1回生:5月ー①
「オラッ! 練習行くぞコラ!」
大学会館へ向かう途中の陸橋で霧亜さんが後ろから組み付いてきた。女性に密着されているというのになぜだかあんまり嬉しくはない。
中学のころ男の怖い先輩に絡まれた時のことをうっすら思い出した。
「言われなくても行きますよ。そんなヤンキーみたいな絡み方しなくても」
「なんだァ? アタシとは練習がしたくないってのか?」
「酔ってます? 酔ってるんすよね?」
こんな人でも教え方だけは懇切丁寧なので頼らざるを得ない。物腰は優しいけど内容は厳しいクリンさんと足して2で割ってくれないものだろうか。
とにかく大学会館にたどり着いた俺たちは、楽器ケースやら何やらを取り出していつもの練習場所に陣を張った。
「さて、今のお前に足りないもんは何か言ってみろヒトデ」
「えーっと、スマートさ?」
「確かに全然足りてないが、それはお前一生治らないだろ」
ボケたつもりだったのだが真面目に返されるとつらい。しかも反論の余地のない返答だし。もう少し世界は俺に優しくあるべきだ。
「お前に足りてないのは……これだ」
霧亜さんが床に置いたのは、小さな三角コーンのような形の機械だった。長い針がカチカチと音を立てて規則正しく左右に揺れている。
「メトロノーム、っすか」
「おっ、よく知ってるじゃねえか。じゃあこれが何をする機械かわかってんだろうな」
「なんか……カチカチ言う機械っすね……」
「そんなことは幼稚園児でも見りゃわかんだろお前はよぉ!」
ズンズンと脇腹を突いてくる霧亜さん。痛いようなこそばゆいような感覚が俺の内臓を責め立ててくる。これパワハラかセクハラで訴えれないかな……
しかしメトロノームか。学校の音楽室にもあったけど、結局あれが何をする機械なのか考えたこともなかったな。
カチカチ言ってる音に合わせてリズムを取るってことは想像できるけど、それにどう言う意義があるのやら考えが及ばない。
「とりあえず……メトロノームに合わせて吹けばいいんですね」
「まあ最初はそれでいい。でもな、最終的に目指すのはそんな甘っちょろいレベルじゃない」
「はあ」
「お前がメトロノームになるんだよ!」
……何言ってるんだろうこの人、という気持ちが顔に出てしまったのだろうか、霧亜さんがまた俺の脇腹をつねってきた。
今のは俺は少しも悪くないと思うのだが、この場には二人きりなのだ。公平な判断を下してくれる人はいない。
横暴な霧亜さんに反論しようものならさらに熱の入った「可愛がり」をもらうことだろう。なので文句も言わず俺はひたすら脇腹をさすることにした。
「とにかくやるぞ。テンポは60でいく。お前の得意なD始まりの音階を吹いてみろ」
「了解っす」
霧亜さんが1、2、3、4とカウンドダウンした後のタイミングで吹き始めてみた、が……
自分で思ってるよりも音の切り替えが早かったり遅かったり、運指をミスったりともうグダグダだった。
テンポに合わせて吹く、というだけでこんなに難易度が上がるのか。
「ズレてんだよぉ!」
「わかってます! わかってるんで小突かないでください!」
あまり脇腹を突かれるとくすぐったくて変な性癖に目覚めそうなのだが。
しかしテンポか……カラオケとかだと伴奏に合わせて歌うので自然と合っていたような気もするが、無機質なメトロノームに合わせるだけだとイマイチ「乗り」にくい。
しかも最終的にはメトロノーム無しで自分で正しいテンポを刻まなきゃいけないんだろう。気が遠くなりそうだ。
「なるほど、自分がメトロノームになるってのは……自分でテンポを刻めるようになれって意味なんすね」
「お、おう……お前はアホなのか鋭いのかよくわかんねえんだよ」
「素直に褒めといてくださいよそこは……」
俺の言葉を無視しながら霧亜さんはもぞもぞと自分のケースを触り始めた。俺の練習に付き合ってもらっているが、彼女だって自分の練習をしたいのかもしれない。
「折角だしタンギングもやってみるか」
「タン……?」
「吹きながら舌で息の流れを止めて……って言葉で伝えてもわかんねえか。音を聞いてろ」
霧亜さんは楽器を構えると、まずロングトーンを吹いてみせた。
そしてその後はタ、タ、タ、タと60のテンポに合わせて音を区切って吹いてくれた。
確かに音を切ろうと思えば舌を使うしかないのか。毎回息の流れを止めてたらもっと不自然な感じになるもんな。
「あー、英語のtoungue(舌)から来てるんすね。なるほどなるほど」
「だからお前はアホなのか賢いのかどっちかにしろ」
理不尽な罵倒とは裏腹に霧亜さんの教え方は合理的だった。テンポの掴み方を覚えるのとタンギングは同時にやった方がいい。
ボスさんから課題として与えられている「チューリップ」もテンポ通り吹けば難易度が上がりそうだ。うーん、これは苦労しそうだな……
「ふふ……ふふふ……」
「なにニヤニヤしてんだキモイな……」
なんかもうできないことが多すぎて逆に楽しくなってきたのだ。「できない」ということは「できる余地がある」ということ。成長する楽しみは存分に味わえる。
そのためなら幾分かの苦労だって厭わない。苦労を悦ぶマゾヒストではないが、これからが楽しみになってきた。
「いやお前はマゾだろ。普通に」
「モノローグを読まないでください。恥ずかしいんすけど」
「でもその恥ずかしさが?」
「たまらない…………」
何を言わされてるんだろう俺は。まるで変態みたいじゃないか。
それに、こんな胡乱な会話に興じている場合じゃない。リズム感を掴んでいかなくちゃいけないのだ。
メトロノームに合わせて、タンギングしながら、音階を……うーん。頭がこんがらがっているせいかうまく吹けない。まだまだ練習が要るな、これは。
悪戦苦闘する俺の姿を横目に見ながら、霧亜さんは譜面台を組み立て始めた。本格的に自分の練習に取り組むつもりらしい。
俺の世話ばっかり焼いてるわけにもいかないわな、そりゃ。忙しいなか相手してくれてありがたい限りだ。
「今日もご指導ご鞭撻ありがとうございました」
「ん。色々言いたいことはあるが、いっぺんに言っても飲み込めねえだろうし、今日はこの辺にしといてやるよ」
「え? 全然いいんすよ、もっとイジ……指導してくださっても」
「やっぱりイジめられたいんじゃねえかよ……」
霧亜さんのため息は外廊下のコンクリートに反響してよく耳に通った。




