1回生:4月ー⑥
B♭の感触を掴もうと吹き続けていると、あっという間に20時を過ぎてしまった。そろそろ練習をやめねばならない時間だ。
「もう終わりか……」
「進歩があっただけマシだろ」
「でもこのペースじゃ音階なんて」
「吹けねーだろうな。まあ頑張れや」
ニヤニヤしながら突き放す霧亜さん。まったく、いい人なんだか意地が悪いんだかよくわからん人だ。
教え方は親切だったように思うが、だったら入部を認めてくれりゃいいのに。
「明日は優しいお姉さんが教えてくれるらしいからな。アタシよりかはやりやすいだろ」
「いえ、今日はありがとうございました。霧亜さんの指導は勉強になります」
「お前なあ……」
眉をひそめる霧亜さん。気まずいのだろうか何なのか、自らの後頭部をワシワシとかいている。
今は礼を言ってはいけないタイミングだったのだろうか。俺にはそのあたりの機微がわからない。
しかしまあ、何と思われようと礼は言っとくべきだろう。俺がそうするべきと思った、理由はそれで十分だ。
合奏を終えた先輩方がぞろぞろと階段を降りてくる。疲れているような、それでいて楽しそうな表情だ。
楽器を鳴らせない俺が想像するのもおこがましいが、人と一緒に演奏できるときっと楽しいんだろうな。
「あっ……ヒトデくん、明日も来るんだよね? よろしくね」
「明日はクリンさんが見てくれるんですか!?」
彼女は傾いたメガネを直しながら小さく頷く。大人しめな人ではあるが、無口なめるめるさんや粗暴な霧亜さんに比べればかなり接しやすい方だろう。
最初会った時も霧亜さんを諌めるように話してくれていたし、決して悪い人ではないはず。
「へへ……」
「ふふ……」
「なんだコイツら、気味ワリィな……」と霧亜さんが呟いていたが気にしたら負けだ。明日はのびのびと練習させてもらおう。
そして迎えた金曜日。霧亜さんが設定した「一週間」という期限は次の火曜日までになるので、まだ多少の猶予はある。
なんとかそれまでに「F-dur」という音階を吹けるようにならないと。
「じゃあ今日は運指も始めてみよっ」
「うんし……?」
「習うより慣れろ、だね。『F』の音を出しながら左手の人差し指と中指でレバーを押してみて」
言われた通り二つのレバーを押してみると、確かに音が変わった。思っていたよりあっさりと音が変わるもので、昨日「B♭」の音に苦戦していたのは何だったのかと疑いたくなる。
「今のが『G』の音ね。じゃあ次は中指だけ押してみて?」
レバーを押す二本指のうち、人差し指を離して中指だけ押してみると、また音が変わった。
「それがAの音。ちょっとずつ音が高くなってるのがわかる?」
「うーん、わかるようなわからないような……」
「それじゃあ次はまたB♭の音を出してみよっか。霧亜ちゃんが教えてくれたの」
「うっす」
1日経ってはいるが案外身体は覚えているものだ。特に差し障りもなくB♭の音を鳴らせた。
先輩たちの鳴らす音に比べるとくぐもったボソボソとした音だが、何にせよ音が鳴っているのは事実だ。
「うんうん、いい感じだよ。これで音階のうちFGAB♭(シ)まで吹ける状態になったってことだね」
「ドがA、レがBとかじゃないんすね」
「そうだね。私も理由はよく知らないんだけど……」
「並べ間違えたんすかね……」
疲れが出てきたのか無意味なことをつい口走ってしまう。ただ楽器を吹いているだけで、走ったわけでもないのに妙に身体がだるい。集中力を使っているからだろうか。
スポーツとはまた違う疲労が全身に溜まっており、背筋を伸ばすのすら億劫だ。
しかし順調に色んな音を鳴らせているし、このまま音階を吹けるようになるんじゃないか?
淡い期待が胸に膨らんでくる。まあ、一応毎日練習してるしな……
「じゃあ次の音もやってみようか」
「えーっと……ちょっと休憩を」
「うん。まだ頑張ろっか」
ニコニコしながらクリンさんは柏手を打った。なんだろう……この人、口調は優しいけど一番スパルタな気がする。
優しく言われると強く反発もしづらいし、そこまで計算ずくでやってるんだろうか。だとしたらある意味霧亜さんより怖いな……
「次はB♭を吹く感じで1番レバーを押してみて。人差し指でね」
「うっす」
なんとなく引っかかりを感じるものの、Cの音もとりあえず鳴らせたらしい。目の前の譜面台に置かれたチューナーでも「C」の文字が表示されている。
先輩方が想像していたより順調に進んでるんじゃないか? 隣でニコニコしているクリンさんの胸の内は測れないが。
「じゃあ次はDの音。1番と2番レバーを押してね」
頷いて楽器を構え、音を鳴らしてみる……楽器は響いている。確かに音は鳴っているはずなのにクリンさんの表情が少し険しい。
それにチューナーに表示されているアルファベットは……「H」の文字だ。狙っていた「D」ではない。
「えっと、これはどういう……」
「Cより半音低い音が出ちゃってる状態だね……そっか、ここからが難しいか」
「えっ……」
ついに行き詰まってしまったか……機嫌よく歩いていたら突然前に分厚い壁が現れてぶつかってしまったような気分だ。今までが順調だっただけに余計にショックがある。
「くっ……もう一回」
再度楽器を鳴らしてみるが、やはり先程同じ「H」の音しか出ない。力んでみても無駄。そもそも高い音ってどうやって出すんだ? わからない。これまでも感覚のままやってきていたからだ。
「クソッ……! なんで……」
「そんな慌てなくても大丈夫だよ。私だって高くて出せない音とかあるしね」
「具体的には何の音が出ないんすか?」
「ダブルハイFとかは綺麗に鳴らないんだよね……どうしてもこう……口が苦しくなっちゃって」
「ダブル……? ハイ……?」
どのくらい凄いのかわからないが、とにかく俺とは凄まじく離れた差があるのだけはわかる。
「とにかく焦らなくても大丈夫だよ。ちゃんとできるようにはなるから」
「でも俺、次の火曜日までに音階が吹けないと……」
「そっか……うん、そう思うよね」
申し訳なさそうに眉を顰めるクリンさん。別に彼女が悪いわけではないので、そんな表情をされるとこちらが恐縮してしまう。
「霧亜ちゃんのこと、怒らないであげてね。あの子は意地悪したいわけじゃなく、ヒトデくんのことを思ってわざと難しい注文つけてるだけだから」