第二十二話 共通点
サミュエルたちとの一件は知れ渡っているだろうに、午後からは誰一人としてディアーヌと目を合わせようとしなかった。
きっと誰かからの手回しがあったのだろうな、と思いながら、ディアーヌにとってはどうだって良かったので気にすることなく過ごした。
午後の授業もすべて真面目に受けて、放課後になればリュカとともに各クラブ活動を見て回って、要望等は明後日に、と伝えて帰宅することとなった。
帰宅してすぐ、ディアーヌは自室にこもった。
当然、リュカもついてきたが彼はディアーヌが気づいたことに何も言わないし、何も聞いてはこなかった。
……いつからだったのだろう。
ああなることを、マチルドが望んだのは。
それを考え始めると、舞踏会の前後で経験した自分だけが何も知らなかった時の絶望感が、再び足元から這い上がってくるようで、ディアーヌは両手で顔を覆った。
今の感情を、どう言葉にしていいのか分からない。
どんな気持ちで、彼女はディアーヌの背中を押していたのだろう。もしも昔からサミュエルへの気持ちを自覚した上でそうしてくれていたのなら、自分はあまりにも無神経な人間だった。
しかし……そう思うだけでない自分もいるという複雑すぎる心境に、ディアーヌの手に力がこもる。前髪をぐしゃりと握ったところで、温かな手のひらが背中をさすった。
「ディアーヌ、ミエラさんが紅茶を淹れてくれたから少し飲もうよ」
リュカの言葉に大きく息を吸い込めば、ディアーヌのお気に入りの紅茶の香りがした。彼に就寝前にお勧めしたものとはまた違うものであるのに、ここに用意されているということはリュカがミエラに用意してもらうよう話してくれたのだろう。
彼の優しさにじわりと涙が滲みかけ、ディアーヌは小さく首を横に振って泣かないように努めた。
泣いて状況が改善することはない。そもそもとして、何も解決していないのに後悔と反省のために泣くことはしたくなかった。
「……ありがとうございます。黙りこんで申し訳ございませんでした」
そう言って顔から手を離し、姿勢を正す。
髪の毛はぐしゃぐしゃだろうが、直す気力は湧かずにリュカへと顔を向けた。
「気にしなくていいよ。俺こそごめんね」
リュカが謝りながら、ディアーヌの前髪を手で整える。
しかしディアーヌはリュカが何に謝ったのか分からず疑問符を浮かべていると、ディアーヌの前髪から手を降ろしたリュカが、座ったまま深く頭を下げた。
「誰が魔法にかかっているのか明らかにしたくて、わざと煽るようなことをした。そのせいで今、ディアーヌは傷ついてる。だからごめん」
「そんな……謝る必要はございませんわ。必要なことだったのですから」
そろそろと顔を上げたリュカは、ディアーヌと同じく苦しそうな顔をしていた。
「強引すぎた、というのを今のディアーヌを見て思った。そのぐらい、俺は君のことを考えられてなかった」
また、ごめん、との謝罪を受け、ディアーヌは謝らないで、と強めの口調となった。
「今、リュカ様に謝られたら、泣きますわよ、私」
「え」
「泣きたくなるのを堪えているのですから、泣かせるようなことを言わないでくださいませ」
自己嫌悪に陥っていたところを唯一の優しさで包まれ、傷つけたことを謝られるなど、我慢の限界に達しそうだった。
自身の愚かさを許されるようで、涙腺が緩む。
だから泣かないように目に力を込めて、ディアーヌはリュカを見つめた。
そんな彼女を正面から見たリュカは、数度瞬きをして、ディアーヌ、と小さく溢す。
「悔し涙は流しても、悲しみの涙なんて流したくないですわ。泣くなら負けたくない時と嬉しい時。今は負けたくない時でもありますけど、悲しい時でもあります。悲しみが混じったらいけません」
「そう……なんだね、ごめん」
「だから! 謝らないで!」
「うん、もう謝らない」
「そもそもどうして、リュカ様はあの時点でお気づきになっていたのですか。三人のことなんてあまり知らないのに……! 観察力ですか、洞察力ですか。何を鍛えたらあなたのように多方面を見渡せるのですか。しかもまた見えないぐらい速く動かれましたわよね! どうやって殿下の後ろに回り込んだのですか!? ずっと私を守る動きなのに、そんなことができるって何なのですか。おまけに私が泣きそうになったら隠してくださって。何なのですか。慈悲の心の塊ですか……!」
現在、ディアーヌは自分が何を言っているのかもあまり考えられていない。とりあえず勢い任せに口から何かしらの言葉を発しているようなものだった。
そうしてでも、後ろ向きになる自分を止めたくて必死だった。
「リュカ様のとんでも勇者ぶりには驚きっぱなしですわ。こんなにも早く色んなことに気づくだなんて思わなかったのですもの! 駆け足すぎて心も頭も準備できておりませんでしたわ!」
「……うん、早かったよね。俺も一日にしては色々と分かって驚いてはいるんだよ?」
「全然そんなふうに見えません」
「そう? それはたぶん、ディアーヌにかっこ悪いところを見せたくなくて、余裕ぶってるのかも」
「……かっこ悪いところなんて一つもありませんわ。それを言うなら、私の方が情けなくてかっこ悪いですもの。大事な人のことを何にも分かっていなくて……それで落ち込んで励まされているだけなんて、情けないですわ」
語尾が萎れていくのが自分でも分かった。
情けない。
この言葉に尽きる。
そう思って目を伏せると、膝に乗せていた自身の手の上に重なる手があった。
もちろんそれはリュカのもので、ディアーヌよりも日に焼けた大きな手が自身の手を覆うように握るのを黙って受け入れる。
「ディアーヌは情けなくなんかないよ。目を逸らすことだってできるのに、ちゃんと現実を受け止めて立ち向かおうとしてる。すごくかっこいいと俺は思うよ」
「……ありがとうございます。でも……まだ弱さがあるんです。皆に囲まれた時、リュカ様がそばにいてくれたら、と考えてしまいましたわ」
「それは弱さじゃない。人に頼れるっていうのは大事なことだよ。それと、次からはそう思った時には絶対に呼んで。俺が何をしてるかなんて考えなくていいから」
「……いいのですか?」
「いいも何も、俺は君を守るためにいるんだよ」
「それは言い過ぎですわ」
「言い過ぎじゃない。というより、呼んでくれない方が俺は嫌だ」
リュカはリュカで大変だろうと思ったから呼ばなかった。けれどそれは、彼にとっていらない気遣いだったのなら……
「申し訳ございませんでした。もっと……リュカ様に頼ります」
「俺もごめんね。もっと早く動くべきだった」
このままでは二人して謝り続けてしまいそうだと思い、ディアーヌは昼にリュカに言われたことを思い出す。反省してそれが相手に伝わったのなら前向きな話に切り替える、という彼の考えに乗っかることにした。
「……リュカ様のお気持ちは分かりましたし、私のこともきっと分かってくださっていると思いますから、ここはお互い様、ということにはできませんか?」
「そうだね、俺もそう言おうと思ってた。俺はもっと早く行動に移す、ディアーヌは俺を頼る。次からは気をつけようね」
「はい」
「じゃあ、一旦、紅茶を飲んだら俺の方で集めた話をしようか」
「ええ、お願いします」
リュカの手は自然と離れ、二人は大人しく紅茶を飲んだ。だいぶ冷めていたが相変わらず好きな味で、ディアーヌの気分は少し浮上する。
……頼らなかったことを嫌だと言われたのは初めてだ。それこそ生徒会では頼りたくても許されなかった。
握られた手の温かさがまだ残っていて、彼の温度が自分を独りにはしないと言ってくれているようで、今朝感じた心の痛みも和らいでいく。
お気に入りの紅茶に気分が浮上したのだと思ったが、リュカが隣にいてくれると実感できたことで気持ちを強く持てている方が大きいのだな、とディアーヌは思う。
「……リュカ様。今朝もお昼も、助けてくださってありがとうございました。とってもかっこよかったですわ」
「……それなら良かった」
ディアーヌがお礼とともに微笑むと、リュカは少し耳を赤くして照れた様子で笑い返してくれた。
そうして二人とも一息ついたところで、リュカは今日の彼の行動から導き出した推論を話し始めた。
「マルソー先生のことはちらっと話したよね。実は、先生たちには学園長とは別の人から、特別に君には厳しく接してほしいという依頼がされていた」
「別の人から?」
「そう。しかも二人から同じように言われていたそうだよ」
二人……と呟いたディアーヌに、リュカは頷く。
ディアーヌは学園の教師全員にそのような依頼を出せる人物を頭の中で探して、すぐに答えに行き着いた。
「……陛下と、父ですね」
「さすがだね、その通り。学園長は学園長で、『副会長としてディアーヌが学園で成功すれば、彼女は素晴らしい王妃になる』と毎日のようにマルソー先生に話をしていたそうだ。そこに国王と公爵からの依頼が重なり、君も助けを求めなかったから、見守るように徹していたそうだよ」
「助けを……確かに、マルソー先生には直接相談したことはなかったですね」
「他の先生も似たようなものだったね。ついでに王国騎士団も」
「騎士団まで?」
「今日、俺を捕らえるために来ていた騎士に聞いたら、国王と殿下から『舞踏会で何が起ころうとも、君に手を出すな』と言われていたらしい」
自分を追い込むためなのか、そんな命令を出されていたとは。
この話はさすがにショックが大きい。
「……学園長はなぜそうまでして私を? 私はそこまで恨まれることをしていた記憶がありませんが……」
「そこなんだよ、ディアーヌ。学園長が黒幕だったとしても、あまりに君に固執しているんだ」
「固執……」
「ディアーヌも含めて、魔法をかけられていたのは恐らく五人。国王と公爵、殿下、弟君。その人選なら普通、国を落とすことが狙いだろうと思う」
「私もそう思います。間違いなく、そこを落とせば国は傾きますわ」
「そうだよね。でも、それが目的なんだったら、君をここまで追いつめる必要はないように思うんだ。マチルド嬢なんて、わざと魔法をかけずに行動させているように見える。それはきっと、君を追い込むためだ」
……なぜ、国を落とすために、ディアーヌを追い込む必要があったのか?
その答えを求めた時、急速に頭の中でこれまでの経験と、聞いた話が繋がったように思った。
魔法をかけられた人。かけられていない人。
出された命令。追い込まれた状況。裏切られた愛情。
味わった絶望。感じた孤独。
裏切られて、確かにあったと思っていた愛情がなくなった。
皆が敵のように思えて、誰も信じられなくなった。
……似ている、というにはあまりに杜撰なように思う。立場も境遇も違いすぎる。
けれど少なからず、類似点はある。
“あの出来事”の再現。
魔法のない世界で、限られた魔法で実現しようとしたなら。
どれだけ杜撰でも、対処法はないのだから実現すると思っていたとしたら。
「……私がおかれていた状況は、少年が魔王になった時に似ているように思います」
「……!」
「信じていた人に裏切られ、深い絶望を味わった。そこだけではありますが、関係ないと言いきるには私に手間をかけすぎです」
「……そうか、もしかすると魔法使いの目的の一つは、こちらの世界で魔王を作ることだったのかもしれないのか」
「けれど私に魔力はありません。追い詰められたところで、魔王になるような魔力なんて……」
言いかけてまた止まった。
ディアーヌ本人に魔力はない。
しかしディアーヌの知らないところで、すぐ近くに魔王の魔力の欠片──魔石はあった。
それも二年間、すぐそばに置いていた。
「魔石を利用して、魔石を持つ私を魔王に仕立て上げようとしていた、という可能性はありませんか?」
「……! ありえなくはないね。どうやって魔石が君の手元にあるのかを知ったかは分からないけれど、それなら君に固執するのも分かる」
「魔石のことを話したのは家の者と……それこそ、殿下やマチルドには話しました」
「どこからか話が流れたか、俺より魔力感知が得意な奴だったか……どちらにせよ、やっぱり学園長が──」
そこまで言って、リュカが次の言葉を少し言い淀んだ様子があった。魔法使いについて、何か言いづらいことがあるのかと思っていると。
「……残酷なことを言うけど、最悪の場合、本物の学園長は既にこの世にいない可能性もありうる」
「それは……」
亡くなっている、可能性。しかもそれは寿命ではなく……
「操るよりも本人になってしまう方が早いし楽だ。回復系の魔法が使えたら、顔を変えるなんてどうにでもなる。もしくは、話せない状態にして幽閉されているか」
本物の学園長を思うと、ズキリと胸が痛む。それと同時に、なんて非道なことを、と怒りも湧いてくる。
「……そんな最低な者に、これ以上好き勝手させられませんわ」
「そうだね。国を落とすにしろ、ディアーヌを魔王にしようとしたにしろ、未だ達成はしていない。そうなると相手の次なる手は……」
そこまでリュカが言いかけた時、コンコンコン、とノックの音が響いた。
ディアーヌは勢いよく扉を見るが、リュカは近づく足音が聞こえていたのか、大丈夫だよ、と不安を解いてくれる。
「ミエラさんだ。俺が出るよ」
「ありがとうございます」
軽くディアーヌの肩を叩いてから、リュカは扉へと歩き出した。ディアーヌはリュカにされたことで肩に力が入っていたことに気づき、深く息を吐き出しながらソファの背もたれに体を預ける。
天井を見上げ、片腕で視界を覆った。
一日で得られた情報量があまりに過多で、ディアーヌの許容量はとっくに満杯だった。
けれども弱音を吐いてはならないと分かっている。
こうなる道を選んだのは誰でもない自分だからだ。
……その時にふと、会っていない同級生のことを思い出した。
まだ一年程しか過ごしていないが、この一件にも彼女は大きく関わっているはずである。
最後に彼女を見たのはいつだったか……
あれは………リュカの言葉を借りるなら、ディアーヌが覚醒した後だ。マチルドの肩を抱きながら、隣にいるモニクの方が顔面蒼白で泣きそうな顔をしていたことを思い出す。
……なぜ、モニクはあそこまで泣きそうな顔をしていたのだろう? 仲間が仲違いしているにしても、あそこまで顔色を悪くしていると、まるでモニクが追い詰められているみたいだったな、と今になって思う。
まさかモニクも魔法使いで、自分たちを操っていたのが実は彼女で、その失敗を嘆いていた?
もしくはサミュエルたちの魔法がまだ解けていないということは、モニクが魔法をかけていたのはディアーヌだけで、ディアーヌが覚醒してしまったからああなっていた?
……ディアーヌに負けたから、モニクは顔色を悪くし、泣きそうになっていたとすれば?
──弱体化するね。使える魔法も減るし、威力も格段に弱くなる。だから魔族は基本的に単独行動を取るんだ。
リュカの言葉が頭の中で再生されて、その可能性が過ると、一瞬、呼吸が止まった。友人の心配もせずに自分が考える道筋のなんと非情なことか。
モニクと魔族に共通点を見出すなんて……!
そんなことありえない。
だってモニクは魔族が嫌う人間の姿をずっとしていたし、そもそも魔族を作り出すのは魔王だけのはずだ。
……そう思うのに。その可能性が膨れ上がる。
思わず下唇を噛み締めたところで、ふいにリュカとミエラの会話が聞こえてきた。
普段は落ち着きのあるミエラからは珍しく、取り乱した様子の声色に、一旦、一人で考えるのを中断する。さすがに家の中でのことは無視できないと、先ほどまでの考えを止めることに言い訳をして、起き上がって二人の元へと向かえば、
「お、お嬢様……」
なんと自分以上にいっぱいいっぱいで泣きそうになっているミエラが、祈るように手を組んで震えていた。
その様子にこれまでの悩みは頭の片隅に移動し、ディアーヌの喉からはいつもより低い声が出ていた。
「ミエラ、あなたをそうさせたのは誰?」
静かに、けれど激しい怒りをまとったディアーヌに、ミエラがひっ、と声を上げる。そんなディアーヌを隠すようにリュカがすかさず顔の前で手を広げた。
「ディアーヌ、抑えて。ミエラさんが怯えちゃってる」
「ミエラが苦しめられているかもしれないのに、抑えられませんわ」
「お嬢様……ありがとうございます、私のために……」
語尾が涙混じりになったことで、余計にディアーヌの眼差しは鋭くなった。それでもミエラが怯えないと判断したのか、リュカの手が下がり、ディアーヌの背中を優しく撫でる。
「ディアーヌ、落ち着いて聞いて。これからさらに大変なことになりそう」
「大変なこと?」
首を傾げたディアーヌに、憔悴した声でミエラが衝撃的なことを告げる。
「奥様が……」
「お母様が?」
ディアーヌの母は少し前から実家に戻っていた。
そこから何の連絡もなかったが……
「……先ほどお戻りになられたのですが、旦那様とは離婚をしてこの家を出ていく、と」
「何てこと!」
言うなり駆け出すディアーヌに、ぴったりとついてくるリュカ。まるでディアーヌがこうすることを分かっていたかのようだ。
そんな二人の後ろで、ミエラが自分たちを呼んでいたがディアーヌには振り向く余裕はなかった。
「奥様の部屋は奥から三番目だったね」
「はい。まだおりますか?」
「うん。気配はあるよ。四人いる」
「良かった……!」
廊下を走ればあっという間なのに、その距離すら長く感じながら足を動かす。
「お母様!」
飛び込んだ部屋では、執事のジルと侍女が二人がかりで机の中の荷物をまとめる母を止めていた。




