一
はじめて花音の歌声を聴いたのは、渋谷の地下、キャパシティ八十人のライブハウスだった。
二月の末だった。外は粉雪が舞っていたが、会場の中は汗と煙草と安いヘアスプレーの匂いが混ざり合って、すでに夏のように蒸れていた。わたしは仕事として来ていた。所属事務所のプロデューサーに「一度観ておけ」と言われ、スケジュール帳の隅に走り書きしたライブハウスの名前を頼りに、半ば義務感で地下への階段を降りた。
対バンライブだった。その夜は七組が出演し、花音のグループは六番目だった。わたしはバーカウンターの端に立ったまま、五組目までを半分上の空で聴いていた。仕事の電話が二本入った。トイレに行った。ドリンクのグラスを持て余した。
六番目の転換のとき、舞台袖からメンバーが出てきた。
四人だった。センターに立ったのが花音だと、後から知った。そのときのわたしには名前も何も知らなかった。ただ、ステージに照明が当たった瞬間、その子だけが光の中に溶けずに立っていた。正確に言うと、他のメンバーは光を受けて輝いていたのに、その子だけは光を吸収しているように見えた。ステージの端から端まで照らしているのに、その子の周囲だけが、少しだけ暗かった。
最初の曲のイントロが流れた。
歌い出したとき、わたしは電話を切った。
声だった。声というより、空気の変質、と言ったほうが近い。湿った地下の空気が、ある周波数を帯びた。その声は澄んでいなかった。どこかかすれていて、息が混じっていて、高音の縁が少しほつれていた。完璧ではなかった。むしろ、完璧でないがゆえに、わたしの体の中のどこかを直接触った。正確な言葉が出てこなかった。グラスの水滴を指で辿りながら、後でメモしようと思った。そのメモは、結局書かなかった。今のわたしなら書ける。完璧な声は耳に届くが、傷のある声は皮膚に届く。でもあの夜のわたしには、まだその言葉がなかった。
四十分のステージだった。
最後の曲が終わって照明が落ちた後も、わたしはしばらくその場を動けなかった。隣に立っていた男がスマートフォンを取り出して動画を再生しはじめた。さっきの演奏の録画だった。画面の中の花音は、さっきまでここにいた花音と同じ動きをしていたが、違った。何かが抜け落ちていた。画面越しでは、その声は耳に届くだけで、皮膚には届かなかった。
スマートフォンをしまって、わたしは階段を上がった。
外はまだ雪が降っていた。
わたしは雪の中に少し立っていた。自分が今何を感じているのかを測ろうとするように。胸の内側に何か残っていた。名前のつかない重さだった。それが愛の始まりだったのか、それとも何か別のものだったのか、わたしにはまだわからない。今でも、わからない。
ひとつだけ確かなことがあった。
またあの声を聴きに来る、とわたしは思った。
もう一度聴けば、今感じているこの重さの名前がわかるかもしれない。そう思った。結果的にその考えは間違っていた。何度聴いても名前はわからなかった。名前がわからないまま、わたしはあの声の担当マネージャーになった。




