四
春が来て、花音は歌い続けた。
グループの活動は、冬のうちに終わっていた。理由は聞かなかった。花音も話さなかった。
週に三本のライブ。月に一本のワンマン。合間に楽曲制作。朝のリハーサル、夜の特典会。わたしは花音の一日のほぼすべてを把握するようになった。起きる時間、食べるもの、眠れない夜に流すアルバムの名前。首にカイロを当てる癖。リハーサル前に必ずコップ一杯の白湯を飲むこと。高音が出なくなってきたとき、気づかれないように息継ぎの位置を変えること。
担当になって二ヶ月が経った頃、わたしは花音のリハーサルに毎回立ち会うようになっていた。最初はスケジュール管理のためだった。それが次第に、ただ聴くためになっていた。リハーサル室の端に立って、花音が同じフレーズを何度も繰り返すのを聴いた。花音は自分の声を常に試していた。今日はどこまで出るか、どこから出なくなるか。声域の境界線を、毎日少しずつ確認していた。
ある日のリハーサル後、花音がわたしに言った。
「朔子さん、毎回来ますね」
「来てはいけませんか」
「いけなくはないですけど。何を見てるんですか」
「聴いています」
「何を」
「変化を」
花音はわたしを見た。「変化、わかりますか」
「少しずつ。でも、確かに聴こえます」
花音はそれ以上何も言わなかった。次の日も、その次の日も、わたしはリハーサル室の端に立った。花音も何も言わなかった。ただ、わたしが入ってきたとき、一度だけ目線を向けるようになった。来た、という確認。それだけだったが、それはわたしにとって何かだった。
三月の下旬、花音がライブの後にわたしを呼び止めた。
「今日、時間ありますか。来ますか」
連れて行かれたのは、会場から歩いて十分の古い喫茶店だった。昭和の内装がそのまま残っていた。花音はホットミルクを頼んだ。わたしはコーヒーを頼んだ。
二人で座ったまま、しばらく何も言わなかった。
「ここ、よく来るんですか」とわたしは聞いた。
「声がよく出た日は、ここに来ることにしてた」
「今日は、よく出ましたか」
「まあまあ。先週よりは」
ホットミルクが来た。花音は両手でカップを包んだ。白湯のコップを包む癖と、同じ仕草だった。
しばらく、窓の外を見ていた。それからわたしのほうに目を戻して、言った。
「朔子さんが来ると、わかる。声で。空気が変わる、という感じ。聴いてる人がいる、とわかると、もう少し出る気がする。声が。根拠はないけど、そういう気がする」
「それは、いいことだと思いますか」
「わかりません」と花音は言った。「自分のために歌いたいのか、誰かに聴かれたいのか。考えるほど、わからなくなる」
その言葉をわたしはノートにも手帳にも書かなかったが、今でも正確に覚えている。
わたし自身もそうだったからだ。花音の声を聴きに来ているのか、花音を見ていたいのか。考えるほど、わからなくなる。その言葉を、花音は先に口にしていた。
帰り道、わたしたちは駅まで同じ方向を歩いた。花音が先を歩き、わたしが半歩後ろについた。桜がもう少しで咲きそうな並木道だった。街灯の下、花音の影が伸びた。わたしの影が、その隣に伸びた。




