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1回生:4月ー⑭

「アタシはF-durを吹けと言った……ただ、F始まりの音階を吹けとは一言も言ってないな」


「つまり……?」


「合格だよ。文句なしだ」


 両手を挙げて降参のポーズを取った霧亜さんは、その所作とは裏腹に妙に嬉しそうだった。


 そして、緊張で世界がぼんやりしていた俺だったが、大きな拍手の音によって現実に引き戻された。


「ようこそホルンパートへ!」


「これからもよろしくね……」


「やるじゃない!」


 こんなに大勢の人に一気に誉められたのは初めてかもしれない。それだけで胸の奥がギュッと熱くなる。


「良かったなヒトデ、ここからがホンマの地獄やで」


「そこ、余計なこと言わないよー」


「そもそも霧亜のことやからどうせ吹けてなくても入部させてたやろしなあ」


「だから余計なことばっかり言わんでくださいよボスさん!」


「あのー、皆さんそろそろ音出しを始めないと合奏に間に合わないので……」


 クリンさんの声につられて、先輩方はいそいそと楽器ケースを開け始める。もう終わった気分だったが、考えてみれば練習はこれからだったのだ。

 俺も、ようやくスタートラインに立てただけなのだ。ボスさんの言う通り、ここからが本当につらいのかもしれない。気を引き締めてやっていかないと。


 ふと上階を見上げると、1階上のトランペットパート練習場所からミレーユがひょっこり顔を覗かせていた。今日テストがあることは彼女にも伝えていたのた。

 ミレーユにも拍手の音は聞こえていたのだろう。キラキラした目線をこちらに向けている。

 俺が親指を立てて応答すると、彼女はニッコリ笑って顔を引っ込めた。これからも世話になる相手だ、仲良くやれたら嬉しい。


 そしてクリンさんたちが合奏に出かけると、練習場所に残ったのはボスさん、めるめるさん、はっすん、そしてあんまり話したことのない2回生だけとなった。

 この人についてはめるめるさんと同回生だということしか知らない。身長はめるめるさんより少し高いくらいで、比較的小柄な方だ。

 目が合った瞬間、2回生の先輩はこちらに駆け寄ってきた。なんとなくウサギを想起させるような仕草だ。


「キミが噂のヒトデくん? よろしくね! ウチは岸本茜!」


「ど、どうも……」


「ごめんね、練習とかあんま見れずにめるちゃんに任せっぱなしで。バイトで忙しくてさー、ほら新歓コンサートもいなかったっしょ、ウチ。まあいても影薄いから目立たなかったかもだけど!」


 この人……! めちゃくちゃしゃべるじゃねえか。「影薄い」という自認なのが不思議で仕方ないのだが。

 めるめるさんとは真反対のベクトルだがクセが強いな……


「なんでホルン始めようと思ったの? 急に? きっかけとかあった?」


「いや……元々憧れはあって……楽器やってる人は格好いいなとか」


「うんうん、それでそれで?」


 ここまでグイグイ来るタイプの人は苦手だ……キラキラした目を見るに悪い人ではないんだけど、口下手な俺との相性はよくないだろう、どう考えても。


「カネ、その辺にしとき。ヒトデ引いとるやん」


「えーっ、だって面白くないですか? ホルンってギネスにも乗ってる世界一難しい金管楽器ですよ? わざわざそれをやるなんて、どんな物好きかなって気になるじゃないですか」


「デリカシーが無いねんお前には」


「皮肉屋のボスさんには言われたくですよーだ」


 べー、と舌を出しながら茜さんはようやく楽器を構え始めた。ボスさんのお陰でどうやら助かったらしい。

 年上の女性をこんな形容すると失礼かもしれないが、良くも悪くも少女みたいな人だな……パッツンで切られた前髪のせいで余計にそう見えてくる。


 ほっと一息ついていると、おもむろにシャツの袖を引っ張られた。今度はなんだ、と身体が軽く跳ねる。


「受かって良かった、ヒトデ」


「あ、ありがとうございます……」


 俺の礼を受けためるめるさんは、ふふんと満足気に鼻を鳴らしてから楽器を構えた。

 この人も口下手ではあるが、なんだかんだで親切に助けてくれたからな……感謝は尽きないものだ。


 さて、俺も練習を始めよう。とりあえずは習った音階をおさらいするところからやっていくか。

 たぶん他にも色々やらなきゃいけないことはあるんだろうけど、一歩ずつやっていくしかないのだ。


 俺が楽器を吹き始めると、いつの間にかボスさんが横に座っていた。また何か教えてくれるのか、あるいは良からぬことを企んでいるのか。


「そんな警戒しなや。せっかく楽譜持ってきてんから」


「楽譜、っすか? でも俺まだ基礎すら……」


「言いたいことはわかる。でもな、基礎練と同じくらいメロディの練習も大事なんや。習うより慣れろってな」


「ちなみに何の曲ですか?」


「聞いて驚け……『チューリップ』や」


 驚くというか、絶句してしまった。幼稚園園児の「おうたあそび」じゃねえか。大学生にもなってそんな児戯を……?


「霧亜の言うてたことがわかるやろ? 大学生から楽器を始めるっちゅうのはこういうことやねん。お前はプライドとか全部捨てなアカン」


「でも……」


「もう一個言うたろか。お前はな、俺らからしたらよちよち歩きの赤子やねん。赤ちゃんが『チューリップ』歌っておかしいことあるか」


 いやいやこんな図体だけデカい赤ちゃんがいてたまるか。まったく可愛くもないし。さすがに勘弁してほしいな。

 いや待てよ……赤ちゃんプレイだと思えば逆にアリか。しかしプレイとなるとボスさん相手だとちょっと萎えるな。できれば女の子……それも面倒見の良さそうな子がいい……


「はっすん!」


「えっ、何よ急に……」


「俺がチューリップ吹くとこ見てて……」


「なんかキモいから嫌よ」


「あとちゃんと吹けてたら褒めて……」


「嫌って言ってるじゃない! なんでアンタは人の話を聞かないのよ!」


 などと言いながらもしっかり近くまで来てくれる江坂……愛してるぜ。(とか言ったらまた罵倒されるだろうから口には出さないが)


 楽譜は全然読めないのでボスさんに教えてもらいながら音符の下にアルファベットを書いていく。

 なるほど、文字も読めないなんて確かに赤ちゃん同然かもしれん。俺は赤ちゃん……何もできない赤ちゃん……


「はっすん!」


「な、なによ。また大声出して……」


「感想は?」


「えーっと、思ってたよりブレずに吹けてるんじゃない?」


「そうじゃない!」


 バシン、と俺が膝を叩くとはっすんは身体がビクリと震わせた。明らかに何かに怯えているようだが、構わず俺は畳み掛ける。


「赤ちゃんだぞ? 生後間もない赤ちゃんが頑張って演奏しようとしてるんだぞ?」


「え、えらいでちゅねー……?」


「そう! それ! もっとくれ!」


「がんばりまちたねー……うぅ……」


 なぜか泣きそなうはっすん。赤ちゃんを褒めているだけだというのに何がそんなにつらいのだろうか。むしろ微笑ましい場面ではないのか。


「うっ……助けてよボスさん」


「ハハハ。変態が同期で運が悪かったなあ」



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