1回生:4月ー⑦
霧亜さんが俺のことを思って……? 入部テストするってことは素人の俺を拒みたいからじゃないのか。
でもそれにしては指導は親切だったし、どうにも彼女の真意が読み取れない。
「私が言っちゃっていいのかな……あの子はね、ヒトデくんのことが心配なの」
「心配?」
「実は私、霧亜ちゃんと同じ高校だったんだけど……」
クリンさん曰く、霧亜さんも実はホルンを始めたのは高校生かららしい。ああ見えて昔ピアノは習っていたらしいが、管楽器の経験はゼロ。
そして間の悪いのことに、高校のホルンパートでは霧亜さんだけが初心者だったようだ。プライドの高い性格だから自分が「できない」という事実にずいぶん悩んだようだ。
高校の部活となれば簡単に辞めることもできないし、何より逃げ出したような気分になって、霧亜さんはそんな自分を許せなかったのだろう。
「だから霧亜さんと仲良いんすね」
「あー、うん……昔も色々揉めたから腐れ縁というか、ね」
『腐れ縁』というひねくれた言葉とは裏腹にクリンさんは屈託なく笑った。
彼女の楽器をじっと見つめてみると、ところどころか色が褪せており、年季が感じられる。なぜかそれは新品より輝いて見えた。
「私はヒトデくんみたいな素直な子が入ってくれるのは嬉しいけど、でも初心者ってやっぱりしんどいみたいで」
「ああ……なるほど」
クリンさんが霧亜さんの「テスト」に正面切って反対できなかったのはそういうことか。無配慮に入部させて、俺が苦しんだら責任感じるもんな。
俺のようなポッと出の人間が彼女らの積み上げてきた年月に並ぶのは簡単じゃない。横に並ぶのが無理なら、せめて遅れてでもついていきたい、なんて思ったりはするが。
「まあ、クリンさんが気にすることないっすよ。どうあれ俺の人生なんで」
「ヒトデくんは意志が強いんだね。それとも音楽に思い入れがあって、どうしても入部したいとか?」
「まあそんなとこっすね。それに……」
この数日間で、めるめるさんや霧亜さん、クリンさんの人柄に触れてぜひとも入部したいと思ったのだが、あえてそれは口にしなかった。
同情で受からせてほしいわけじゃないしな。そんなエモーショナルな話なら入部してからすればいいことだ。
「何か言おうとした?」
「なんでもないっす。さあ、続きをやりましょう」
翌日は土曜日で、うちの大学では通常講義が行われない。ならば、と思って朝の9時から大学会館に来てみたがオーケストラの部員は誰も来ていなかった。
練習の正式な開始時間は13:30からなので考えてみれば当たり前なのだが、やらかしてから気づくのが俺の悪い癖だ。
「どうすっかな……」
楽器倉庫の鍵があれば練習はできるんだろうが、誰がどう管理してるのかわからないし……
とりあえず倉庫の前で待ってはいるが、不審者と思われないだろうか。俺は部員じゃないうえ、入部できるのかも怪しいくらいだからな……
深くため息をついて俯いていると、ふと目の前に小さな靴が見えた。その突然の出現に思わず声が裏返る。
「ぬぉっ!?」
「ぴぇっ!?」
俺の声に驚いた小さな足は飛び跳ねるように後ろへ引っ込んだ。声ぐらいかけてくれりゃ良かったのにとは思うが、気づかなかった俺も悪い。
「あ、あのあの。オーケストラの先輩ですか?」
「いや、俺は1回生だから」
「あっ、そっか……私も1回生で、へへ……」
目の前ではにかむ少女はやけに背が低く童顔で、ファンシーな花柄のスカートも相まって子どもっぽく見える。この子から見りゃ老け顔の俺は先輩に見えるか。
彼女は楽器ケースらしき箱を胸に抱えているので、俺と同じ入部希望者だろう。新歓コンサートの時にいたかな、この子……あの時は演奏に圧倒されていたせいで記憶がおぼろげなのだ。
そして女の子はもじもじしながら俺の顔色を伺ってくる。こういう気弱そうな女の子はどう扱っていいのかわからなくて苦手だ。霧亜さんみたいにグイグイ来てくれる方がまだいくらかマシなくらいで。
「俺は海野秀人。先輩からはヒトデって呼ばれてる。えーっと君は……」
「長坂美玲。ミレーユって呼ばれてて、あっ、楽器はトランペットだよ。ってケース見たらわかるよね」
「ミレーユ……」
また変なアダ名だな。楽器やってる人はこう……独特の芸術センスが養われてしまうのだろうか。それともうちの大学だけの奇習なのか。まあどっでもいいんだが……
「可愛くない? 先輩がつけてくれたアダ名」
「いや……うん。それより来るの早くないか? 俺も人のことは言えないけど」
「練習時間、勘違いしてて。なんで朝だと思っちゃったんだろ。えへへ」
ミレーユの見せる、恥ずかしそうに両手で口を隠す仕草はハムスターのように見えた。可愛らしい雰囲気はあるが、なんというか小動物を見た時の愛らしさという感じで、これを異性に感じるのは失礼な気もした。
「ヒトデくんはこれから練習? 私もメトロノーム借りたくて……」
「すまん、実は俺も倉庫の鍵持ってなくて。借り方わからんのに早く来てしまった」
「そっか……ヒトデくんって結構抜けてる?」
「いや君にだけは言われたくないが!?」
「ふふふ」
和やかな雰囲気にはなってきたが、結局倉庫は開かないままか。他の人が来るのが1時間後とかだったらどうしよう。早く練習したいんだが……
「あっ、ところでヒトデくんは何の楽器なの?」
「ホルンをやりたいとは思ってるんだが、入部できるかどうか……」
「えっ、えっ、どういうこと? 志望者が多いの?」
「いや俺、楽器とかやったことなくて」
「えぇ!?」
目も口も大きく開き、ミレーユは顔全体で驚愕を示した。やはり大学でいきなり楽器をやろうだなんて無謀だったのだろうか。愚かなのは自分でもわかってはいるのだが。
「す……」
「え?」
「すごいすごい!」
ミレーユの顔色をじっと見ていたせいだろう、彼女の目が驚愕の色からキラキラした彩りに変わっていくのが見て取れた。
感心されるようなことは一つもないのだが、何がそんなに彼女の琴線に触れたのだろうか。
「未経験の世界、それも敷居が高そうなオーケストラに飛び込むなんてすごいよ!」
「そ、そうか……?」
「私なんて、お姉ちゃんがやってたからピアノやって吹奏楽やって、他の道を選ぶなんて考えたこともなかったから。知らないところに踏み込むのが怖かったんだろうね」
「いや、一つの物事を続けるってのも立派なことだと思うぞ」
「そ、そう? 私も立派? えへへ」
両手で顔を挟んで照れるミレーユ。あまりに素直なリアクションに、少女というか幼児と話している気分にさせられる。天然なのかぶりっ子なのかわからないが、まあ悪い人間ではないのだろう。
「なんやイチャつきおってからに」
パタパタ両手を動かしていたミレーユが落ち着いたころ、倉庫の向かい側、外階段へ続くドアからボスさんがニュっと現れた。