1回生:4月ー③
まずマウスピースを鳴らせるようになるべき、という課題はわかった。
だが問題は、吹き方がさっぱりわからない点だ。めるめるさんがマウスピースをビャー、と鳴らしている姿を見ても俺の吹き方とどう違うのかわからない。
めるめるさんの横顔をじっと眺めていると、それに気づいた彼女が見つめ返してくる。まっすぐで穢れのない瞳だ。何もやましいことはしていないのに何か罪悪感がわいてくる。
別に彼女に惹かれて見つめていた訳ではなくて……いや色白で目のぱっちりしたところがちょっと可愛いなと思わなくもないんだけど、そういう邪な気持ちで見てたわけでは……!
「いや違うんす、これは……!」
「クイズ出すね」
「ク、クイズ?」
「何をどうすれば楽器を鳴らせると思う?」
唐突に始まったクイズだが、言われてみれば「どうすれば楽器を鳴らせるか」って論理的に考えたことはなかったな。
リコーダーみたいに直感的に鳴らせる楽器でないことはわかったし、まず理屈から整理すべきではあるのか。
「えーっと……楽器に息を吹き込む、っすか」
「半分正解」
「半分……? じゃあ残り半分は何なんすか?」
答える代わりにめるめるさんは唇をブーッと振動させて見せた。子どもがふざけた時にするような動作だ。
当然俺はやったことのない動きだが、もしかして……
「それが、答えってことっすか?」
「そう」
マジか……そりゃあ俺が必死に息を吹き込んだところで楽器が鳴るわけがない。
管楽器奏者の唇がどうなってるかとか、これまで生きてきて気にしたこともなかったしな。
最初から教えてくれればよかったのに……と一瞬思ったが、もしかしたら先輩たちも俺が「どのレベルの素人か」をわかっておらず、手探りなのはお互い様なのかもしれない。
教えてもらってるのに恨み言を述べるのもダサいしな。とにかく理屈がわかっただけでも進歩か。
「できる?」
「やってみます」
ブーッと唇を鳴らしたままマウスピースを口元に持ってくる。
……音は鳴らない。なんでだ? 言われたとおりやったつもりなのに。
「忘れてる。息の方」
「あ……そっすね」
めるめるさんのクイズのとおり「息を吐く」、「唇を鳴らす」の両方を同時にやらなくちゃいけないのか。地味に難しいな。だがかやるしかない。
もう一度、背筋を正してマウスピースを顔の正面に持ってくる。
「息は吐きながら」
ふー……集中しろ。俺にもできるはずなのだ。たぶん、おそらく、きっと。
「振動は止めない」
そして、ブワァー、と初めて音が鳴った。
「な、鳴りました! 鳴りましたよ!」
「うん」
さっきの感覚を忘れないうちに、何度もマウスピースを鳴らしてみる。めるめるさんのように音程を変えることはできないが、とにもかくにも音は鳴っている。
思っていたより力は要らないようだ。一輪車に乗るのと同じで、一度要領を掴めば感覚がわかってくるものなのか。
「楽器にはめてみてもいいっすかね!?」
「いいと思う」
再びマウスピースをホルンにはめてみると、楽器の重量が手にずしんと伝わってきた。マウスピースを鳴らすのとはまた違うだろうし、うまくいくとは限らないが……
めるめるさんに手の角度を補正されつつ、もう一度息を吹き込んでみる……すると、プァーと微かながら確かな音がベルの穴から聞こえてきた。
「できた……!」
「できたね」
喜びで思わず目がツーンとしてきた。正直、ずっと不安ではあったのだ。音一つ鳴らせない奴がオーケストラに入ろうだなんておこがましいと自分でも思っていた。
それでも、小さな一歩を踏み出すことができたのだ。
「ありがとうございますめるめるさん!」
「ん」
流れでめるめるさんの両手を掴んだままブンブンと振ってしまったが、彼女は嫌がるでもなく、俺にされるがままになっている。
口数は少ないが、彼女の指導には無駄がないし、何より思いやりのある人なのかもしれない。
もし首尾よく俺が入部できたら、またお世話になるだろうが、こういう有能な人が先輩なのはありがたいものだ。
「この調子ならF-durって音階もできますかね!?」
「いや、たぶんそれは無理」
ワクワクした気分のまま勢いづいてみたが、淡々とした口調で返された。
冷水を頭から浴びせられた俺は、めるめるさんの両手を離しそのまま静かにイスに沈んでいってしまった。
胸の中で膨らんできた期待という名の風船が急激に萎んでいくのを感じる。
めるめるさんに対して何か言いたかったが、彼女は自分の楽器を構え、練習を再開していた。
教えることは教えたのであとはご勝手に、ってことか……? 合理的ではあるが、何と言うか、ちょっと冷たいような……
まあ素人にタダで教えてくれただけでも感謝すべきなんだろうけど、どことなくモヤモヤが残る。
その後も俺はとりあえず音を出せた感覚を忘れないように楽器を鳴らし続けたが、なんというか、くぐもった音しか出せない。
横でめるめるさんの出す豊かな響きな音に比べると、俺の音はゾウの呻き声みたいで惨めな気分になってくる。彼女のように吹けるようになるには何年かかるのだろうか。途方も無い道のりに思えてきた。
なんとなく気勢が削がれて楽器を膝に下ろすと、俺の前に譜面台が置かれた。
なんだ? いきなり俺に演奏しろってのか? あまりに気が早すぎるだろ。
「いや、俺は楽譜とか読めないんで……!」
俺の制止を無視しためるめるさんはスマホと同サイズの小さな機械を譜面台に置いた。
そしてまた俺の隣にちょこんと座る。いつの間にか彼女の楽器も脇にどけてあった。
「吹いて」
いやもうちょっと説明してくれよ……とは心の中で思ったが、たぶんこの人に逐一解説してもらうのは無理なのだろう。
めるめるさんは無口なのもあるが、それ以上に「習うより慣れろ派」っぽい雰囲気がある。
まあ、さっきも結果的に楽器を鳴らせるようになったわけだし、とりあえず従っとくか?
彼女に言われるがままプァー、と楽器を鳴らしてみると、小さな機械の液晶画面に「F」という文字が表示された。
「何すか、この機械?」
「チューナー」
「名称を言われても……何の目的で使うやつかわかんないんすけど」
「チューニング」
「単語でしかしゃべれないんすか!?」
思わず大声でツッコんでしまった。己の声が外廊下に響いて耳が痛くなる。
まあ、ちょっと強く言われたくらいで動じるタイプの人ではないだろうし気をつかっても仕方ない……か?
しかし、意外にもめるめるさんはしょげた様子でぼそりと呟いた。
「ごめんね。口下手で」