第三十話 ずるい悪役令嬢と姑息な勇者
出会ってほんの数日。世界も立場もまったく違う人で、本名も知らない。
それでも、何があってもこの人はディアーヌを守り抜くために動いてくれる。そしてきっとこの先も、ディアーヌが負けず嫌いであればあるほど笑ってすごいと言ってくれて、心から認めてくれる。
少し俯いて、自分からさらにギュッと抱きついた。
リュカの体がピクッと動く。
顔を見てないから分からないが、心音が少し速くなった気がした。いや……速くなったのはディアーヌの方か。
こんなに近くにいては、どちらのものか分からない。
「まだ恐い?」
どうやらディアーヌの行動は、恐怖からくるものだと思われたようだった。
……そうではない。
これは完全に……
「……ずるいんです」
「え?」
「私は今、リュカ様の私への好意を利用して、もう少しこのままでいてもらおうと企んでいます」
「そんなの大歓迎だよ。抱きしめていいなら俺はずっとこうしてたい」
「ここは、意地悪な勇者様ではないのですね」
「好きな子が甘えてくれてるのに、意地悪なんかして離れられるのは嫌だからね」
そうしてしばらく抱きしめ合っていた。
どちらの方が体温が高いとか、ディアーヌの髪は良い匂いがするとか、背中の筋肉が硬くてずるいとか。そんなことを話しながら、心地良い時間に身を委ねた。
体を離したきっかけは、窓に差し込む夕日を見てからだ。
これ以上、甘えていたら夜になる、と離れることを提案したディアーヌにリュカは残念そうにしながらも腕をほどいた。
ちょっと外の空気でも吸う? というお誘いに頷いて、窓際まで行き、窓を開放する。
軽く手を広げて深呼吸すれば、隣でリュカも同じような動きをしていて、つい笑ってしまった。
その時、強めに風が吹いてディアーヌの髪が後ろになびいた。それを手で押さえながら、ふとリュカと初めて会った日に魔法で髪を乾かしてもらったことを思い出す。
同じくして、今日のことも。
「……リュカ様、私、聞きそびれていたことがありましたわ」
「何?」
「魔族と相対してリュカ様が剣を構えた後ですけれど、何かおっしゃっていましたよね? あれが魔法詠唱ですか?」
「……どんなこと言ってた、俺?」
「えーっと……『我が身に宿りし純然たる力よ』で始まる──」
「ちょっと待って!」
質問してきたのはリュカなのに、ディアーヌがすべてを言い終わる前に待ったをかけられた。何だと思えばなんとも複雑な表情のリュカに両肩を掴まれる。
リュカは笑いを堪えるような、でも困惑するような顔つきで何かを言い淀んでいた。そよぐ風が彼の髪を揺らし、それが今のリュカの内心に同調しているように、ディアーヌの目には映る。
「リュカ様?」
「……今、俺の中で清らかな俺と姑息な俺が戦っています」
「はい?」
「どっちの主張から聞く?」
「……清らかな方から?」
夕方になりかけの空から注ぐ陽光が、リュカをオレンジに染める。神秘的な色合いにディアーヌは見惚れていると、リュカは優しげに微笑んで、ディアーヌの肩に置いていた手を降ろした。
「ディアーヌが聞いたのは、魔法詠唱で間違いないよ。けど……そのことはもう、忘れた方がいい」
「……理由を伺っても?」
「魔法はこの世界にはあってはならない力だ。どうしてディアーヌが聞き取れるようになったのかは分からないけど、君に魔力はない。けれど万が一、魔法が発動してしまったら……俺は君を、俺の世界に連れて行かなければならなくなる」
「……残って皆を守るために力を使う、というのは? またいつ、魔法を使える人がこちらに来るか分かりませんし」
「これまでの歴史の中で魔法使いがこっちに来てるなら、この世界でも魔法は当たり前になっているはずだ。そうなっていないのなら……今回のことは、それこそ千年に一度とか、そんなレベルのものだろうね」
「……そうですわね。それに世界の理に反することをしていれば、いつかは大きなことになりかねませんわね」
「そう思うよ。それこそ……研究施設に連れて行かれて一生研究対象にされたり、化け物扱いされたり……嫌な方に考えようと思えばどこまでも悪くなれる」
ディアーヌにとっても、悪い方向ばかりが浮かんだ。魔王の話を知った後だとなおさら……それこそ本当に、魔王となってしまうかもしれない。
「君も世界も守るためには、君はこれ以上、魔法詠唱の知識を身につけない方がいい」
「それは、分かりますわ。けれど……それならば姑息な方とは?」
訊いた途端、ぐ、とリュカの眉間に皺が寄った。
先ほどまでの流暢な話し方はどこへやら。分かりやすく言いづらいです、といった様子ながら姑息な方の考えを話し始める。
「このまま魔法が使えるようになったら、ディアーヌにその気がなくても連れて帰る理由になるから、使えるようになってほしい」
「……なんとも姑息な」
「知ってる。だからやるならこっそり誘導しようって思ってた」
「なんとも姑息な」
「知ってる。ディアーヌだって悪いよ。夜な夜な詠唱の練習なんかしてるって聞いたら、そりゃあ期待するよ」
……それを教えたのは母だな、とすぐに思ったが、ソランジュを責めるつもりは一切なかった。
知られたところでディアーヌは困らない。むしろそうしてることこそ、自分らしい。
ということで、ディアーヌは胸を張ってみせた。
「私が大人しくできないままでいるはずがありませんし」
「だよね。そういうところ、すごく好き」
真っ直ぐな言葉の後、決闘の日にように……いや、あの時よりずっと明確に愛情のこもった眼差しをディアーヌへと向けて、リュカはディアーヌの左手をとると、その手の甲にキスをした。
その温度を感じて、ディアーヌはじりじりと耳から首にかけて自身の熱が上がったのが分かる。
「ディアーヌさえ望んでくれるなら、俺の全部を君にあげる。だから俺を利用していいよ。その分、俺の望みも叶うだろうし」
全部というのは、本当に彼の全部なのだろう。その想いを告げられ、ディアーヌは一瞬たりともリュカから目を逸らさなかった。
「……まだ、リュカ様のお気持ちに応えられるような確たるものが私にはありません。それでも本当に利用してもよろしいのですか?」
「いいよ。何でも教える。だから早く魔法を使えるようになってよ」
「欲深い勇者様ですわね」
「姑息より良いでしょ?」
「そうですわね。私も、知ってしまった以上は必ず使えるようになってやろうと思っておりますし」
その言葉にリュカはにこりと笑うと、空いた方の手を今度はディアーヌの頬に添えた。
「我が身に宿りし純然たる力よ。我が声に応え、聖なる光となれ……回復」
柔らかな光に包まれて目を閉じる。
じんわりと頬から伝わる温かさが引いて目を開けると、泣いて重たくなっていた目元はスッキリとし、強く噛んで傷ついていた唇のヒリヒリとした感覚はなくなっていた。
「覚えた?」
「えぇ、ばっちり。ありがとうございます。属性と魔法の呼称が変わるのですね」
さすがだね、とディアーヌ以上に嬉しそうなリュカから額にキスを贈られる。紫の瞳が特別な甘さを纏って見つめてくるのを、ディアーヌは正面から受け止めた。
「嫌がられないから、調子に乗っちゃうなぁ」
「乗ってくださいませ。押せ押せで押しきっていただいた方が、私も吹っ切れそうですもの」
「……前の人を忘れられない?」
「前の人が、ではなくて世間的に、ですわ。こんなにあっという間に心変わりしてもいいのかな、と。そこに引っかかって踏み出せていないところはありますわ」
「それってもう相当だね。あー……これは調子に乗っちゃう」
「リュカ様は相当の変わり者ですわ。普通、こんな女、引きますわよ」
「勇者ライオノアだからね。普通の男とは格が違うんだよ」
…………今のは。
ディアーヌがパチパチと瞬きをしている間に、くすっと笑ったリュカはディアーヌの頬を再び撫でた。
「自分で言うなって思った?」
「さすが勇者様だと思いましたわ」
リュカこと、ライオノアはとびきり幸せそうだ。
その笑顔を見て彼の本名を知って、体中にじんわりと広がっていく喜びを感じるディアーヌだった。




