1回生:4月ー②
聞き間違いだと思ったのだろうか。霧亜さんは耳に手をあててこちらへ身を乗り出してくる。
俺も彼女の方へ半身を寄せて耳元で叫ぶ。他のパートで行われている試奏の音に負けないよう、ハッキリと。
「明日も! 来ます!」
「デケェ声出すなバカ!」
強く頭をはたかれたが、今のは意地になった俺が悪いか……
かなり痛かったが、それでも楽器だけは落とさないようしっかり掴んで耐えた。別に誇ることじゃないが、俺なりの礼儀だ。
「盛り上がってるところ申し訳ないんだけど、うちの練習日って基本的に火曜、木曜、土曜だからね……明日は金曜だし、誰もいないんじゃ」
「しゃーねえ。クリン、お前付き合ってやれよ」
「そこは霧亜ちゃんが面倒見なきゃ。私、明日はバイトだし……」
「アタシもバイトなんだけどなー。ミミ先輩、どうすか?」
「私は就活の面接がねー」
一座はしんと黙り込んでしまった。クリンさんが申し訳なさそうな顔でこちらの表情を窺ってくる。
まずい。あと一週間しかないのに、ここで丸1日空白ができるなんて……
借りた楽器を抱えたまま、俺は黙することしかできなかった。
「わたしは出れるですよ」
長く続く沈黙を破るように、押し黙っていた「めるめる」さんが口を開いた。彼女のことは2回生である事実と小柄な体格であることぐらいしかわからない。このまましゃべらなきゃマネキンか置物と勘違いしてしまいそうなくらいだったのに。
「めるちゃん本当に大丈夫? その、何と言うか、色々と……」
「いいだろ、本人がやるってんだから」
「うーん、でも、だって……」
クリンさんが心配になるのもわかる。全然しゃべらない彼女と素人の俺だけでスムーズに練習ができる気はまったくしない。
まだ横暴な霧亜さんに面倒見てもらう方がいくぶん捗りそうなくらいだ。
とはいえ他に代案があるわけでもなく。頭を抱えたクリンさんが絞り出した言葉は「めるちゃん、いいの?」という頼りない小声であり、めるめるさんはホルンで「ファソラシドレミファ」を鳴らして応えてみせた。
翌日。四限の講義を話半分に聞き流していた俺は、チャイムが鳴ると同時に講義室を飛び出し、オーケストラの練習場所である「大学会館」を目指した。
俺の通う農学部からは10分ほど離れた場所にある建物なので多少時間はかかるのだが、今は一分一秒でも時間が惜しい。早く楽器に触れて、まともな音が出せるようにならないと。
「お疲れさんっす!」
「ん」
会館の外階段が金管楽器の練習場所らしい。3階の外階段がホルンパートの練習場所なのだが、めるめるさんが一人、楽器を抱えてぽつねんと座っていた。
よく見ると楽器ケースが二台置いてある……一つはめるめるさんのものとして、もう一つは? 誰か他に来てるのか?
そっちも気になるが、俺も自分が吹く用のホルンを探さないと。確か大学に備え付けのものがあるはずだから、それを貸してもらって練習をするのだ。
「あの、めるめるさん。貸し出ししてもらえる楽器はどこに……」
「そこ」
「えっ、これ運んできてもらえたんですか? ありがとうございます!」
「ん」
なんだ……無愛想な態度からは考えられないほど親切な人じゃないか。冷たい人かもなんて思って申し訳ない。
感謝の念を覚えながら、四角い大柄な楽器ケースを開く。中には、ちょっと年季は入っているものの金色に輝くホルンが納められていた。
駅でも怪しげな黒いトランクを持ってる人を見かけることがあったが、あれももしかしたら楽器だったのかもなあ。
「ん? なんだこれ」
とにかく準備を、と思っていたがまずホルンの形状が昨日見たものと違っている。
ベル(ラッパ状)の部分とその他のパーツが分かれているのだ。なんか複雑な形してるなとは思ってたが、まさか組み立て式とは。
先輩たちが楽器を片付けるところまでは見てなかったから気づかなかった。
「あの、めるめるさ……」
振り返ってめるめるさんを探そうとした俺の背後には、小柄な彼女がいつの間にかスタンバイしていた。
気配が薄くて気づかなかった……というか近い近い近い。俺が誤って腕を振ってたらぶつかる距離だぞ。
「これ、どうやってつければ」
「はめる」
「はめる……」
「回す」
「回す……」
「できた」
「できましたね」
めるめるさんの指示は簡潔すぎるほど簡潔だったが、楽器自体は簡単に取り付けられた。思っていたよりも力はいらないし、これだけなら素人の俺でもできそうだ。
さて試奏を……と思ったら今度は吹き口のマウスピースがない。楽器ケースを端から端まで見回すと、銀色のマウスピースが見つかった。
やっぱり付け方はわからないのでめるめるさんに助けを求めると、彼女がおもむろに小さい口を開いた。
「はめる」
「はめる……」
「以上」
「以上……って終わりですか?」
小さく頷いためるめるさんはベンチに座り、自らの隣をぽんぽんと叩いた。隣に座れという意味だろう。
そして彼女はホルンを構えると、プァー……と一息鳴らしてみせた。伸びやかで迷いのない、気持ちのいい音だ。
「やって」
めるめるさんに命じられるがまま、俺も顔を真っ赤にしてホルンに息を吹き込むが、やはり息が通らない。
そもそもこの楽器、ぐるぐる巻きだからわかりづらいだけでかなり管の延長が長いんじゃないか? そりゃ初心者の息じゃ奥まで吹き鳴らせないというか、俺には無理なんじゃ……
「鳴らない」
いや昨日から鳴らないことはわかってたじゃないですか! と叫びそうになったがひとまず我慢しよう。かなりマイペースな人っぽいし、この人に合わせる必要があろう。楽器はダメでも社会性があるということぐらいアピールしておきたいものだ。誰に対するアピールかはよくわからないが……
「外そう」
マウスピースを楽器本体から外すめるめるさん。何の意味があるのかわからないが俺も真似をして、とりあえずマウスピースだけを持ってみた。
片手で隠れるくらいの小さな部品だ。これを持ってどうしろというのだろうか。
俺が一人困惑していると、めるめるさんは自らのマウスピースを口元にあて、ビャー! と音を鳴らした……えっ、これだけで音鳴るんだ。ただの部品かと思ってた。
驚く俺を尻目に、めるめるさんは続けてビャービャビャビャ、と音階のようなメロディーを吹いてみせた。
「えっ! すげえ! 器用っすね」
「ふつう。みんなできる」
事も無げに答えてみせるめるめるさんを前に、普通のことどころか音一つも鳴らせない俺は何なんだろうと、手のひらの中のマウスピースをじっと見つめる。
「……みんなできるから、キミにもできる」
うつむいた俺を覗き込んでくるめるめるさん。その目は、決して俺を憐れむものではなかった。
そうか……この人、本気で俺にもできるって信じてくれてるんだ。態度からはわかりにくいが、何にもできない俺を仲間に入れようとしてくれてる。意外とアツい人なのかもしれん。
「あの……めるめるさん! 俺がんばります!」
「そう」
ぼそっと呟くと無表情のままめるめるさんは元の位置に座り直した。
うーん……やっぱりよくわからん人だ。