第二十九話 涙の理由
魔族を倒したことで氷柱は一気に溶けたようで、ディアーヌたちが戻る頃にはその場には水溜りが残っていただけであった。
家に帰るまでの馬車の中で、ミエラたちがディアーヌにあれこれと訊いてくることはなかった。彼女たちからすれば、いきなり氷が出現した上、リュカがディアーヌを横抱きして飛んでいったというのに。
人智を超えた明らかにおかしな事態が起こっていても、ディアーヌから話すまで待つという選択をしてくれたようだ。
「……ごめんなさい、皆。お母様に報告をしてから、今日のことは説明するわ」
「承知いたしました。お嬢様、ご無理をなされませんように。こちら、唇に塗ってくださいませ」
「……ありがとう」
簡単な会話だけをして、渡された保湿剤を唇に塗る。
じくりと痛む唇に思い出すのは、モニクの笑顔だった。
保湿剤をミエラへと返したディアーヌは、心配そうに自分を見つめる皆にもう一度謝ったが、余計に心配をかけてしまっていた。上手く笑えず、どうしていいか分からなくなったところで、リュカにそっと抱き寄せられる。
「帰るまでこうさせて」
「……帰るまで、です」
強がりしか返せず、これ以上は何も言うまいとディアーヌは目を閉じた。
誰もディアーヌに声をかけずにいてくれる優しさの中で、ディアーヌはひたすら思いに沈む。
どうかこの先に、明るい光を見つけられますようにと祈りながら、馬車はバトン公爵邸へと進んだ。
夕方まで帰らない予定が昼過ぎに帰宅したディアーヌたちに驚きながらも、皆の様子を見て何かあったことを察したソランジュは、料理長に軽食を作るように指示を出した。
そうしてソランジュの部屋で軽食をとりながら、リュカがソランジュに今日の出来事を報告し、少なくとも同行してくれた三人にはソランジュの方から状況を説明してくれることとなった。他の使用人や護衛には、できる限りで魔法使い等の存在は避けて説明する方針だ。あまり話を広めてしまうと、それだけ未知なる恐怖を植え付けることになる。
今後の生活を考えると知らずにいた方が良いだろう、ということでそう決めたのだが……
「あなたたちは二人でちゃんと話をできていないのね?」
「はい、まだです……」
「ディアーヌ、話はできる?」
「…………はい」
明らかに萎れた返事をしたディアーヌだったが、リュカの服を掴んではいることはソランジュも気づいていた。これはディアーヌなりに、彼から離れるという選択肢はないということを表しているつもりだった。
一方で、リュカからはずっと心配されているし、自分が目を合わせないことで、リュカの方が苦しそうにも見える。
まともに顔を上げられなくて申し訳ないと思っていたところで、二人でゆっくりと話をしてきなさい、とソランジュから言われて二人はディアーヌの部屋へと移動した。
定着化しつつある横並びの状態で、ディアーヌとリュカはソファに座った。しかしいつもより重苦しい空気が二人の間にある。
その空気の分だけ、沈黙の時間が訪れた。それは考えを整理するため、気持ちを落ち着かせるための時間ではあったが……結局、掠れた声しか出ない喉から力を振り絞るようにして、ディアーヌがリュカへと問いかけたことで話が始まった。
「……馬車の中でずっと考えていたのですけど……リュカ様は、いつからお気づきだったのですか?」
「それは……モニクが魔族ってことに?」
「はい。どの段階で、そう予想していたのですか?」
「ディアーヌから最初に学園のことを聞いた時は、要注意人物ぐらいだったけど……学園に行き始めて、姿を見ないからもしかしたらって思ってた」
俯いているディアーヌとは違い、リュカはじっとディアーヌを見つめて話をする。
横目にも彼がいかに自分を気遣ってくれているのか伝わってきて……その分、ディアーヌの中に込み上げてくるものがあった。
「リュカ様……私に言いましたよね? これからのことは、二人でやり遂げるんだ、と。隠さずに話していかないと理解は深まらない、と。お互いに理解が足りないと、いざという時の判断に遅れが出る、と」
「……言いました」
「では、それを踏まえた上で……私に魔石を渡した後、謝ったのはなぜですか?」
「それは……ディアーヌにとってモニクは友人だったのに、何も話せずにいた上に無神経にも魔石を渡して……ディアーヌを泣かせてしまったから──」
「そこです」
その一言は、やけにはきはきとリュカの耳に届いた。そして俯いた状態からギュインッと首が回ったかと思うぐらいに角度を変えて、ディアーヌはリュカに顔を向ける。
「……ディアーヌ?」
少しだけ、リュカの声が上擦った。
それは間違いなく、ディアーヌのせいだ。
ディアーヌは今、背中に鬼を背負っているかの如く迫力でリュカを睨み上げていた。
「モニク様のことを話さなかったのは、友人だから、わざと隠していたのですか?」
「いや、わざとでは……! 話すには確信がなかったから、変に不安がらせたくなかったんだ」
リュカがそう口にした途端、ディアーヌはとうとう激昂した。
「わざとではないのなら、リュカ様は悪くないでしょう!? 私が泣いたからといって、謝る必要なんてどこにもありませんわ!」
怒ったのは、謝らせてしまった自分自身に、だ。
しかし八つ当たりも甚だしく、リュカに感情のすべてをぶつけるものだから、彼女の圧に押されたリュカは目を見開いて後ろに仰け反る。
座ってなどいられなくなったディアーヌは、立ち上がってリュカの正面に立つとさらに眉を吊り上げた。目には涙が膜を張り、滲む視界にリュカを捉える。
「あの時泣いたのは感情が昂ったからで、リュカ様が謝ることなんて何一つありません! 情報が不確かだから伝えない。それはありうることです。混乱を招くぐらいなら黙っているという判断は間違っていません。たとえ、何でも話すと約束していたとしても、状況によりけり。そのぐらい、私だって弁えてますわ!」
「は、はい」
「いつもいつも、リュカ様ばっかり謝って! 謝らせて! 私は何度、自分の不甲斐なさを実感すればいいんですか!」
「いや、でも──」
「でも、ではありません! 私だって……私だってモニクがそうではないかと考えたこともありましたわ! でも結論づかなくて、途中から別のことを考えて頭の隅に追いやってしまって……! 今日だって、あれは魔族だと分かったのに何もできず、怯えてリュカ様にしがみついていただけ……! 結局倒したのはリュカ様のお力で、それなのに気を遣われて謝られて! 情けないったらありゃしませんわ!」
ディアーヌの叫び声は部屋の外にも聞こえているだろう。
けれどそんなことを気遣う余裕などない。
「私は一体何をやっているの!? 戦うと決めたのは私なのに、情けなくも泣くことしかできないなんて、本っ当に不甲斐ない!」
身振り手振り、悔しさを表すディアーヌは止まらない。
昂りすぎた感情は涙を伴い、ぽたりぽたりと涙が床に落ちる。
「そりゃあ悲しいですわ! 友人だと思っていましたもの。それにマチルドたちとのこともありましたし! けれどもそれはそれ! この道を選んだのは私! それならば私だってもっと、もっともっと、立派に戦いたいのに……! 少しでもリュカ様の隣に並び立って戦いたいんです! 立ち向かいたいんです! それなのに何にもできてなくて──」
悔しい! と叫ぼうとしていたディアーヌだったが、言い終わる前にリュカが突然立ち上がり、ディアーヌを抱きしめた。
その力は魔石の一件の時よりずっと強い。
癇癪といってもいいほど悔しがるディアーヌを止めるためかもしれないが、これで落ち着くディアーヌではない。
悔しさをぶつけるように……というには完全な八つ当たりで、リュカの背中側の服を思いっきり引っ張って引き剥がそうとする。
「リュカ様! 何をなさいますの!」
「……抱きしめてます」
返ってきたとぼけた答えに、考えなしでこんなことをしないでください! とグーで背中を叩きながら叫んだ。するとぎゅぅぅと音がしそうな程に抱きしめられて、動きは止まるし息も詰まる。
その隙に、リュカが自身の心の内を吐露し始める。
「……すごい負けず嫌いだな、と思っていたら、そんなところもすごく好きだと思って……気づけばこうなってました」
「はい!?」
「悲しくて泣くんだと……思ってたんだ。それに、俺にも怒ってると思った。でも違って、ちゃんと、受け止めてて。それで……戦いたいって何? 何でそう思えるの? 恐くないの?」
「恐いですわ。でも、魔族だと分かったならちゃんとしなければなりませんでしたのに! なんのためにリュカ様のお時間をもらって教えていただいたのかと……! それを少しも役に立てられずに悔しいですわ!」
「何でそんな勇ましいの……なんかもうすごいよ」
すごいすごいと言われながらがっしりと抱きしめられ、それでもって後ろ頭を撫でられるものだから、暴れる気持ちも萎んできて背中を叩くのはやめにした。
「……でも、俺はやっぱり謝ったと思う」
「なぜですか」
「好きな子を泣かせちゃったからね。もっと言葉をかけるなりなんなりできたはずだったのに」
「……好きだとお認めになったのですか?」
「うん。一昨日ね。ディアーヌが寝た後に」
寝た後? と尋ねると、ソランジュと二人で話したということだけ教えられた。
「話した内容は奥様に聞いて。俺から話していいか確認してないから」
「……分かりましたわ。けれどお母様がわざわざ私が寝ている間にリュカ様にお話をしたのなら、私は知らない方が良いことでしょう。それならばお聞きしません」
「聞き分けが良すぎる……」
そこもリュカには良かったのか、またもや腕の力が強くなって、いよいよディアーヌは抗議の声を上げた。
「リュカ様、苦しいです」
「ごめん」
「謝るならお離しください」
「そこはどうにかご容赦いただきたい。離したくない。お願い」
「……少しだけですわよ」
先ほどまでのディアーヌの嵐は去っていき、しばらく無言で抱きしめ合った。
……離れがたいのはディアーヌの方かもしれない。息苦しささえなくなってしまえばリュカの心音も体温も心地良く、もう少しこのままでいたいと思ってしまっていた。
あんなにも八つ当たりして吠えたのに、リュカはどうしてこうやって抱きしめてくれるのだろう。こんな自分のどこが好きなのだろう。
普通だったら、引かれると思う。これがディアーヌの性格だから、といえばそれまでだが、それを好きだと思って抱きしめるなんて、リュカは変わり者すぎる。
……さすがにサミュエルの前でも、ここまで荒ぶった姿をみせたことはない。
ここまで感情を顕にしても、リュカはそこが好きだと言うのか。それはもう、何があったって……ディアーヌがどうなったって。
「……リュカ様」
「うん?」
「八つ当たりして、申し訳ありませんでした。それで……あの時に泣いた私にもですけど、今の私に呆れませんでしたか?」
「焦ったけど呆れるなんてないよ。本当に強い子だなぁって感動してた。あと今は、全部話してくれて嬉しい」
「背中もたくさん叩いてしまいましたし……」
「あんなの叩いたうちに入んないって。ポカポカしてるの痛くもないし、可愛かったよ。それに、あんなことがあった後は不安定になるものだし、もっと落ち込んでもおかしくないと思う。それでもディアーヌは自分の力で立ち直ってるのがすごい。どんな状況でも強くありたいって思えるところもすごいし、何もできなかった自分を悔しがれるところもすごい」
あんなこと、と言われてモニクと魔石を思い浮かべる。もう二度と、会えなくなった彼女。
目を閉じて、リュカの胸に耳を押しつけた。
彼の生きている音に耳を澄ませると、ドクドクと……朝に聴いた時より速い音がして安心する。
魔族はすごく気味が悪くて恐かった。
でも、死ぬとかそんなことは思わなかった。
この腕が、この背中が……リュカが守ってくれると信じていたから。
「……今日は守ってくださって、ありがとうございました。何もできなくてごめんなさい。次はもっと……ちゃんと、一人で立ちます」
「気負わなくて大丈夫だよ。それにあの状況であれだけ頭を働かせられるのは本当にすごいんだから。自信持って」
「はい。でも、あれはリュカ様が守ってくださると信じていたからですわ。身の安全は保証されていたから、考えることができたのです」
「うん。君は俺が守るよ」
この約束が絶対であることが、なによりも嬉しかった。




