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1回生:4月ー⑧

 いきなりからかわれたのは照れるが、やっと先輩が来てくれた。これでようやく練習に取りかかれる。


「ボスさん、倉庫開けてもらえますか? 俺はやく練習したくて」


「今からホルン吹いて夕方まで保つんかいな。それより楽器の手入れの仕方教えたるから来い」


「えっ、でも昨日吹けなかった音があって……」


「焦んやな。時間はまだまだあるやろ」


「いや、だって、あと数日しか……」


「ええから来いや。あっ、そこの1回生の子。うちのアホと仲良くしたってな」


 急に話しかけられて驚いたのだろう、ミレーユはキョロキョロあたりを見回した後、ペコリと頭を下げた。

 トランペットは4階の外廊下、ホルンは3階で練習しているため俺はボスさんに肩を組まれつつ階下へ降りていくしかなかった。

 視界の端でミレーユが手を振ってくれているのが見えたのは少し嬉しかったが。


 そこからは楽器の手入れの仕方を教えてもらった。オイルやグリスの扱いはそう難しいものではないが、使うたび毎回手入れをするべきで、あまり怠ると修理に出さないといけないこともあるらしい。簡単な修理代でも約8,000円。当然自腹である。

 今までは先輩が俺の代わりに手入れしてくれていたようだが、今日からは俺も自分でやらねばならない。


「ところでボスさん、なんでこんな早くに?」


「院試の勉強も飽きてきて暇やからな」


「そっすか」


 たぶん俺が無駄に早く来ることを見越して様子を見に来てくれたのだろう。この人も霧亜さんと同じ、口は悪いが性根の優しい人なのだ。


「なにニヤニヤしとんねん。キショいな」


「気のせいっすよ。じゃあ手入れも終わったんでそろそろ練習を……」


「待てやアホ。今から楽器の練習したら夕方になる前にバテてまうで」


「それは……」


 確かに平日の3時間の練習でもかなり疲れていたのは事実だ。でも俺には時間がないのだ。多少無理をしてでも経験値を積んでおかないと。


「とりあえず倉庫は開けへんからな。練習するな、とは言わんけどな」


「えっ、それってどういう……」


「楽器使わんでも練習はできるっちゅうことや」


「はぁ……」


 ボスさんの真意を測りかねていると、彼は突然歌い始めた。

 アー、アー、アーと音程を変えていく、音楽の授業でもやらされたアレだ。いきなりオペラでも始めるつもりなのだろうか。


「なに黙って見とんねん。お前もやれや」


「あっ、はい」


 ボスさんにつられてアー、アー、アーと歌ってはみるが、何の意味があるのかはよくわからない。


「声出したままチューナー見てみ」


 俺の出す声に合わせて、C、E、Gとチューナーの表示が気に変わっていく。考えてみれば当たり前だが、楽器だけじゃなく声でも音程は取れるのか。


「じゃあそのまま自分がいける高い声の限界までいってみ」


「アー! アー! アー!」


「うるさい!」


 理不尽に怒鳴られた。一生懸命高い声を出そうと頑張ってみただけなのに。


「あのなあ。高い声を出せって言っただけでデカい声出せとは言ってへんねん。裏声使ってもええからもっと高い声出してみ」


「うっす」


 色々言いたいことはあったがとりあえず飲み込んで従ってみるのが吉だろう。


「アー、ハァー、く、きぃー……!」


 ただ、高い声を絞り出そうとするとどうしても苦しさの混じる声になってしまう。まるで屠殺されるニワトリみたいだ。ボスさんしか聞いていないとはいえなんだか恥ずかしくなってきた。


「……キショいな」


 散々やらせといて感想が「気持ち悪い」かよ。ひどいなこの人。俺の睨む視線に気づいたのか、ボスさんはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


「じゃあ手本見せてくださいよ。人にばっかやらせてないで」


「それもせやな。ほな……」


 咳払いを一つ、ボスさんは朗々たる声で発声練習を始めた。彼の地声は低いはずなのにどんどん高い声へと昇りつめていく。

 同じ男声のはずなのに、彼の喉からは俺のような苦しげな声が聞こえてこない。あくまでも伸びやかに、どこまでも晴れていくように……


「まあこんなもんやな。ご清聴どうも」


「ボスさんってなんか声楽とかもやってたんすか? アカペラとかいうんでしたっけ」


「アホ。本職はこんなもんやないで。俺は楽器やるためにかじっただけのトーシロや」


 その素人にすら足元も及ばない俺はいったい……とじっと手を眺めていると、ボスさんが俺の肩に手を置いた。


「えらい落ち込んでんな。声はキショいし音程もガタガタなんが恥ずかしいか?」


「そっすね……俺はニワトリ以下、カラスよりさらに下かも」


「でもまあ」


 ボスさんの手のひらが俺の背中にバチンとぶつかる。音は派手だが案外痛みは少なかった。


「『上手い』『下手』がわかるんも立派な才能や。腐らず焦らずやり」


 それからもボスさんからの歌の指導は続いた。半日で劇的に上手くなるわけはないんだが、それでも何の指針も無い状態よりはずいぶんマシに思えた。


「歌うのと楽器吹くんは案外近い距離にあってな。高い声出すのと高い音吹くんは感覚的に近いんや。よう覚えとき」


「でも入部できなかったらあんまり意味ないっすよね……」


「まあアレや、そん時はカラオケでも極めたらええやろ。歌うまかったらモテるで」


「じゃあボスさんはモテモテってことっすね!」


「おっ……? まあ、うん……せやな……」


 露骨に目を逸らすボスさん。俺でももうちょっとうまく嘘をつける気がする。まあモテたいわけではないので別にいいのだが、歌が上手いってのには正直憧れる。


「もう昼やし、メシ。食いに行こか」





 うちの大学は土曜に講義は無いのだが、なぜか食堂だけは空いている。サークルなり研究室なりで利用する学生も多いからだろうか。

 平日の混雑具合から比べるとかなり空いているようには見えるが、意外と他にも人はいるものだ。


「おっ、ボスじゃねえか。その目つき悪い子は新入部員か?」


「おー、まあそんなとこや」


 ボスさんと挨拶を交わしたのはおそらくオーケストラの先輩だろう。人1人収納できそうなバカデカい楽器ケースを背負っている。というかこの人、同学年にも「ボス」って呼ばれてるのか。


「昔から偉そうやからな。ボスやねん俺は」


 俺の視線に気づいたボスさんは補足するように耳打ちした。あんまりいい由来ではないが、俺の「ヒトデ」よりはマシなのでちょっと羨ましい。


「好きなもん食え。俺のおごりや」


「よし! じゃあカツ丼の特盛を……」


「500円以内な」


「……後出しはずるいっすよ」


 まあおごってもらえるだけでも感謝しなければいけない。丼+小鉢でどうにか500円以内に収める方法を考えねば……

 そうだ、納豆。これなら80円でそれなりの満足感と栄養を得られる気がする。


 すでに残り一つとなっている納豆に手を伸ばすと、誰かの手とぶつかった。


「きゃっ! 何すんのよ!」

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