1章 ― 不可侵領域からのメッセージ ―
時間の断片 知られざる男
2012年5月 東京
1
勿忘草色の空は淡く、宇宙まで透過しそうだ。
春うららかな五月の空を切り裂くように、白い球が弧を描いて、どこまでも飛んでいく。奇跡のようなホームラン。
固唾を飲んで試合を追っていた観客が、どっと沸いた。
応援していたクラスメート達が思わず立ち上がり、抱き合って喜ぶ。クロエせんぱああぁぁぁい、と黄色い甲高い掛け声が上がる。春のソフトボール大会の決勝戦を観覧していた下級生達だ。
その声に苦笑いしたのは、長い黒髪を高い位置でポニーテールにした少女である。たった今、東京都立富士見高等学校の2年1組を窮地から救い、優勝へと導いたヒロインでもあった。
少女の名を、黒江 奏という。
大きな瞳ときりっとした眉が印象的な、中背の少女だ。作り物めいた顔立ちではあるがその容貌には並々ならぬ意志が込められている。一塁、二塁と駆け抜けるさまは、力強さと同時に、洗練されていて優雅ですらあった。胸のゼッケンには、2-1と刻まれている。
下級生達の女子高ばりの応援に、しょうがないな、もう、そう思っているのだろう、思わず苦笑いが浮かぶ。
ホームベースに戻ってくると、ソフトボール大会で優勝をかけて戦っていた同じチームのメンバーが歓声を上げて飛びかかってきた。
「奏~!!! あんた天才だよ!」
「あのタイミングでホームラン打つなんて、さすが!!!」
サヨナラ満塁ホームラン、しかも七回裏、三点差を翻しての逆転勝ち。誰もが相手チームの勝ちを予想していただけに、それを裏切る結果に敵も味方もなくグラウンドは湧きかえっている。
「そんな。皆のおかげよ。チームプレイの勝利だわ。諦めなかったから、ここまで来れたんだもの」
「……そんなふうに言えるなんて、謙虚だね~!」
「奏、今日の打ち上げはあんたが主役だ!」
チームのメンバー達は興奮し、大いに盛り上がっている。ハイタッチに次ぐハイタッチ。春先に汗まみれのおしくらまんじゅうはいただけない。周囲の熱気とは裏腹に、衆目のヒロインである奏は、胸中でこっそりため息をつく。
このままでは胴上げされかねない勢いにたじたじとなり、喉が渇いたと適当なことを言って輪を抜け出すことにした。金魚のフンというよりハーメルンの童話を思い出させる行列が出来かねないのを何とか固辞し、水飲み場へと一人歩き出す。
水飲み場付近は校舎の裏手にあり、球技大会が開催されている現在は人気がない。その静けさは奏をほっとさせた。
汗をかいた顔に冷たい水を浴びると、心がすぅっと落ち着いていく。
ふと、視界の端を白いひらひらとしたものが過ぎり、視線を向けると蝶が舞っている。蝶は太陽の方向に向かってふわふわと飛んでいき、逆光に照らされて見えなくなった。
彼女は、元来、一人が好きなのだ。ちやほやされて、しかもいい顔をとりつくろわなければならないのは、非常に疲れるのだった。
ぱしゃり。
熱気をはらんだ肌に、ひんやりとした水が心地よい。母が愛用しているダウニーという柔軟剤の匂いが、リラックマ柄のタオルからふんわり香る。
目を閉じたまま、水飲み場の上部に指を這わせ、細い銀フレームの眼鏡を探していると、眼鏡の方から掌にやってきた。
「はい、黒江さん」
「あ、沢木先輩!すみません」
現3年生を示すシーグリーンの体操着を着た、温和な顔立ちの男が眼鏡を差し出している。
目が細く眉が八の字形をしているので、泣き笑いのようなユニークな雰囲気を醸し出している。痩せぎすのためひょろりとしているが、筋肉はしっかりと付いているのが体操着の上からでも見て取れる。
都立富士見高校 現生徒会長、桐生 朔也である。雰囲気はとぼけているが、未だに体罰を行うと宜しくない噂のある強面の体育教師に土下座させただとか、実はこの学校で幅を利かせている不良グループと懇意にしているという諸説が乱れ飛んでおり、同校の生徒に一目置かれているのは周知の事実である。
「3年男子ってバスケでしたよね」
「そ。二回戦敗退。これが最後の球技大会だから、次期生徒会長殿にいい試合結果を聞かせようと思って、張り切って頑張ったんだけどさ~」
とほほ、と肩を落としている。
次期生徒会長とは奏のことである。本人は現在副会長をしているので本当のところもうやりきったかなという気分でいるのだが、推薦制度がある以上、生徒会長になるであろうというのが同校生徒達の共通した意見だった。
「そういうこともありますよ。運が悪い日だったのかも」
「雪の女王からそんなにありがたい言葉を掛けてもらえるだけで、ずいぶん癒されるよ~。でも、二人っきりでカフェとか行けたら天にも昇る心地だけどね。ところで、今度の土曜日、暇?」
「遠慮しときます。読みたい本が溜まってるの」
奏は冷たく突っぱねた。
桐生は断られるのももう五十回目だね、よよよ、と大げさな泣きまねをしている。
奏は、見たこともないような聖母の微笑みを浮かべて、一語一語はっきり区切るように言った。
う ざ い。
クリティカルヒットを無残に喰らった桐生は、物言いたげにしつつも引き下がったようである。天使のような見た目に反して、時々、コメントに困るほどの猛毒を吐くこの少女を、高校の生徒たちは、アンデルセンのおとぎ話になぞらえて雪の女王と呼んでいる。
そうそう、それでいい。
俺は、腕組みをして満足そうに呟く。組める腕などは俺にはないが。
毎回デートに誘ってくる不躾な輩は絶対零度の氷漬けにしてやればいいのだ。
おっと、まだ自己紹介が済んでいなかったな。
はじめまして。俺は誰にも知られざる男。この世界の誰の認識からも抜け落ちてしまった、唯一無二の惨めで哀れな存在だ。
正体は何かって?
――それは、難問だな。
だって、俺自身にも、さっぱりわからないのだから。
強いて表現するとすれば、亡霊。
天使、それとも、悪魔?
……いや、違う。
生前の記憶もない。誰かに善をなすことも、悪事を働くこともない。物心ついたときから、こうしてただ宙を彷徨っていた。目的もなく、行くあてもなく、ひたすら存在していた。
手も、目も、鼻も、足もない。見まわしてみても視界には姿形らしきものも見えず、どうやら意識だけの存在らしい。
人間は、生きるためだけに、生きることはできない。だとするならば、俺は人間ではないのだろう。
もちろん、人には身体があり、俺には身体がない。故に、俺は人間ではない。単純な三段論法からも導き出される事実だ。
だから、俺のような訳のわからない存在のことは気にしないでくれていい。喋る地の文とでも認識しておいてくれ。
そんな俺の目の前には、いつも彼女がいる。まるで彼女の空気の一部が俺であるかのような錯覚を覚えるほどに、無意識に少女を追いかけている。先ほど雪の女王と呼ばれた少女。
はっと目を引くようなくっきりとした顔立ちだ。
背は高くはないがすらりとした肢体、艶やかで長い黒髪。
陶磁器のような白い肌。
細い銀色フレームの眼鏡が知的で、いい。
セピア色のブレザーと青系のチェックのスカートをモデルのように着こなしている。
時が経過し、シーンが教室に移る。教壇に立つ、二人の人間のうち、一人が彼女だった。
「図書委員」のことについて、皆の前で意見を募っている。
ここ数日の夢見の悪さが原因と思われるが、少し表情に陰りが見られる。彼女を良く知る人物でなければ、気が付かない程度だが、ずっと彼女を追いかけてきた俺にはわかる。もう一人のペアである男子は、話し合いそっちのけで、横目でちらちらと彼女のことを気にしている。こちらは、先日の桐生とは別の男子だ。そいつも少女と同じように学級委員らしく、そいつも先日の桐生のように、あきらかに異性としての興味を惹かれていることは想像に難くなかった。
地の文の分際でと言うなかれ。あえて言おう、面白くない。
少女は、いわゆる、高校のアイドルという存在だ。若干、言葉が古いが。
しかし、ちやほやされるのは当然と思われる。
容姿端麗。
毎回のテストの成績は学年1位。
走らせれば陸上部生徒と同じくらいのタイムを記録する。
何をやらせてもびっくりするような上出来、とくれば、目立つのは想像に難くない。
しかし、本人はそのような周囲の反応に戸惑うどころか、厭わしくさえ思っているようで、男女問わずクラスメートとは若干距離を保っている。
それがますます本人に神秘的なヴェールをかけているようだ。
ちなみに、奏の隣に立っている男も、先日、彼女にラブレターを渡したという経歴がある。結果はこれまでに見たこともない程のスルーっぷりだったということを付け加えておこう。
うん、そうだろうな。と、妙に安心する俺だ。
「では、立候補してくれましたので、図書委員は戸塚君、山本さんでお願いします」
少女の鈴のような声が、そう締めくくる。
HRの時間はつつがなく進行しているようだ。
俺は、空にぽっかりと浮いた雲を眺める。
雲も、俺も、漂っているという点では同類かもしれない。しかし、雲には水蒸気という正体があり、恵みの雨を大地に降らせるという存在意義があり、俺には両方がない。
その時点で大きく違う。
しかし、逆に、自分が誰かなんて本当にわかっているやつがどのくらいいるだろうか?
と、ささやかな抵抗を試みてみる。
……愚問だ。
思考の内容さえ退屈になってきた。
退屈だから、少し、漂っていよう。
どうせ万物は、俺とは無関係に、流転するのだから。
「黒江さん、ちょっと待って」
いつの間にかシーンが変わっており、奏は廊下にいる。友人たちと一緒に、教室を移動するところのようだ。
保健室の前で、呼び止められたのだった。
白衣を着た顔なじみの教諭が、扉を開けて、奏を手招きしている。
「先行ってて」
「うん」
奏は一緒に歩いていた友達を促して先に行かせ、白川に向き合った。
白川は、世話好きな、生徒想いの先生だ。
ちょっとふくよかな体型に白衣を羽織っている。化粧っ気は全然なく、身なりからは清潔感が溢れている。
「同じクラスの川上さん、あれからどう?」
教諭は、学校に来なくなってしまった生徒を心配しているようだ。
「今週から顔を出すようになりましたよ。カウンセリングのおかげかな、すごく吹っ切れたみたい」
「そうね、ご家庭が複雑なんだけど、あの子自身はいい子だからね。良かったわ。何かあったら、すぐ保健室来るように白川が言ってたって伝えてね。あ、あと」
教員は、首を傾げて、言った。
「もう一人来てない子がいるでしょ、あなたとよく一緒にいる男の子。えっと、名前……」
白川は、眉をひそめて考える。
奏は、きゅっと唇をかみしめ、首を振った。
「いません」
奏は俯き、その表情は見えなくなった。
「え?」
「わたしとよく一緒にいる男子なんて、存在しません」
白川は、怪訝そうな表情をした。そうよね、私何言ってんだろ。と、呟く。
「ごめん、なんか疲れてるみたい。気にしないで。呼び止めてごめんね」
「いえ。じゃあ、行きますね」
「うん、ありがとう」
奏の声は、心なしか硬い。
同じようなことが、何度もあるからだろう。またか、と思っているに違いない。
――これが、奏を取り巻く最も奇妙な現象だ。
近しい異性の友人など、奏にはいない。
そのように誤解される原因すら、思い当たらない。
しかし、友人には彼氏がいると思われていることがある。
一人で入った喫茶店では、水の入ったグラスを二つ配られる。
母親だって、いもしない幼馴染について話してくる。
それならまだしも、自分すら、無意識にふたつのコーヒーカップにコーヒーを淹れている。誰もいないリビングで。
しかし、友人や母親にどうしてそのような行動の根拠を尋ねると、すぐに矛盾に気が付くのだ。
結局は、疲れていることや、勘違いのせいにされ、話は忘れ去られていく。
認識だけが独り歩きしている。
誰かの存在だけが、この世界から、不自然にくっきりと切り取られている。
些細な引っ掛かりが、日に日に大きくなっていくのだ。
あの夢の青年も、焦燥感の現れなのかもしれない、と奏の瞳が、語っている。
その時、予鈴のチャイムが鳴った。
奏は、我に返り、軽い足音を立てて友人を追いかけていく。
小さな背中を、俺は見送る。
足りないものがあったとしても、
誰かが突然消えたとしても、
地球は無慈悲に回り続ける。
世界が、ワンピースだけが欠けてしまったジグソーパズルのようだとしたら。
その、欠けてしまったワンピースとは。
「……考えても無駄だ」
俺は、ひとり呟き、思考をやめる。
それ以上追及しては、いけない気がして。
2
まだ肌寒い5月、放課後、新宿。
高層ビル群から少し離れた、とある場所で。
「世界は、あなたの力を必要としているのですから」
見知らぬ男がそう告げた瞬間、激しい揺れが、奏を取り巻く世界を襲った。
――時間軸を、少し前にずらしてみよう。
3
新宿、新南口。
駅ビル前の雑多な喧騒を抜けると、そこにはタイムズスクエアがあるに続く遊歩道がある。
紀伊国屋へのアクセス。
JRの線路やホームを横断して、タカシマヤタイムズスクエアの東急ハンズ前と接続するデッキが続いている。新宿のビル群の隙間に、突然出現する遊歩道のおかげで視界は開け、ちょっとした見晴らしだ。
奏は本が三度の飯より好きだ。
時間があると、本のページを捲る。それこそ、貪るように、読む。乱読家というやつだ。
だから、品ぞろえの良い大きな本屋は、彼女にとって宝箱と同じなのだ。
お気に入りの本屋に続く空中デッキを歩いている途中。
見知らぬ男に会ったのだった。
「あの、すみません……」
低い声に、奏は振り返った。
一人の男が、少し離れた位置にいる。
背の高い男だ。二十歳くらいだろうか。
金髪に碧眼。見た目は、イングランド系。
だが、流ちょうな日本語のイントネーションに不自然さはない。
洗いざらしのジーンズに、シャツと、ラフな格好をしている。
雰囲気や身なりで、育ちがいいのが一目でわかる。
「……何ですか?」
奏は、硬い表情で問い返す。
新宿では、声をかけられても、足を止めてはいけない。それがルールだ。
特に、女性一人で歩くときには。
手相を見るという名目の宗教勧誘、アンケートという名目の多額の物品販売、他人を食い物にしようとする輩は後を絶たないのだ。
だが、彼女は考え事をしていた。
だから、思考を遮断する雑音にいらつき、思わず剣呑に声を荒げてしまったのだった。
わざわざ用を尋ねるところが、律儀と言えば律儀だ。
ばかばかしい。聞くまでもない。きっと、アンケートかナンパだ。
そう思ったのだろう、自分の迂闊さに、ため息をつき。
踵を返そうとして、男を一瞥して。
「クロエさんですよね。良かった、見つかって」
男は、心底ほっとしたような様子をしていた。
「ここによく来るって、以前、あなたが、言ってくれたから」
奏は、ぴたりと足を止めた。
そんな。目の前の男に、奏は見覚えがなかった。
彼女は怪訝そうに眉をしかめた。
「そんな訳ない。わたし、一度でも会った人のことは忘れないもの」
「ええ、知ってます」
奏の瞳に、動揺が走った。彼の言った事には明らかに違和感があった。
彼は、人のよさそうな笑みで、こちらに語りかけてくる。
背が高い。180センチは超えているだろう。
身長が、けして高いとは言えない奏は、見上げるような体勢になる。
純粋な、優しそうな目が奏を見下ろしている。
表情を見て、とっさに悪人ではないと思う。
だが、それにしては発言に矛盾がある。
「会えて良かった。もう、時間がなかったから」
……何だろう。
心臓がざわめき始める。
「ごめんなさい。わたし……」
眉をひそめたら、男は首を振った。心配ない、とでも言いたげに。
「わかっています。俺のこと、見覚えないですよね、あなたの方は。時間がないですから、手短に言います」
明らかに、その発言は、矛盾を内包している。
先ほどから、何度も。しかし、その矛盾を、指摘する前に。
男は、真剣な顔をして、こう言った。
「力を解放してください。多次元の魔術師」
「え?」
「世界は、あなたの力を必要としているのですから」
その途端、彼女のいる場所はあっけなく崩壊したのだった。
激震。
地震というカテゴリを優に凌駕する振動に、悲鳴が上がる。
恐怖と混乱。
群集は凍りつき、パニックになった。
奏は跪いた。というより、立っていられなかったようだ。
隣にいた、ベビーカーを押していた女性も、赤ん坊に覆いかぶさるようにしてしゃがみ込んでいる。
地震だろうか。
脳裏を過ぎるのは、記憶にまだ新しい大災害だ。
この国には、地震が多い。だから、大抵の地震には、人々は慣れている。
そんな環境下にも係わらず、ただ事ではないと感じるような、激しい揺れだった。
だが、大地の揺れだけには、災害は留まらなかった。
爆風が、街を襲う。
衝撃で、高層ビルの窓ガラスが砕け散る。
鋭利な花弁のように、きらきらと光りながら、落ちてくる。
ビルがひしゃげ、崩落し、その巨塊の一部が自動車を潰す。
高架が、金属軸ごとうねり、折れ曲がる。
タイミングが良すぎた。だから、奏は、テロか何かだと思った。
「……何かしたの!?」
「何も。これは、平行世界全ての収束であり、神の定めた予定調和ですから。
――最も、俺は希望した訳じゃないですけど」
先ほど、謎の言葉を奏に告げた男は、平然と佇んでいる。
まるで災害が男を避けているかのように、男の周囲だけが、平穏だ。
「……何言ってるのか、さっぱりわからないんだけど!」
「そうでしょうね。守りたかったけど、俺は守れなかった。だから、あなたに託します。未来を」
彼はさらりと言った。
海のように蒼い、どこか哀しげな瞳で、じっと奏を見下ろしている。
その表情に、哀しみはあれど、動揺はない。
こいつが何かを呼んだのか。と、勘ぐりたくもなるほどの訳知り顔だ。
奏は、それ以上相手にすることを諦めたようだった。無理もない。
発言が、中二ワールド全開だ。相手にしている時間はない。
周囲は、阿鼻叫喚だった。
まるで地獄絵図さながらだ。
叫び、うずくまり、逃げようとする人々。
高架が、陥没する。人が、乗用車が砂のように、ばらばらと高みから零れ落ちる。
ビルが崩れる。電柱が折れる。地面が二つに裂けていく。
大混乱の中、わかっているのは一つだけだった。
やばい。これはただ事ではない。
しかし、当然のことながら、意識体だけの俺にはできることはない訳で。
すさまじい爆風に、奏は体ごと吹っ飛ばされそうになる。
「――っ!!!」
奏は、小さな悲鳴を上げ、顔を伏せた。
彼女の華奢な体が、重圧に耐えかねている。
思わず、手を伸ばそうとして、自分に手がないことを思い出した。
せめて庇いたいが、庇うための体はない。
くそ。何てこった。せめて、体があったなら。
この時ほど、自分の存在の在り方を呪ったことはない。
その時、視界が、真っ赤に染まる。
奏は、大きな目を真ん丸にして、空を見上げる。
――不吉な、赤い星が。
途方もなく、巨きな、惑星が。
空一面を支配していた。
――それはまるで世界の終末だった。
赤い星は、悠然と、音もなく、地球に接近していた。
よろよろと立ち上がろうとする奏。
ひとまず、安全なところに。
そうは思うけれど、安全な場所がどこか、わからない。
先ほどの奇妙な男のことなど、頭から飛んでいた。
「危ない!」
奏は、初老の男性に突き飛ばされ、よろめいた。
彼女のか細い悲鳴と同時に、すぐ近くで、ぐしゃり、と嫌な音が響いた。
突然、目の前を、大きな壁が塞ぐ。
何が起きたのかを理解するには、数秒かかった。崩落したビルの一部が、今まで彼女がいた場所を、押しつぶしたのだ。
……そこには。
……そこには、奏を助けてくれた男性がいたはずで。
もうすでに、相当な重量の巨石の下敷きになっているはずで。
「……!」
彼女は凍りつき、顔を覆った。
声にならない声を上げながら。
「……痛っ……!」
奏の左目に激痛が走った。
というより、熱い。
――突然、奏の体から、光が漏れだした。
足元から、文字が湧きあがる。泉のように、沸き上がり、踊りながら周囲を囲んでいく。
それは「ルーン文字」と言われる文字記号だと、博学な奏は識別した。
その文字が、一つ。
――二つ。三つ。
十。五十。百。千。万。
――無数に。
彼女を中心に、不思議な模様が展開される。
点だったその文字が、線を結び、丸く奏を取り巻いた。
文字が集積し、不思議に重なり会い、意味と意志に基づき、模様を織りなす。まるでタペストリーのように。
魔法陣、とでも表現しようか。
奏の髪が、ふわり、と風になびいた。いや、風ではない。
重力に逆らって、上に引っ張られる。身体が、ゆっくりと浮き上がる。
つま先が地面から離れ、彼女は思わず悲鳴を上げた。
「何、これ!?」
ふっと重力が回転し、一瞬の眩暈の後、奏は空へと浮かび上がった。
いや、違う。浮かんでいるのではない。
――落ちていくのだ。
空へ向かって。赤い星へと。
金髪の男は、相変わらず無言で佇んでいる。
目が合うと、男は何事かを呟いた。
口の動きから、男の言葉を類推する。
『運命を、変えてください』と。
奏は、自由落下の速度で、吸い込まれていった。
空へと。
空一面を支配する、赤い星へと。
20120703 加筆