第三話 得体のしれない男性と黒い石の正体
どこから現れたのかも分からない男性に、おーいと目の前で手を振られるまで、ディアーヌは暫くの間、意識を飛ばしていた。
思い出されたのは、彼女が大切に想っていた三人との幸せな頃の記憶だ。
そんな思い出ごとブローチを投げ捨てたはずなのに、まだ居座っていたのかと腹立たしくすら感じられた。
一方、眉間に皺を寄せたディアーヌを心配そうに見つめてくるのは、邪気がなさすぎる男性。
ここでディアーヌが思ったのは、彼は恐らく自分には危害を加えないだろうということだ。
その気があるなら、この間にも何かしらはしているはずであり、完全に二人きりの場で心配そうに首を傾げられてはこちらも毒気を抜かれるというもの。
それにディアーヌ自身、サミュエルの婚約者になってからはいついかなる時でも、自分は命を狙われる存在だという心構えをしてきた。それで暗殺者なりなんなりに命を取られたならそれはもう寿命ということなのだ、と割り切れてもいる。
そのため、ディアーヌが気づかぬうちに部屋に侵入してきた男性に命を奪われたとしても、後悔はなかった。
一旦はっきりと意識が戻ってくれば、話し合いが必要だという判断はすぐにつく。
「……まずは座って話をしましょうか」
「俺はもちろん良いけど、君はもう少しちゃんと乾かさないと。風邪を引いてしまうよ?」
「このぐらいであれば平気ですわ」
「そう? うーん……でもやっぱり、俺が乾かせたら良かったんだけど……」
男性はどこかしょんぼりとしながら手をグーパーとしている。そういえば、先ほど魔法だなんだと聞こえたが、彼はどこかで頭でも打ったのだろうか。
そちらの方で心配になりつつ、気遣われている分は対策をしておこうと思い至る。
「それでは、羽織るものを持ってきますわ。ですのであまり心配されないでくださいませ」
「ああ、うん。分かった。俺は座っていても良いかな?」
「ええ、お好きなところに」
言うなりソファに深く腰掛けた男性は、部屋全体を見回しているようだった。
ディアーヌはそんな彼をおいて、クローゼットまで行って扉を開き、羽織を取り出した。一応、近くにあった手鏡で最低限の身だしなみは確認してから振り返ると、男性はソファの上にはいなかった。
「あら?」
いつの間にやら。男性はソファがある位置からさらに奥、壁際にある本棚の前に移動していた。
足音も何もせずにそこまで移動していたことに驚いたが、羽織を肩にかけて男性へと近寄る。そしてその背中に、どうされましたか、と声をかけたのだが。
「君……これをどこで手に入れたんだい?」
男性が振り返ると、ディアーヌの体は硬直した。
息が止まると同時に体が動かなくなった、と頭が認識し、極限の緊張と恐怖に支配されていると理解した。要は、身の危険が迫っている、と本能が察したのだ。
それらは間違いなく、男性からもたらされたものだ。
自分を見つめる紫の眼は一切笑っておらず、感じる圧から震えが止まらなくなる。
きっと、この先のディアーヌの返答次第では、最悪の事態にまでなってしまう。
男性の纏う雰囲気は、ディアーヌが最期の覚悟を決めるくらいには恐ろしいものへと一変していた。
「それ……は……」
答えようとしたディアーヌだったが、口の中が乾ききって言葉が上手く出てこない。
「これを、どこで?」
もう一度尋ねられたことで、視線が彼の手元へと移動する。それは確かにディアーヌが今日、何の気なしに本棚に置いたものだが、それが何なのかは彼女自身も知らない。しかもなぜか……ディアーヌが見知った形とは変わってしまっている。
素直にそう答えるしか、選択肢は用意されていなかった。
「……それは、二年程前になぜか私の机の引き出しに入っていたものですわ。元々は丸い形でしたが……二つに割れている理由は、私にも分かりません」
「引き出しの中に?」
何の温度も感じられない声に、ディアーヌの背中に冷や汗が流れた。男性が怒った表情ではないところがまた、余計に恐ろしい。
「家の者にも聞きましたが、誰も何も知らない、と。なので私が保管していたのですが……今日、たまたまそこに置きましたの」
「この二年間で、これを使ったりはしなかったのかい?」
「使うにしても……書類置きぐらいにしか用途がなさそうな石ですし」
「書類置き?」
男性は分かりやすく目を丸くした。
それと同時に雰囲気がまたガラリと変わって柔らかくなったので、緊張が解けたディアーヌは短いけれど深く息を吐き出す。
二人の話題の中心は、今男性の手の中にある黒い石。
大きさはディアーヌのこぶし大くらいで、元はただの丸い石だった。それが今はなぜか、真っ二つに割れている。
引き出しにあるのを見つけた時は誰かのいたずらかと思ったが、男性からするとかなり重要なものだということは伝わってきた。男性はその後も、石を色々な角度で見たり、『アーオイオイウエ』や『アイアウオン』のような口の動かし方をして、石の反応を見ているようである。
男性の行動は奇妙でしかないが、とりあえず一旦座りたくなってソファに移動した。
座り慣れたソファの柔らかさが、今はとんでもなく心地好い。こんなにも手足を投げ出して座ったことなどいまだかつてなく、公爵令嬢としてはありえない様である。
それもこれも、緩急の激しい男性と彼の手の中にある黒い石によって、命の終わりすら感じたことによる疲労からだ。
彼が落ち着いたら絶対に問いただしてやろうと決めて、ディアーヌはぼんやりと男性を見つめた。
もう就寝前だと考えれば、身なりは十分、整っている方だと思う。服も上質そうな素材であるし、着こなしもだらしなさは感じられない。言葉遣いも砕けてはいるが粗暴さはなく、最初は柔らかい印象すら受けた。
貴族かどうかと問われると怪しいが、それなりにマナーは学んでいそうだ、というのがディアーヌの見解である。
ここまで考えて、それにしても自分はなぜこうも彼を追い出そうとしないのだろうと自分自身を不思議に思った。
うーん、と首を傾げたことで髪の毛が揺れ、なんとなく自分から少し雨の匂いがして、つい先ほどまで落雷だったなと思い出す。
家からは何人かが外の様子見に出ているかもしれない。それに公爵家を継ぐ弟の部屋には、安全確認のため使用人なりなんなりが確認に入っただろう。
けれども、この部屋には誰も来ない。
それはきっと、父が確認しなくていいと指示を出したからで、母も少し前から実家に戻っており、弟が自分の無事を気にするとは思えなかった。
……それが答えか、とディアーヌは自身の置かれた環境と男性への心の許し方を分析する。
今のディアーヌにとって、彼しか話を聞いてくれそうな人がいないのだ。
男性は静かな夜のようでもあるし、少し前までの雷雨のようでもある。
けれど彼はまっすぐにディアーヌに向き合った。
心配も恐怖も与えられ、パニックにはなったがちゃんと会話になったことが、きっと今の自分には救いだったのだろう。
そこまで分析して、背もたれに体を預けた。
ぼうっと見上げた天井は見慣れたもので、頭の中が少しばかり整理できたように思う。
要は、理解者が欲しかった、と。
それを得体の知れない人でも受け入れているあたり、かなり追い込まれていた現状を嘆く。
しかし、得体は知れないが、彼が相当に強い人だとは肌身で感じられた。彼に睨まれてしまえば、自分は完全に弱者であり敗者だった。
ここまで差があると、いっそ素直に負けを認めて教えを請うべきである、という結論に達するほど。これまでの人生で味わったことのない圧倒的な敗北だった。
「まだまだ知らないことだらけだわ」
たくさんのことができるようになったと思っていた。
そう思えるだけの努力をしてきたし、知識も経験も備えてきたと自信を持っていた。
けれども、知らないことがあった。
自分の知らないところで想い合っている二人がいたり。
何ともないと思っていた石が誰かの大切なものだったり。
聞き取れない言葉を話す人が現れたり。
……驕りが、あったのかもしれない。
ここまでできるようになったのだから自分は正しい、と。
こんな自分だからこそ、王太子妃に相応しいのだと、そんな驕りがあったから……
大切な人から嫌われてしまったのかもしれない。
そんなふうに落ち込みそうになったディアーヌだったが、タイミングが良いのか悪いのか。
「間違いない、かな」
という独り言が聞こえたので、視線を声の主へと移動させる。
石を持ってこちらへと歩いてくる男性は、今度はさっぱりとした面持ちである。
本当に緩急の激しい人だ。
けれどもその雰囲気は元の穏やかな彼だったので、ある程度の話し合いが終わったら、さっきの威圧感はどうやって出したのか教えてもらおう、とひそかに決め込んで立ち上がった。
足音をほとんどさせずに近寄ってきた男性は、ディアーヌの前まで来ると腰を折って深々と謝罪の礼をした。
「さっきは恐がらせてごめん」
「かまいませんわ。そのことも含めて、話をしなければですし」
顔を上げるよう促し、男性をソファへと誘導した。彼はお礼を言ってからソファに腰掛ける。
男性から人一人分の隙間を開けて、ディアーヌもソファへと腰を落ち着ける。
「睨んでしまって本当にごめん。実はこの石は俺のもので、なくしたと思って探していたんだ。それがここにあったから、君を疑ってしまった」
「そのような事情があったのですね。こちらこそ、紛らわしいことをして申し訳ありませんでした」
「君は悪くないよ。それにしても、本当に申し訳なかったとは思うけど、君は強いね。俺があそこまで睨んで立っていられる人は多くないのに」
「すごく恐かったですが……日頃の鍛錬のおかげでしょうか」
「鍛錬を? 戦士でも目指してるの?」
「いいえ。この国の王太子殿下の“元”婚約者ですから、嗜む程度に」
「元……」
繰り返した男性に、ディアーヌはお辞儀をしてから自己紹介をする。
「私はディアーヌ・バトンと申します。ここ、バトン公爵家の長女で、十七歳です。シャルダイム王国の王太子であるサミュエル・シャルダイム殿下の婚約者でしたが、つい昨日、婚約破棄されてしまいましたの」
「……それは大変なことがあったんだね」
「その辺は話せば長いものですから、先にあなたのことをお伺いしてもよろしいですか?」
そう尋ねたディアーヌに、彼女と同じように一礼をした男性は、はっきりとした口調で言い放った。
「まだすべてが分かったわけではないけど、単刀直入に言うと、俺はこの世界の人間ではない」
「………………」
ディアーヌは返答に失礼のないよう、男性の言葉から単語を一つずつ認識して、頭の中で何度か繰り返した。
けれども単刀直入に言われようが何度繰り返そうが、分からないものは分からなかった。
無言で首を傾げたディアーヌに男性はまた、ごめん、と謝ってくる。
「おかしなことを言っていると思うだろうけど……そうとしか考えられない状況なんだ」
「私こそ、申し訳ございません。あなたが嘘をついているとは思わないのですが、理解が追いつかず……」
「いや、それは当然だと思う。俺も信じられないし、まだ推測でしかないから」
お互いに頭を下げあって、もう一度仕切り直しとなった。
「ええっと……あなたは、ここではない世界の人間、なのですね? この国、ではなく?」
「ああ、異世界から来た者、だね。恐らくだけど、この石を起点にして飛ばされたんだと思う」
彼が手のひらの上に乗せた黒い石。
まさかこの石に、そんな力が?
「そんなことができるような、特殊な石なのですか?」
「石自体もそうだけど、まず前提として、俺の世界では魔法が使えるんだ。魔法や魔力といった言葉に馴染みはあるかな?」
「物語の中でなら。手から炎を出したりするのが魔法で、その魔法を使うために必要なものが魔力、ぐらいの認識です」
「概ね、間違っていないよ。やっぱりこの国……この世界は魔法が使えないんだね」
「そうですね。創造上のものでしかありませんわ」
そうかそうか、と頷く男性に、とりあえずディアーヌも頷き返しておく。理解できるかはおいておくとして、続きが気になった。
「この石は魔法に大きく関係するものなんだけど、今は使えなくなってるんだよね」
「……しかし、あなたがここに来たのは、その石が起点となったのですよね?」
「うん。これは完全に憶測だけど、俺を魔法で転移させたことで、石は力を失ったんじゃないかと思う」
「転移? 石が魔法を使ったのですか?」
口に出したらもう少し整理できるかと思ったが、全然である。分かるようで分からない。
質問を返すディアーヌに、男性も困り眉で頬をかく。
「うーん……そこなんだよね。この石は魔力が凝縮された塊なだけで、俺の世界では自分たちの魔力を増幅するために使ってるんだ。でも転移魔法自体、多くの魔力と専門的な魔法の知識が必要だからこの世界の人が使ったとは考えられない。だったらこの石が魔法を発動したと考えるしかないかな、って思ってるんだけど……普通、力を使い切った石は粉々になるから、残っているのも不思議でね」
「……ここまでの話ですと、この石は元々あなたの持ち物で、何かのタイミングで石だけこの世界に飛んできていた。そして今日、なぜか魔力をすべて使って転移魔法を発動し、あなたを呼び寄せた可能性が高い、ということでよろしいですか?」
「うん。そんなかんじ。すごいね、理解が早い」
理解しているかはおいといて、である。
流れだけは分かった。おそらく。
「それで……この石はなぜ、あなたをこの場に?」
「それが分からないんだ。魔法もなく、魔族もいない世界に俺を呼び出す意味はないように思うけどなぁ……持ち帰るにしても、俺だけの魔力じゃ転移魔法は使えないし……」
うーん、と二人して頭を捻りながら、ふと、そもそものことを聞いていないことに気づく。
「ところで、あなたのお名前は?」
そう尋ねたディアーヌに、男性は、うん、と答える。
「そこなんだけど、魔法でこの世界に来た可能性がある以上、俺の名前は教えられないんだ」
「それは……魔法の制約のようなものですか?」
「制約ではなく、魔法の一つに相手を使役するものがあってね。その魔法の発動条件として、術者に名を呼ばれて返事をすることが含まれるんだ。もしも、この石ではなく君が何らかの方法で転移魔法を発動していた場合、俺は君に名を呼ばれて返事をすれば使役されてしまう恐れがあるから、そのリスクは避けたい」
「私が魔法を? そんなことがありえますの?」
「この世界のことが分からない以上、可能性はゼロではないね」
「そうですか……ならば、あなたを別の名前で呼べば良いのですね。でも、あなたの本名が一般的なものだった場合はどうなりますの? 万が一呼ばれてしまうこともありえませんか?」
「お互いにそれが真実の名だと認識していなければ条件は揃わないけど……念の為、短めの名前にしてくれる?」
「分かりました。えーっと……それでは、リュカ、とお呼びしても?」
「ああ、大丈夫だよ」
リュカだね、と確認をしてきた男性に、ディアーヌは一度頷いた。パッと思いついた名だったが、彼にはぴったりな気がしている。
これで一応は名を呼べるようになり、一応は得体が知れた男性となった訳だが。
次は何を訊くべきか、話すべきかと考えたところで、リュカがディアーヌへと名前の由来を訊いてきた。
「すぐにリュカと出てきたけど、何か由来があるのかい?」
「絵本に出てくる勇者に多いのが、リュカなんです」
ディアーヌがそう答えると、リュカは大きく目を見開いた。
今の自分の発言に驚くところがあっただろうかと思っていると、リュカが、どうして? と小さな声で呟く。
「勇者の名を、俺に?」
「先ほどのあなたの威圧感がものすごかったからですわ」
「……それだけ?」
「ええ、それだけです。完全に負けてしまいましたわ。けれども、勇者に負けたのなら納得はできるかな、と」
「納得?」
「私、負けず嫌いなんです。それがあんなにも気圧されて……思い出したら悔しくなってきましたわ」
そう言って唇を少し尖らせたディアーヌに、リュカはしばし呆けた後、思わず、といったようにふきだした。
「ふ、ふふ、ははは! すごいね、君は。君ほど肝の座った人は見たことがないよ」
「褒めてます?」
「すごくね。俺は世界を巡ったけど、君ほどの人はいなかったな」
「ありがとうございます。あなたは、世界を巡るお仕事を?」
「ああ、世界中を巡って……人助け、かな。自分で言うのもなんだけど、元いた世界では俺を知らない人はいないぐらい、有名人ではあるよ」
それこそ、すごい自信だ。
けれどきっと、これは真実である。
理解より先に、確信がきた。
この不思議な感覚を、ディアーヌは大切にしたかった。
ここでおかしなことを言う自信家だと切り捨ててしまうこともできるが、それはあまりにもったいない気がする。
なにより。久しぶりにとても楽しい。
前向きな気持ちで負けたくない相手が現れたワクワク感が、ディアーヌの胸を占めていた。
「そのお仕事は、勇者と関係がありますか?」
「鋭い」
「あそこまで分かりやすく反応されますと」
「仲間にも分かりやすいとは言われるんだけど、そんなにだったかぁ。そうだね、勇者と関係があるよ」
「勇者と関係があって……魔法も使えて、詳しい。しかも人を呼び寄せてしまうほどのすごい石の持ち主で、世界を巡って人助けをして……あなたのことは皆が知っている……」
「うん。俺が何をしていたか分かったかい?」
ディアーヌ以上にどこか楽しそうなリュカを前に、今、自分が言った人物像が当てはまる職業は、一つしか思い浮かばなかった。
「あなたは、勇者なのですね」
疑問符のない語尾に、リュカは清々しい笑顔をディアーヌに向けた。
「大正解!」
ぐっとこぶしを握って親指を立てたリュカだったが、その後に続いた補足情報は、完全にディアーヌの想像を超えるものだった。
「一応、魔王を倒した勇者なんだよね、俺」
「まおう」
「ちなみに、この石は魔石と呼ばれていてね。魔族を倒したらこういう魔石になるんだ。これは俺が七歳の時に初めて手に入れたものだから大切にしていたんだけど、魔王との戦いの際になくなってしまったから探していたんだよ。君が保管してくれていて良かった」
……ニコニコと笑うリュカは一旦放っておいて。
元魔族が、彼の手のひらの上にある石。
それはずっと、自分の机の引き出しの中にあったものだ。
魔族というものが何なのかは、絵本の中の知識ぐらいだけれど。
あの、炎を口から出したり、辺り一面を氷漬けにして人間を滅ぼそうとする、あの、魔族。
そういえば、さっき魔力が凝縮された塊とも言っていた。
つまりはこの石自体が、魔族のようなもので……
すべてを理解するかはおいておくとして。
静かに、そっと。
ディアーヌがリュカから……正しくは、リュカが手に持つ石から体半分距離を開けたのは、完全に無意識だった。