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1回生:4月ー①

 音の洪水。俺の頭に最初に浮かんだイメージは、大木すらも洗い流す濁流だった。

 水も木も土砂も一緒くたに流れていくような激しい音の流れ。だというのに、その濁流は虹のように鮮やかな色をしていた。

 油断していたせいか俺の身体も濁流に飲み込まれ、バイプ椅子ごと後ろにすっ転んでしまった。

 それでも楽団が演奏を止めないでいてくれたお陰で、やらかした恥ずかしさはいくらかマシだったが。


 大学でどのサークルに入るか決めかねていた俺にとって、今日の新入生歓迎コンサートはただの様子見でしかなかった。10箇所ぐらいはサークルを巡ってみて、ゆっくり考えようと思っていたところだったのだ。

 それなのに。ああ、それなのに。


「入部したいっす!」


「おっ、気合い入ってるね。楽器歴は? 中学から? 高校から?」


「無いっす!」


「へ?」


 短いコンサートが終わった後は担当楽器ごとに別れて座談会を行う流れだった。

 ただ、俺の場合はそもそも楽器の音とか聞き分けれないし、とりあえず特徴的な形の楽器のところに行ってみた。ぐるぐる巻きの金管楽器。ホルンという名前の楽器らしいが、どういう音が出るのかはわからない。

 一座の軽い自己紹介が終わったのでとりあえず俺は入部したい旨を叫んでみたのだが。


「えーっと、貸し出しできる楽器の数も限られてるし、基本的には経験者優先だから、もしかしたら別のパートに行ってもらうかもで……」


「わかりました! 入ります!」


「本当にいいの? 大体みんな楽器の経験者だし、苦労するとは思うけど……」


「入ります!」


 目の前の優しそうなメガネの先輩は困ったように自分のネックレスを指で弄んでいる。ズブの素人が勢いだけで首を突っ込んできたとなればそりゃあ当惑もするだろう。気持ちはわかる。

 でも俺だって引き下がれないのだ。痺れるような演奏を聴いたのに、ここで諦めては一生後悔する。


 愛らしい女性の先輩が多いから、とかいう邪な気持ちではない。決して。

 あくまで俺は純粋に音楽に感動したからであって、目の前のメガネ先輩の胸なんて見ていない。少しも。


「ほーう、いい度胸だ。ホルンは触ったことあるか?」


 ショートカットの背の高い先輩が俺の肩に手を置いてくる。やっぱりこの部、女性比率が多いんだよな。思い返せば中高の吹奏楽部も女子が多かったか。まあ少数派になるくらいで怯む俺ではないのだが。


 さて、このガラの悪い先輩にいっちょ返答してやろうか。


「楽器経験? ないっす!」


「じゃあ入部テストだ。来週までにF-dur吹けるようになれ」


「了解っす!」


「ちょ、ちょっと待って霧亜ちゃん……初心者の子にそれは……」


 一人慌てふためくメガネの先輩(クリンというあだ名らしい)。地味系だが人の良さそうな感じが愛らしい。

 なんかこう……全体的に柔らかそうな感じが好ましい。


「ところでF-durって何すか?」


「アッハハハ! わからずに返事してたのかコイツ! アホだなアホ」


 「霧亜」と呼ばれた口の悪い先輩は笑いながら肩をバシバシ叩いてくる。豪快な性格だけあってパワーもなかなかのものだ。肩が軽く腫れそうなほど痛い。


「いいじゃねえか。クリンだってコイツの入部を認めるべきか迷ってたんだろ? なら白黒はっきりつけれる方法がいいだろ」


「でも、意地悪じゃないかなそんな……ミミ先輩はどう思います?」


「んー? まあいーんじゃない?」


「うっ……聞く相手を間違えたかな……」


 いまホルンパートにいるのは4人。4回生のミミ先輩、3回生の霧亜さんとクリンさん。それから2回生のなんか無口な女性(めるめると名乗っていた。無愛想な割に可愛いあだ名だ)。他にも3人ほど先輩がいるようだが、今日はそれぞれ所用で不在らしい。


「結局F-durって何なんすか?」


「音階の1つ……って言ってもわかりにくいかな。『ドレミファソラシド』みたいなものだよ」


「世間的なドレミに当てはめるなら『ファソラシドレミファ』だけどな」


 ふーん……まったくわからん。でも俺でもリコーダーで「ドレミファソラシド」ぐらいは鳴らせるし、そんなに難しいのか?

 ピアノとか木琴でも「ドレミファソラシド」を鳴らすのが難しいわけないし……クリンさんが心配そうな目線を向けてくるのは心配だが。


「舐めた表情してんな……ってかお前、名前何だっけ?」


「海野秀斗っす」


「海のヒデト……じゃあヒトデだ! お前のあだ名、ヒトデな!」


 また変なあだ名つけて……とため息混じりのクリンさん。ただ、最上回生のミミ先輩も特に注意するでもなくニコニコ微笑んでいる。

 他の人たちも妙なあだ名だし、どうもこのオーケストラ部では変なあだ名をつけるのが通例のようだ。


「とりあえずクリン、楽器貸してやれよ。どこまでやれるか見てやらねえと」


「えっ私? 言い出しっぺの霧亜ちゃんが貸すんじゃ……」


「えー、素人に楽器貸すの怖いじゃん」


 だったらなおさら無茶言い出した霧亜さんが貸すべきでは、と俺の立場でも思ったが、クリンさんは渋々自分の楽器を運んできた。同回生だというのに力関係がハッキリしすぎていて気の毒だ。


「座ったままでいいから両手でしっかり持ってね。左手はこう引っ掛けて……右手でベルは掴まずに、でも穴は塞がないように……」


 クリンさんからホルンを受け取って、膝に乗せつつ両手のポジションを探ってみる。ずっしりした意外な重みのせいか、うまい持ち上げ方がわからない。考えてみれば当たり前だが、金属なんだからそりゃ重いか……

 不格好ながら持ち上げてみるが、正しい姿勢になっているのか全然わからない。先ほどのコンサートでの先輩方の姿勢を思い出してみるが、今の俺とは全然違う気がする。


「アッハハハ! その体勢でどうやって吹くんだよ! マウスピースがデコにくっついてんじゃねえか!」


「笑ってないで助けてあげてよ、もう……」


 クリンさんが俺の背中から手を回して楽器の位置を修正してくれる。必然、彼女のふわふわした感触が背中越しに伝わってきて思わず心臓が早くなる。まさかの役得。地味っぽく見えたクリンさんが妙に可愛く思えてきた。己の単純さが恨めしい。


「ニヤニヤしてねえで吹いてみろ、ホラ!」


 耳元で霧亜さんの発破を食らい、ようやく我に返った。

 そうだ、極楽気分に酔っている場合じゃない。これも入部テストの一環なのだろう。いいところを見せて認めてもらわねば。


「ぬうっ……!」


 マウスピース(笛っぽい穴がある部分)に唇を当てて息を吹き込んでみる……が、苦しいだけで何の手応えもない。

 楽器の手前の方で息の詰まったような音が聞こえた気もするが、それだって気のせいかもしれない。


 おかしいな。リコーダーとかだったらすぐ音が出るんだが。口の当て方がおかしいのかと思い、クリンさんに視線で助けを求めてみるが、彼女はこちらをじっと見つめているだけだった。

 もし俺が間違ってたら流石に指摘してくれるよな? なら息の吹き込み方が悪いのか。あるいは力が足りないとか? とにかくもう一度!


 ……音が鳴らない。どころかさっき以上に息が通らなくなってしまった。行き場のない呼気が俺の頬を膨らますだけ。

 初めの一歩すら踏み出せないとは。まさかここまで悲惨な結果になるなんて、才能が無いにも程があるだろう。


「ま、そんなもんか。大口叩くから何かあるかと期待しちまったな」


 腕組みしていた霧亜さんは白けた様子でダランと腕を落とした。いや、彼女だけじゃない。なんとなく一座に退屈な空気が漂っている。

 

「だから一週間は無理だって言ったのに……霧亜ちゃん」


「無理だって言葉で説くより触らしてやった方がいいだろ。アタシなりの親切だ」


「だけど……」


「そもそもな、ホルンどころかピアノとか他の楽器も触ったことないやつがオーケストラに入るってのが無謀なんだよ。無理に入れてやったって本人が苦しむだけ。アタシのやってることは全部親切だよ」


 堂々と言い切った霧亜さんに対して、クリンさんはまた黙り込んでしまった。いや、弱気なクリンさんでなくても今のは反論できない場面だろう。つまらなそうに欠伸をしている霧亜さんではあるが、彼女の意見は徹頭徹尾正しい。


 しかし、だ。


「わかったろヒトデくん。これに懲りたらもっとゆるくて楽しいサークルを探してだな……」


「いえ、明日も来ます。よろしくお願いします」


「んん?」


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