六
七月の半ば、わたしは初めて二重音を聴いた。
花音がリハーサル後に一人でハミングしていた。ドアの外にいて、ノックする前に聞こえてしまった。一つの音の中に、二つの音程が混在していた。声が自分自身のエコーと正確にずれて重なっているような、奇妙な響きだった。
怖い、と思った。それと同時に、もう少し聴いていたい、とも思った。その二つが同時にあった。後者に気づいた瞬間、わたしはドアをノックした。気づいたことを、なかったことにするように。
ドアを開けて入った。
「聴こえましたか」
「はい」
「変な音ですよね」と花音は言った。淡々とした口調だった。「自分で歌ってて気持ち悪い。一人で歌ってるのに、誰かに一緒に歌われてるみたいな」
花音は白湯のコップを両手で包んだ。
「怖いですか」とわたしは聞いた。
「来るべきものが来た、という感じです。驚きがない」
「それは強さですか、それとも諦めですか」
「朔子さんは、どう見えますか」
「両方だと思います。九鬼周造という哲学者が、『いき』の構造というものを書いています。滅びの自覚を内包しながら、なお色っぽく在り続ける態度。諦めと意気地が同時にある状態」
「知らなかった」と花音は言った。「でも、好きな言葉です」
「あなたの歌い方がそれだと思っていました」
「朔子さん」と花音は言った。「マネージャーとは思えないことを言いますね、時々」
「すみません」
「謝らなくていい。好きなので」
その言葉が落ちた後、二人とも少し黙った。外から雨の音が聞こえた。七月の夜の雨だった。
後で医師にその話をすると、diplophoniaという名前を教えてくれた。声帯の左右が同期を失うと、一つの声の中に二つの音が生まれる、と。名前がついた瞬間、その音はもう怖くなかった。名前がついたものは、怖くなくなる。そのことの方が、怖かった。




