1回生:4月ー⑪
軽くマウスピースを鳴らした後、江坂はそれを楽器にはめ込む。
江坂の深呼吸を聞いているとなぜかこっちまで緊張してくるが、当事者たる彼女はもっと緊張していることだろう。
そして、彼女の構えた楽器から音が溢れ出す。
張りのある、力強い音だ。「よく楽器が鳴っている」とはこういう音色を指すのだろう。素人の俺にもわかる、彼女は「できる」。
「う……まだウォームアップもしてないから微妙ね……」
誰に言い訳しているのかわからないほどの小声で、江坂はぶつぶつと言いながらも音階を駆け上がらせていく。
先輩方も静かに傾聴しているので、彼女の音だけが外廊下によく響いている。
そして一通りの音出しを済ませた江坂は不安を誤魔化すような笑みで顔を上げた。みんなから注目を浴びるってのは、芸術を趣味にする人にとっても緊張するものなのだろう。
「すごいすごーい! なかなかやるねえ」
最初に口火を切ったのはミミ先輩だった。彼女が江坂を連れてきたから……というだけではなさそうだった。
小さく拍手までして、本気で江坂の音に感心している様子だった。
「ええやん。できる子が一人おったら安泰やな」
「いいですねえ。いずれメインの1stもしてもらわなきゃですし」
「いや、でも私まだ見学で……」
先輩方に褒められた江坂は首をぶんぶんと振っているが、赤く紅潮した頬はまんざらでもない心情を示している。
「じゃあ今日は、はっすんとアンサンブルしちゃおうかー。降り番の人たちで」
「はっすん?」
「蓮実って名前なんでしょ? じゃあ『はっすん』ってことで」
早速あだ名が決められたらしい。まだ入部するとも言ってないはずなのだが。まあ、当の江坂こと「はっすん」が嫌がってないので気にすることもないか。
さて、人のことばっかり気にしてる場合じゃない。俺は俺のやるべきことを前に進めるべきだろう。
そして時計は13時半を周り、練習の正式な開始時刻になった。
例によって合奏のある先輩たちは上階のホールへ移動し、残った人たちはこの外廊下で練習を続ける。
今日ははっすんという新キャラがいるせいかなんとなく先輩たちも浮き足立っている気がする。特にクリンさんは妙にワクワクしており、しきりにお節介を焼こうとしているようだ。
「はっすんはアンサンブルどれやりたい? 知ってる曲ある? 高校でもアンサンブルやってた?」
質問攻めにあったはっすんはどれから答えていいやらで口をパクパクさせていた。食堂で威勢のよさはどこに行ったのやら。
縮こまったギャルというのもなかなか可愛らしいものではあるのだが。
「なに見てんのよ」
「別に?」
またしてもはっすんに睨まれたので慌てて目を逸らし、楽器を構える。
しかし先輩たち、どこかイキイキしてるように見えるんだよな。俺が来た時はえらい違いだ。まあ、何もできない素人よりは楽器の経験がある後輩が来た方が嬉しいか。それは仕方ない……仕方のないことなのだ。
これまで教えてもらったことをおさらいしながら練習をしてみる。長く吹き続けることをロングトーンというらしく、それは管楽器の基礎中の基礎だそうだ。
息を整え、集中し、楽器に吹き込む。まだくぐもった音しか出せないが、それでも楽器から音が出るようになったのは嬉しかった。
この調子でF-durまで吹けるようになるのかひどく不安ではあったが、それができなきゃ終わりなのだ。やるしかない。何としてでも。
少し離れた位置からはっすんと先輩たちのアンサンブルが聞こえる。全然知らない曲だが、やけに楽しそうだ。いわゆる「初見」で演奏しているらしい。時々誰かがミスをしては笑いが起きる。
そういや俺、楽譜も読めないんだよな。仮に入部できたとして、その後は……? ちゃんとついていくことはできるのだろうか。「足を引っ張ったら殺す」なんて物騒なはっすんの言葉が思い出される。
彼女の発言はさすがに冗談だったとは思うが、俺が足を引っ張らずにオーケストラを続けていくことは可能なのだろうか……
モヤモヤした不安を抱えながら、ついに今日の練習終了時刻が来た。
合奏を終えた先輩たちが階段から降りてくる姿が見える。
「お疲れっす」
「ほんと疲れた。一日に何回もソロやるもんじゃねえっての」
楽器を椅子に置いた霧亜さんはぐるぐると肩を回す。楽器に慣れてる人でも演奏は疲れるんだな……
実のところ、俺も口周りと腹筋が苦しい。さすがに今日はこれ以上無理そうだ。
「大変そうっすね……」
「それよりヒトデ、明日はどうすんだよ」
「日曜っすよね? 暇なんで大学に来ようと思ってたんすけど……」
「どんだけ暇なんだよ! それに来たところで会館は空いてねえぞ」
「マジっすか……」
明日も練習できると見込んでいたのに、これは予想外の痛手だ。
会館から真っ暗になった空を見上げる。こんな夜中に金管楽器を吹ける場所なんてないだろうし、夜に練習するわけにもいかないしな……
「あの、楽器の貸し出しとかって」
「部外者に貸すわけねーだろ。明日は休め」
「いや、でも……」
「諸説あるけどな、スポーツと同じで週に一度くらいは休んだ方がいいみたいなんだよ。嫌がらせで言ってるわけじゃねえ。お前のためだ」
楽器を支え続け痺れてきた左手小指を見つめる。あまり自覚は無かったが、どうも肩も凝っているらしい。唇も慣れない形を維持して浮腫んできているような気もする。
霧亜さんの言う通り休んだ方がいい状態なのだろう。
だが、俺には引き下がれない理由がある。
「でも俺、入部できなかったらどうせこの一週間しか楽器を触れないんすよ。先のことなんて考えてる場合じゃないんす」
「それは、お前……」
霧亜さんは妙に悲しそうに眉をひそめる。その表情の意味するところは俺にはわからなかったが、意地悪で俺の妨害をしたいわけではなさそうだ。
「休みや。先輩命令や」
いつの間にかボスさんたちが姿を現していた。霧亜さんの方ばかり見ていたから気づかなかったが、先輩方が勢揃いしているらしい。
先輩たちに囲まれる格好で俺は沈んだ姿勢のまま彼を見上げた。
「ボスさん、でも俺は……」
「代わりに宿題や。サブスクでも動画サイトでもええからホルン協奏曲聴いとけ。できればモーツァルトがええ。耳痛なるまで聴き倒せ」