲鳴が上がった。
能力。それは、神族の血を色濃く受け継いだ末裔が持つ、固有の力のことである。
基本的には一人の神族に一つの力がある。
遺伝子上に組み込まれた能力は、魔力の目覚めと共に顕著になる。齢を重ねるに従い、それぞれの遺伝子情報に従ってある一定の能力へと固有化する。
神族の力が、魔術の結露となって発現したもの。
それが能力だ。その能力を持つものを、流浪者の末裔という。
ちなみに、昔は血の優劣の認識がなく、神は気軽に人間の前に姿を現していたらしい。そしてありあまる時間を飽いて南船北馬、旅を楽しんでいたという。そのため、昔の人は親しみを込めて流浪者、と呼んだという。
ある程度の血の濃度がないと能力は結実しないため、どのくらい神の血を色濃く引いているか、という基準にもなる。直系であればその力は計り知れず、末端であれば発言すらしないこともある。
「貴様も、魔物か! その女の仲間だな!」
僕らを取り囲んだ群集が、気色ばむ。
「殺したくないから先に言っておく。
僕の能力は暴走する強運。害を為すものがあれば、万能なる神の意志により自動的に強制排除される。発動、非発動は僕には止められない。だから」
僕は、少女を肩に担いで、跳躍した。
最も安全な位置で、高みの見物を決め込んでいる、一番の元凶へ向かって。
王を取り囲む輪の中央に着地する。
オーラーヴ・トリュグヴァソン王。残酷王とも呼ばれる、老年の男。
民の上に胡坐をかいて私腹を肥やし、国民の命を自らの愉悦のために犠牲にする、歴史上最悪の王。
その枯れた首筋に、錆びた剣をあてがう。
ひっと老人が息をのんだ。
「命令を解除しろ。僕らはこの場所から無事に逃げられればそれでいい。無益な殺生はしたくないが、死にたければ、攻撃してくれていい。……ちなみに、僕を殺せるのは神界でも片手で数えるほどしかいないことを付け加えておく」
低い声で告げる。最終勧告のつもりだった。
王は、側で見ると小柄だった。
こんな小さな老人に、民衆は振り回されているのか。
今、この手を、少し右にずらせば。そう、五秒あれば十分だ。
頸椎を切断して、あっという間に絶命させられる。
王の残酷さに人々が苦しむこともなくなる。
――だが。
邪魔だから殺す。都合が悪いから殺す。それでいいのか。
それは、今まさに僕を見上げている、残酷な王と同類の行為なのではないか。
僕は逡巡した。その迷いが、一瞬の隙を生んだ。
3
サーベルの細い刀身が風を斬り唸る。
鈍い金属音が弾ける。音もなく舞う剣先に、刀が弾かれた。
本能的に防御に回る。
懐に間髪入れず斬撃が来る。間一髪で受け止めた。
……重い一撃。
斬り交わさなくてもわかる、かなりの手練れだ。
灼熱色のマントが優雅に宙を舞い、紅蓮の残像を生んだ。
ピピ、ピピピ。
電子音が鳴る。
ちかちかと視界の片隅で赤い警告ランプが光った。
腕に刻まれた棒状のバロメーターがリミットを振り切り、電子的なアラームが危険を知らせた。赤は、致死率百パーセントを示している。つまりは、僕を殺せる相手ということだ。人間界へ下ってから一か月、久しぶりに出会った。鬩ぎ合う生と死の予感に鼓動が高鳴る。
緋色の騎士だ。王の側に佇んでいたのを思い出す。
少しでも隙を見せれば、躊躇いなく斬られる。
剣を押し合う腕が震えた。
……重い。押し負ける。
咄嗟に相手の刀身をとらえ、剣を接触する。切り上げると同時に手首を返し、相手の首筋を狙った。
滑らかに右へ回避される。
完全に読まれてる。鋭いカウンターが繰り出された。
剣を振り下ろす音がし、両腕の間を縫うようにして、切っ先が飛び込んでくる。
身体を捻って紙一重でかわす。
鮮血が空中に散った。
頬を熱いものが一筋、流れる。
それを無意識に、ぺろりと舐める。鉄の味。
ご都合主義な能力は死んだように息をひそめている。
おかしい、魔術が働かない。
通常の人間なら、奇妙な現象が既に起きているのだが。
この男、何者だ……?
正体を訝ったところで、男がサーベルの切っ先を地面に下した。
刀身は殆ど垂直だ。
愚者の構え。一見ノーガードに見えるが、隙と捉えると痛い目にあう。
てこの原理で跳ね上がった剣先は、腕で持ち上げるよりも速いのだ。
「……退け」
その声には、聞き覚えがあった。
紅蓮のフードの隙間から、紺碧の瞳が覗く。
「……!」
男の正体に思い当たる。
驚いた。どうして。
剣先を床に落とし、何故この場所にいるのか、問おうとした、その時。
『……まずい、V! ――レベルAだ』
ヘイムの呟きが響き。
円形闘技場の一部が崩れ落ち、瓦礫が派手に飛散した。
壁が崩落する。
牢獄のように隙間なく囲まれた石造りの壁が、衝突により決壊したのだ。
もう、と粉塵が立ち込めた。
その、隙間から。
ぎらりと、血に飢えた瞳が覗き。
巨大な咢が飢えたように開かれた。
それは、この世の者とは思えないほど邪悪で。
――刹那の静寂の後。
観衆が、奴隷が、兵士が、一斉に悲鳴を上げて逃げ出した。
怖気立つ禍々しい咆哮。
地の底から響くような、獣の鳴き声。それは、音圧となり鼓膜を震わせる。
『出現率は低いはず。しかも、日中に。ありえない……』
仲間が完全に動揺している。
『まず一度退却した方がいい! とにかく、目標を保護しろ。 ……おい、聞いてるか!』
僕は、凍りついたように身じろぎしなかった。
『……頼むから落ち着け!! ――V!!』
握りしめた剣の柄が、みしっ、と悲鳴を上げた。
壁の隙間を潜って現れたのは、二十メートル以上の長さはあろうかという、大蛇だった。
閉鎖された闘技場の内部は、一転して、血を好む獣の餌場となった。
悲鳴、絶叫、逃げ惑う人々。
兵は統率が乱れ、ただ右往左往するばかりである。
王と取り巻きたちは血相をかかえ、安全な場所へと避難し始めた。
戦いどころではなかった。
大きな怪物が、円形闘技場で、人々をなぎ倒し、襲い、喰らっている。
――それは、悪夢のような光景だった。
ぬらぬらとした青白い鱗、洞のような眼。
大きく開口すると、鋭い牙がぎらりと光った。
大蛇は鎌首をもたげ、不気味に揺らしている。
まっすぐにこちらを見た。魔力の匂いを、感じたのだろう。
細長い舌が、咢の狭間でぬらぬらと揺れている。
鋭利な毒牙の隙間から、かつては人の頭部だった哀れな肉塊が地面に落ちた。
視界が真っ赤に染まる。
まただ。また、大事なものを奪う。
頭を鈍器で殴られたような衝撃、脳裏をフィードバックする風景に、息が苦しくなる。
――忘れたくても忘れられない光景。
累々と重なる死骸の上で、血にまみれ、毛皮を真っ赤に染めた魔物。
殺戮に満足した汚らわしい魔物の薄ら笑いがあるだけで。
殺戮と死の匂いが立ち込めて。
そこには、もう、何もなく。
焼きたてのパンの香りも優しい腕の温もりも笑顔も愛の言葉を交わす恋人も親切だった隣のおばさんも冗談好きな青年も美しい夕暮れも大好きだった姉さんも静かな秋の夜も豪勢な夕食も心を込めて作ってくれたマフラーも僕に懐いた元気な子供たちも何もなく。
誰もいなくて。
視線がぶつかった瞬間。
大蛇は顔を歪めて、笑った。
「霜の巨人!!!」
理性は、呆気なく激情に流された。
20120603 UP
20120604 修正
20120608 修正
20120610 修正
20120701 修正
20120702 修正