第三十二話 お守り
隣室を訪れるのは、彼に部屋を案内して以来だ。
話をするのは自室か母の部屋だったために、違う場所というのは少し緊張する。
ディアーヌが部屋を出ようとドアを開けた時には、隣の部屋からリュカが顔を出していた。
「眠れない?」
「ええ、そちらに行っても?」
「え、こっち? それは良いけど……」
嬉しそうでもありながら、どこか困っている様子なのは彼が自分に好意があるからだと自覚している。なんとも悪い女だとは思うが、ここは押しきらせてもらうことにした。
「それではお邪魔しますね」
「う、うん。どうぞ」
戸惑うリュカの服の裾を掴み、部屋の中までズンズンと突き進む。そうしてソファにリュカを座らせると、その前に立って両手を取った。
「ディアーヌ、どうしたの?」
ディアーヌを見上げてくるリュカは、初めて会った時のようにどこか心配気だ。彼の向こう、カーテンの隙間から見える外はもう真っ暗で、あの日の雷雨を思い出してなんとなく懐かしくもなった。
……まだ出会ってから十日も経っていないのに。
こんなにも近くにいて、信頼して、彼との未来はどんなものだろうと考えるぐらいの仲になった。それはディアーヌだけでなく、リュカもそうだ。
リュカなんてプロポーズに近いことまで言ってしまっているし、危険がある中で本名まで教えてくれている。
握った手に力を込めると、同じ力で返される。とても心地好くて、嬉しくて、頼もしい。
そんなリュカだからこそ、ディアーヌのすべてを受け止めてくれると信じて、馬鹿げているとも言われかねない自身の考えをまっすぐに伝える。
「リュカ様、今から突拍子もない仮説とお願いを申し上げます」
「うん」
「私は、リュカ様の中に魔王であった少年の魂が宿っていると思っています」
「……え?」
「そして今から、その少年に話しかけます。リュカ様、どうかそのお体をお貸しください」
ほとんど説明のないままにしたお願いだったが、リュカは悩む素振りすらなく頷いた。
「説明はその話の後にしてくれるってことでいいかな?」
「はい。必ず」
「ないとは思うけど、もしも君が傷つけられそうになったら、躊躇せず俺を刺せる?」
「それも覚悟の上ですわ」
「よし、それならいいよ」
言うなりリュカは立ち上がってディアーヌから手を離し、ベッドの横にあるサイドテーブルに置いていた短剣を取りに行く。
戻ってくれば、またソファに座って彼の横に短剣を置いた。
「それじゃあここに置いておくから、少しでも怪しいところがあったら迷わず使うこと。狙うなら右腕だけど、とにかく体のどこでもいいから一気に刺してね。大丈夫?」
はい、と返事をするより先に、ディアーヌはリュカの首元に抱きついた。自分からこうして手を伸ばしたのは初めてだったが、羞恥心よりも大きくなる気持ちを抑えられなかった。
「……どうしてそんなに、手放しに信じてくださいますの?」
思わず震えた声で尋ねれば、返ってきたのは温かな抱擁だ。
「出会ってからこれまで、ディアーヌは俺に嘘をついたり、俺を陥れようなんてしてきてないからね。それに君が真剣に考えてくれたお願いなんだから、断るなんてしたくないよ」
リュカが……彼の言葉や温度が好きだと思った。それと同じくらいに守りたい、大事にしたいとも思った。
「絶対に、あなたを傷つけることはしませんわ」
「うん。ありがとう。あ、でも」
トントン、と肩あたりを軽く叩かれて少しだけ体を離す。
何を言われるのかと彼の顔を見て、その表情から初めて緊張が伝わってきた。
「俺にとっても、けっこう冒険をすることだからお守りがほしい」
「お守り?」
「何でもいいんだ。今までディアーヌが一番安心したこととか言われたことで──」
「…………これで、満足してくださいませ」
え、と一音返ってきた気の抜けた声は、魔王討伐を果たした勇者のものだ。
ディアーヌはお守りとして、勇者の額にキスを贈った。
固定のために両頬に添えていた手を離して、再びリュカに抱きつく。
それこそ今日、リュカから贈られたもので何より安心感を得られたので、同じだけのものを返そうと思ったのだ。そして抱きしめ直したのは、恥ずかしさから赤らんだ顔を隠したかったためである。
生きてきた中で一番騒がしい心臓の音は、きっとリュカにもバレていることだろう。しかしリュカはリュカで、ディアーヌの行動が信じられなかったのか未だ放心状態である。
「苦情は受け付けませんわよ。なにせ、されたのもしたのもリュカ様が初めてですから」
照れ隠しにそんなことを言えば、それまでやんわりとディアーヌに触れていただけの両腕が明確な意思を持ってディアーヌを包み込む。
「……最高です。もっとちゃんと見れば良かった……」
「やめてくださいませ。見られていてはできませんわ」
「じゃあ見ないからいっぱいしてもらおう」
「それではお守りにならないのでは?」
「効果が倍の倍の倍になるよ」
「何ですか、それは」
笑っている間に、リュカからもぎゅうっと抱きしめ返される。それから少しの間無言で抱きしめ合い、ありがとう、とリュカからお礼を言われ、いつでもいいよ、と続いた。
ディアーヌは今度こそちゃんと体を離すと、リュカの前に背筋を伸ばして立つ。
二回、ゆっくりと深呼吸をしてからリュカの右手を取り、両手で包みこむようにしてから、リュカと目を合わせる。心からディアーヌを信頼しているという微笑みを浮かべて、リュカは体の力を抜くと静かに目を閉じた。
見えなくなった紫の瞳を恋しく想う。いつもは穏やかな陽光のようなのに、戦いにおいては雷のように強烈な光を放つこの人と、この先も共にいられるように……
自分にできることは最大限、全力前進でやり遂げようと思った。
それからリュカの手を胸の前まで持ち上げて、祈るような姿勢をとったディアーヌは、ただ一人に語りかけるための詠唱を始める。
「……勇者の中に宿りし、魔王の魂よ。我が声に応え、勇者の体を借り、そなたの声を我に届けよ」
ディアーヌが考えた詠唱だが、きっと言葉は何だって良いのだと思う。大切なのは、リュカの中にいる存在を正しく認識し、語りかけること。
目を閉じたリュカに変化はない。
うっすらと笑みを浮かべた口元も変わらずそのままだ。
……けれど、分かるものだな、とディアーヌは思った。
「初めまして、魔王様。私はディアーヌ・バトンと申します。あなた様のことは、何とお呼びすればよろしいですか?」
ディアーヌの問いに、ふっと歯を見せて笑ったリュカがゆっくりと瞼を上げる。
その眼差しは“彼”のもので、”リュカ“のものではない。
「……何でもいいよ。呼びやすいもので」
「それでしたら、エクレール様でよろしいですか?」
「うん。意味はあるの?」
「閃光という意味ですわ。リュカ様と初めてお会いした日は雷雨で、雷が落ちた直後に転移されましたから」
「そっか。なんか、かっこいいね」
ふんわりとした笑顔につられてディアーヌも思わず微笑んだ。エクレールと呼ぶのは、リュカの体を借りた魔王である少年のこと。
「僕も、お姉さんのことを名前で呼んでもいい?」
「ええ、お好きに呼んでくださってかまいませんよ」
「それじゃあ……よろしくね、ディアーヌお姉さん」
「よろしくお願いします、エクレール様」
かくして、魔王と悪役令嬢の二人きりの語らいの場が開かれるのであった。




