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1回生:4月ー⑬

 今日は月曜日。先週の新歓演奏会が火曜だったから、霧亜さんからの宿題は明日が期限となる。

 すなわち、今日F-durを吹く見込みができなければアウト、ということだ。


 ホルンパートの練習場所、大学会館の外廊下でひとり深呼吸をする。

 今日は別のパートの先輩がいたので倉庫は開けてもらえたが、ホルンパートの先輩は来ていない。一人で練習するのは心細いような、開放的なような。


 一日休んだからか、疲れはすっかり取れている。(大学の講義も半分寝てたし)

 ボスさんの指導もあってか、実は土曜日にDの音は出始めていたのだ。まだ安定はしていないが、それでも一歩ずつ前身はしている。


「まあ、一歩じゃ全然足りないんだけどな」


 自嘲しながら楽器を構え、下から順に音を鳴らしていく。F、G、A、B♭、C、D、そして………


「やっぱダメか……」


 これ以上高い音が出ない。楽器自体は鳴らせるようになったはずなのに、高い音を出そうとすると急に音が止まってしまうのだ。唇をギュッと引き締めても音が出ない。

 力が入りすぎているのは自覚しているが、かといって力の抜き方がわからない。


 ボスさんに教えてもらった、歌うように音を出すやり方。それを実行してもなかなかうまくいかない。

 そもそも歌だって下手な方なのだ、俺は。そこから改善を目指すのもアリだろうが、今の俺にはそんな悠長なことをしている時間はない。


 そのまま一時間ほど格闘してみたが、だんだん口周りの筋肉が痛くなってきたので横になってみることにした。

 「もう時間がない」という焦りが余計に俺の行く手を遮っているのかもしれない。

 昨日聴いたモーツァルトの協奏曲では、もっとのびのびと、それこそ歌でも歌うような気軽さで演奏されていたのだ。

 今の俺みたいな、首を絞められたヒキガエルのような音じゃなかったんだが……

 ただ、理想的な演奏を聴いたお陰でイメージは掴みやすくなってきた気はする。せめてもう一週間あれば、何とかなったかもしれないのに……


「頑張っとるねー、少年」


「えっ、お、お疲れ様です……」


 寝転んだ瞬間に顔を覗かれ面食らってしまったが、焦る俺とは対照的にミミ先輩はのんびりと俺の隣に座った。

 ゆったりしたワンピースからすずらんのような清潔な香りがする。


「休憩終わったらちょっと吹いてみて。私で役に立つかわかんないけどねー」


 ミミ先輩が来たことでスイッチが入ったのか、再び演奏できるだけの気力が復活してきた。

 楽器を構え、途中までしか吹けない音階をさらっていく。


「一昨日より音は良くなってるよー」


「そう、ですかね……」


「もっと楽に吹けたらいいかもねー、こんな風に」


 いつの間に楽器を取り出したのか、ミミ先輩は自分のホルンをまるでほら貝のように持ち上げ、ベルを上に向けたまま吹き出した。

 そんな滅茶苦茶な姿勢でも音が鳴るのかと感心したが、さすがにこれは……


「俺には真似できそうもないんすけど」


「大丈夫、キミもすぐできるようになるよー」


「いや、でも正しい吹き方じゃないっすよね?」


「うーん……ある程度の型はあるけど、『完璧に正しい楽器の吹き方』って決まってはないんだよねー。みんなずっと試行錯誤しながらやってるし、そもそも正解自体が存在しないのかも」


 ミミ先輩の真似はできないにしても、教えられた姿勢を守ることに固執しすぎて俺の身体が固くなっていたのは事実だ。

 心持ち気楽に楽器を構えてみると、不思議なことに少し楽器が軽くなったように感じた。


「いいね!。さっきよりも肩が下がっててナチュラルな感じだよ」


 ミミ先輩から横で励まされつつ練習していると、ずいぶん心が晴れ晴れとしてきた。そのお陰か、苦しんでいたDの音もだんだん出やすくなってきていた。

 ただ、やっぱりこれ以上高い音は出せそうもない。こんなんじゃF-durなんて吹けるはずもなく。


「どうしたのー? 暗い顔しちゃって」


「もう明日になるってのに、高い音が出ないんすよ……急に明日できるようになるわけないし」


 腕組みしてうんうんと唸るミミ先輩。もう辺りもすっかり暗くなって、大学から見下ろす港にキラキラした明かりが灯っている。


「じゃー、先輩が裏技を教えてあげよう」


 手をパンと叩いたミミ先輩は、俺の傍まで寄ってきて耳打ちした。他に誰もいないし内緒話する必要はないと思うが……


「裏技、っすか?」


「うん。霧亜ちゃんが許してくれるかはわかんないけど、その時はその時考えよっか。あのね……」





 そして迎えた火曜日。ついに入部テスト当日だ。

 今日はオーケストラの全体練習があるので、フルメンバーが揃っている。10人近くに囲まれて俺はテストされるわけか……緊張してきたな。


「やれんだろうなあ、ヒトデ」


「リラックスしてね。失敗してもやり直していいから」


「期待、してる」


「頑張りなさいよ!」


「……先輩方はいいんですけど、なんではっすんもそっちにいるんだよ」


 俺の言いたいことが伝わっていないのか、はっすんは親指を立てて応答してみせた。彼女の金髪に陽光が反射して妙に眩しい。


 特に示し合わせたわけでもないのに、もう今がテストの時間のようだ。

 チャンスは一度ではない、音が外れてもいい、わかっていても緊張で手が震える。呼吸が浅くなって、嫌な汗が脇腹を伝う。


「では僭越ながら……いきます」


 すでに音出し(ウォーミングアップ)は済ませていた。つまり今が俺にとってベストコンディションのはずなのだ。これでダメならもう仕方ない。やるだけやってみせよう。


 俺が最初の一音を発した瞬間、先輩方の表情が「アレ?」という色に変わった。ミミ先輩の言った通りだ。

 だがそんなことで立ち止まっている場合ではない。そのまま音を上らせていく。音階の頂点まで、ゆっくりと、しかし確実に。


「……ブハァ!」


 一音階吹き終えただけなのに妙に疲れた。緊張するとこんなに体力を使うものなのか。大勢の人に囲まれて楽器を吹くなんて初めての経験だしな。

 楽器を置いて周りを見回すと、一同は困惑に包まれていた。ただ一人、ミミ先輩だけがニコニコと穏やかに笑っている。


「これは……アリなんか?」


「……F-durではありますね」


「いや、でも霧亜ちゃんの想定だと……」


 各々顔を突き合わせて喧々諤々の議論が始まる。ここまではミミ先輩の予想通り。


 素人の俺にはよくわからないのだが、「F-dur(ヘ長調)を吹け」と言われたら大抵のホルン奏者は下のF(楽譜五線よりさらに下の線で表される音)から始めて音階を吹くらしい。

 しかし俺がさっき吹いたのは、その「F」よりさらに低い「D」の音。

 つまり俺は「D始まりのF-dur」を吹いたことになる。よくわからんが、とにかく音階としては成立しているようだ。


 「高い音が出ないなら低い音を出せばいい」というのがミミ先輩の言。

 ただ、みんなが想定していたものとは違うやり方であったため、抜け道や反則扱いされても仕方ない。


「誰の入れ知恵やねん……」


「ミミ先輩、ですかね。さっきからずっとニコニコしてますし」


「これはもう、な……テスト言い出した霧亜が決めや。責任取ってな」


 ずっと黙っていた霧亜さんが、指名されてようやく口を開く。



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