1回生:4月ー⑫
そして迎えた日曜日。俺は大学から少し離れたマンションの一室で一人ぽつねんと座っていた。
まだ一人暮らしを始めたばかりでダンボールもすべて開けきっていないのだが、荷解きをする気分にはなれなかった。
大学の講義も1回生向けのガイダンスばかりで大した宿題も出ていないし、勉強することも特にない。
しかし、ボスさんから言われた「ホルンの曲を聴きまくれ」という課題にも未だ取りかかれず、もう正午を迎えようとしている。
理由は色々あって、まず俺が自分で思っているより疲れていたのが原因だろう。
朝起きた時点で妙に身体がだるかった。昼近くになった今ですらまだ頭がぼんやりしている。
高校生のころ、部活でハードな練習が続いた時もこんな風になったっけ……
しかし不思議なものだ。肉体的には疲れるほどのことはしていないように思えるのに、楽器を吹くのはなぜあんなに疲れるのだろう。いわゆる「体力」とは違う、もっと「神経」や「精神力」のようなものを酷使したような気がする。
そして一番の理由は、曲の探し方というか、選び方がわからないことだ。
「ホルン協奏曲」を音楽ストリーミングサービスで探せば大量にヒットするわけだが、大量すぎてどれから聞けばいいのかよくわからない。
なんか英語とかで色々タイトルというか詳細も書いてあるのだが、違いがよくわからない。
どうも演奏するオーケストラだったり奏者が違うっぽいのはわかるが、それで何が変わるのかよくわからないし、どれを選べば正解なのかもわからない。
わからなくてもいいから何か聴けよ、というのがボスさんの指示だとはわかっているのだが……暗中模索すぎて前後左右どこに進んでいいのかわからない状態なのだ。
「とりあえず……腹減ったな」
朝からロクに活動していなくても不思議と腹は減るもので、胃がグルグルと勝手に騒いでいる。
立ち上がるのも億劫だが、とりあえず外に出るか。その辺に干してあったシャツを掴み、ようやく寝巻きから着替える。それだけの動作がなぜか妙に煩わしい。
さて、特に食べたいものもないが……前気になってた、大学に向かう途中にあるとんかつ屋さんにでも入ってみるか。
昔ながらのお店って感じで一人で入るのは心もとないが、もう俺も大学生なのだ。冒険してみてもいいだろう。
登山客と暇そうな大学生がちらほら見える駅を通り越し、長い坂を少しだけ上がると、昭和のにおいの残った店構えが目に入った。
少し重みのある引き戸をガラガラ開けると、揚げ物の芳しい香りが鼻に飛び込んでくる。
だが、そんな情緒も中にいた客と目が合った瞬間に吹き飛んだ。
「なんでアンタがいるのよ!」
叫ぶギャルを見て思わず引き戸を閉め直そうかと思ったが、店の女将さんに「いらっしゃい」と言われてしまったからには出ていくわけにもいかない。
とりあえずはっすんのいる席に一直線で向かう。彼女はロースかつ定食をさっき食べ始めたところのようだ。
「しかもなんで相席してくんのよ!」
「席空けといた方が他の人も座れるしいいだろ」
「いや……うん、それはそうね」
反論の余地が無かったためか、はっすんはすぐ箸を持ち直し、ソースがたっぷりかかったロースカツを真ん中からつまみ始めた。
定食は結構なボリュームがありそうだ。特にカツが分厚い。
「お兄ちゃん何にする?」
「ヒレカツ定食。ご飯大盛りでお願いします」
「あいよ」
割烹着の似合う定食屋の女将さんが皺くちゃの手でオーダーを紙に書き記す。大学へと通学ルート上にあるこの定食屋。彼女の手には学生と歩んできた歴史が刻まれている。
奥には無口で頑固そうな主人が菜箸を手際よく動かしていた。
やっぱとんかつ屋はこうでないとな。
「なにキモい顔してんのよ」
「あ? イケメンじゃないにしてもキモくもないだろ」
「明らかに浸ってたじゃない。オッサンくさいわよ、そーいうの」
「ソースまみれ女には言われたくないが?」
はっすんは上目づかいで俺を睨みながら、ソースですっかり変色したカツを力強くかじった。
そんなにドロドロにしちゃ揚げ物のサクサク感が損なわれるだろうが、と言いたくなったが、これ以上続けると本格的にケンカになりそうだ。
ここら辺で矛を収めてとんかつの到着を待つとしよう。
「で、聴いたの? モーツァルト」
「いや、実は何から聴いたらいいかわかんなくて……」
「じゃあ協奏曲の第1番を聴きなさい。奏者はアラン・シヴィル。オケはアカデミー室内管弦楽団ね」
「そんなスラスラ言われても覚えられねえって……」
「あとでメッセージ送るわよ。曲を聴けるURLもね」
やけに親切なはっすん。驚いた俺がポカンとしているのを見て、彼女は慌てて付け足した。
「勘違いしないでよね。困ってる人がいたら誰でも助けるだけ。アタシは性格がいいのよ」
「性格のいい人間はわざわざ自称しないだろ……それはともかく、ありが……」
「まだ礼は受け取らないわよ。アンタが合格してから受け付けるから」
俺の言葉を遮るようにはっすんが指をさしてくる。高飛車なその仕草が、今日だけはなんとなく愛らしかった。
「ちゃんと受かりなさいよ。そしたらコキ使ってやるんだから」
はっすんが悪戯っぽく笑ったタイミングでヒレカツ定食がちょうど運ばれてきた。湯気で二人の間の空気がぼんやり薄れてくれて本当にいいタイミングだった。
こんな顔、彼女には見られたらきっとキモいと言われただろうから。