第二十話 警戒も心配も安心も
どうやらロランは昨夜、またリュカの部屋を盗み聞きしに来ていたらしい。
翌日の馬車の中で平然とリュカから報告され、ディアーヌは項垂れるようにして謝罪した。
正面に座っている状態から頭を下げたので、リュカの膝がとても近い。
「ディアーヌが謝ることじゃないよ」
「……ロランも操られているのでしょう。一度リュカ様から声をかけられた時点で通用しないと分かるはずなのに、同じことをまたするなんて……そんな愚かな子ではありませんわ」
「そこも調べていこう。影響範囲が分かれば、学園長がそうだと絞れるし。もしかしたら別の人かもしれないしね」
頷いたディアーヌは、今度はリュカにお礼を伝える。
「本当なら盗み聞きなんて罰せられてもおかしくありませんのに……お許しいただき、ありがとうございます」
「大丈夫だよ。彼ぐらいなら寝てても倒せるし」
ケロッと言ってのけたリュカに、ディアーヌはそれもそうか、と納得する。ロランはそもそもあまり剣術が得意ではないので、リュカの足元にも及ばないだろう。
「私はもっともっと稽古をつけていただきたいですわ」
「つけてるでしょ」
「まだ体術だけですもの」
「この隈がもう少しなくなったらね」
言うなり目元を撫でられて、ディアーヌはなかなかの勢いで体を後ろに引いた。
残念ながら馬車の中なので、背もたれに体をぶつけただけで距離はほとんど変わらなかったのだが。
そんな彼女に、リュカは声を出して笑う。
不貞腐れた気分のディアーヌは、それでもまだ目元を撫でるリュカの手の甲を抓って反抗した。
「痛いなぁ」
「どこがですか。そんなことを言いながら手を離されないではありませんか」
「だって触っていたいし」
……それはどういう意味ですの!
と叫びそうになるのをディアーヌは堪えた。
昨日から……いや、彼の前世の妻にされてからというもの、リュカからディアーヌに対してのスキンシップは増える一方である。
そのことをディアーヌなりに分析すると、父の前で最愛の妻と宣言したからというのもあるだろうが、恐らく、彼の世界では夫婦の距離はこのくらいが普通なのだろう、という結論に達した。
結論というよりは、そう思うようにした、という方が正しいが。
とてもじゃないが、そう思わないとディアーヌの心臓も羞恥心ももちそうになかった。
これはリュカにとっての普通。だから一人、距離感の近さに振り回されるべきではない。なにより、自分が一番に考えなければならないのは誰が皆をこんなふうにしたのか、だ。
抓っていた手を離し、リュカを見つめた。
その視線に応えるようにリュカもディアーヌへと微笑みを返し、すっと手を引く。そこには名残惜しさのようなものはない。
もう十分というくらいには頬にリュカの手の温度が残っている。
この手に安心感を求めるのは、少しの間だけ。敵が魔法を使うなんてディアーヌの世界の常識を超えることをしてくる間だけは、頼りにさせてほしい。
つい三日前までは、勇者も魔法もおとぎ話のものだった。
それが今じゃ目の前に存在しているのだから、随分とディアーヌの世界は変わってしまったと思う。
けれど変わった世界に一人で放り込まれなかったのは、運が良かったのか、はたまたこうなる運命だったのか。
「世界はまだまだ広いですわね……」
「どうしたの、いきなり」
抽象的なことを呟くディアーヌに、深く気にする様子のないリュカ。
会って間もない人であるのに、もう何年も一緒に過ごしたような居心地の良さを感じているのは、ディアーヌの心の拠り所が彼しかいないからだ。
……だから、依存してはいけない。
彼には、彼の世界がある。
ディアーヌはそう自身に言い聞かせた。
この一件が片付けば、リュカにたんまりとお礼とお土産を持たせて見送り、ディアーヌは一人立ちをする。その準備も進めるつもりだ。
ふぅ、とひとつ息を吐きディアーヌは小窓から流れる景色を眺めた。
「……リュカ様」
「うん?」
「私を守ってくださいませ」
「ああ、もちろん。君は俺が守るよ」
目を合わせずとも、リュカが本心からその言葉を言ってくれているのが伝わり、ディアーヌは少しだけ涙ぐみそうになって目を閉じた。
「……私も負けませんわ」
そうだね、という声は優しいけれど活力に満ちて聞こえた。
負けない。
誰にも。何にも。
次に目を開いたディアーヌの眼差しに、迷いはなかった。
学園に着いてからは一番にマルソーの元へとリュカを案内して、そこでリュカとは一旦別れることとなった。
そのままリュカはマルソーに連れられ、挨拶回りに行く。これはマルソーからの提案だった。ディアーヌとリュカは目を合わせ、お互いに無言で頷き、その提案を受け入れた。
本当はディアーヌの授業中にリュカが先生たちに怪しいところがないか探る予定だったが、それがこの後の挨拶回りの時間に替わる。
それではディアーヌは何をするか、であるが、これは一択。
真面目に授業を受ける。それだけである。
リュカと別れてからは周囲を警戒しながら教室へと向かった。
生徒たちがディアーヌを遠巻きにしてくれるので歩きやすかったが、無事に教室にたどり着くとひとまずほっと息を吐きだしていた。
学園長が最も怪しいとは思っていても、まだ確証がなく、他の者も可能性がある。
リュカと離れている間は自分の身は自分で守らなければならないのだから、今一度気合いを入れ直して、ディアーヌは教室の扉を開け──
「ディアーヌ」
扉に手をかけた時、横から声をかけられた。
声の主へと顔を向ければ、にこやかというにはどこか仄暗さをまとった笑みのサミュエルがディアーヌへと歩み寄ってきていた。
その笑みにドクンドクンと心音が耳に直接響いているように、一気に体が熱を上げる。
適切な距離を取るべく近寄られるごとにディアーヌは後ろに下がるが、トン、と背中に壁が当たるところまで移動してしまった。
失敗した、と思ったがその感情は表に出さず、サミュエルに微笑んでみせる。
「おはようございます、サミュエル殿下。ごきげんよう」
「おはよう。あれから、体調は回復したのか?」
あれから、というのは婚約破棄をしてからか。
サミュエルらしくない笑みにじりじりと追い詰められるような心地になりながら、ディアーヌはなんともないと返事をする。
「ええ、そもそも体調を崩してはおりませんでした、が……!?」
ドン、とサミュエルが壁に片手をついたことで、ディアーヌはサミュエルと壁に挟まれる。
「君は体調を崩していてまともに考えられず、あんなことを言ってしてしまった。そうだな?」
「……何のことでしょう? 私はずっと──」
「ディアーヌ、これは君のための確認だ」
その言葉をディアーヌへと告げたサミュエルは、怒りというより悲しんでいるようにも見えてディアーヌは戸惑った。
反論はいくらでもできるが、ここまで強引な彼は初めてだということもあり、次の言葉に迷う。
……ここにきてもなお、ディアーヌは周囲からのサミュエルの評価を気にしている。ちらほらと生徒が集まってしまっているのも良くなかった。
彼らしくない振る舞いは魔法によるものだという可能性がなければ、周囲の目など気にせず、いくらだって口論に持ち込んでいたと思うのだが。
「ところで、君の周りに不審な男がつきまとっていると聞いたのだが」
「……身に覚えがありませんわ。どなたのことかしら?」
「紫の髪と瞳の男だ」
「バトン公爵家で正式に雇っている私の護衛の者ですわね。私が信頼をおく者をけなすような発言は控えてくださいませ」
リュカのことを知っているのは父かロランからの情報だろうが、サミュエルの刺々しい言い方には眉をひそめる。
しかしディアーヌとは反対に、サミュエルは小さく笑うと一層ディアーヌの気分を急降下させることを口にした。
「もうそんなにも懐柔されているのだな……ディアーヌ、君に危険を及ぼす可能性のある者は、騎士団に連れて行くよう手配している。安心するといい」
……気を遣っていればつけあがって、とは口にしなかったけれど、代わりにサミュエルへ向ける眼差しは強くなった。
「彼に何かするなら、私も黙っておりませんわよ」
「あんな男に騙されるなんて、君は本当にどうしてしまったんだ?」
「どうもしておりませんわ。むしろ私が、いつもの私に戻っただけです、わ!」
ディアーヌはスカートを持ち上げて膝を上げると、そこからサミュエルの足を思いきり踏みつけようとした。けれどその動きは読まれ、体を後ろに引いてサミュエルが避けたことでディアーヌの足は地面を踏みつけただけに終わる。
しかし同時に好機も訪れて、サミュエルの手が壁から離れたため、ディアーヌはすかさず両手でサミュエルを後方へと突き飛ばした。
トトン、とサミュエルが二歩後退し、どよめきながら生徒たちも数歩後ろに下がると、ディアーヌと彼らの間に物理的な距離が広がった。
そこでサミュエルが、冷めきった目をディアーヌへと向ける。その表情が見えた生徒の幾人かが緊張したことは分かったが、そちらを気にかける余裕はディアーヌにはなかった。
「……私に手を出したら、どうなるか分かっているのか?」
「この場合は、立派な正当防衛になりますわね」
「残念だよ、ディアーヌ。君はこんなにも変わってしまったのか」
「そのお言葉、そっくりそのままお返しします」
視線は火花を散らし、二人の間には凍てついた空気が流れる。今の二人を見て、仲睦まじかった元婚約者同士だとは誰も思わないだろう。
教室にいた生徒たちも次から次へと廊下に出てきており、壁際にいるディアーヌからすれば生徒たちはサミュエルの背後に大勢いる。この間を走り抜けて逃げるのは無理と判断し、ディアーヌは指笛を吹く準備をした。
しかしそれを鳴らすより先に、こちらに向かって駆けてくる足音がした。生徒と生徒の頭の隙間から、その足音の主である女子生徒がちらちらと見える。
どいて、あけて、と生徒たちの間を掻き分けてサミュエルとディアーヌがいる場に現れたのは、マチルドだった。
「二人とも、何をしてるの!」
その叱責はごもっともだ。
そう思いながらマチルドに目をやることも考えたが、サミュエルから目を離した隙に何かをされそうで、ディアーヌはずっとサミュエルを睨みつけていた。
そんなディアーヌとは対照的に、マチルドの登場にふっと微笑んだのはサミュエルだ。一瞬で目尻を下げる。
「ディアーヌに悪い虫がついていたみたいだから、気をつけるよう話をしていたところだ」
「あら、私を壁際に追いやってくるお方は自分で追い払いましたけど」
「何を言ってるの、二人とも。いい加減にして!」
そうやって怒りながらも、マチルドはサミュエルに寄り添うようにしてくっつくと、その胸に手をおいた。彼女の腰にはサミュエルの手が回される。
……目の前でされると、吹っ切れたつもりでも胸は痛んだ。
「生徒たちの前で、喧嘩なんかするべきじゃないよ」
「喧嘩ではないわ。一方的にサミュエル殿下から言いがかりをつけられただけよ」
「どうしちゃったの、ディアーヌ……サミュエルがそんなことをするわけないわ」
サミュエルもマチルドも、まるで変わったのも悪いのもディアーヌだというように問い詰めてくる。
歯噛みする思いで二人を見つめる。変わったのはあなたたちだと主張したところで無駄なのは分かっているが、何の言葉も彼らには届かないことが苦しくて仕方がない。
ぎゅっとこぶしを握りながら、深く息を吐き出す。
冷静になれ、と自身に言い聞かせ、状況把握することに頭を切り替える。
……逃げ場はない。それにもう授業開始の時間が近づいているのに、先生が誰も来ないことも気にかかる。
あちらはあちらで、リュカが何かされているのかもしれない。彼に限って万が一のことはないとは思うが、もしも手こずったりしていれば、こんな時に指笛を吹くのは彼にとって迷惑になる。
ならばやはり、自分の力でどうにかするしかない。
目線を左右にやり、活路を見い出せないかと考えていたところで、周りの生徒たちがディアーヌのことを批判している声が聞こえてきた。
これだからディアーヌ様は、とか。本物の悪役令嬢だ、とか。その声はどんどんと大きくなり、まさに四面楚歌な状況となる。
こんな声を聞いたところで現状を打破できるはずがないのに、それらの音ばかりを拾ってしまうことが悔しくて、思わず下唇を噛んだ。
目の前のサミュエルもマチルドも、彼らを止めることはしない。マチルドは一度戸惑うように視線を泳がせたが、サミュエルを見るとそれもなくなった。
……独りだ。
そう自覚すると、二人が寄り添った際に感じた胸の痛みよりさらに鋭い痛みがあった。
こんな時に……リュカがそばにいてくれたなら、どれだけ心強いだろうかと思った、その時だった。
「遅くなってごめんね、ディアーヌ。大丈夫?」
軽やかな声だけで他の動作音は立てず、ディアーヌの目の前にいきなり人が現れた。
ディアーヌは二度ほど瞬きをしてから、肩の力を抜く。
この背中に守られるようにして見る景色は、父の元を訪れた際に似ているなと思いながら、その人に声をかけた。
「大丈夫です。まだ合図も出してはおりませんわ」
「それでも恐かったね。もう大丈夫だから、深呼吸していて」
会話の相手はもちろんリュカだ。
肩越しに振り返った表情は本当に申し訳無さそうだったが、そんな顔をしなくていいと言うより先に、ディアーヌがリュカへと一歩近寄ったのは無意識だった。
「……何者だ、貴様は」
リュカ越しのサミュエルは声しか聞こえない。覗き込もうかとも思ったが、きっとリュカは意図的にディアーヌを隠しきっているので彼の意向に沿うことにした。
「お初にお目にかかります、サミュエル殿下。バトン公爵家にて、ディアーヌお嬢様の護衛を務めさせていただいております、リュカと申します」
「……おかしいな。その名の者は捕らえるように言いつけていたはずだが」
「ええ、どうやらそれは誤解からのご指示だったということで。先生方とも騎士団の方とも話をして、ご理解いただきました」
「ディアーヌにつきまとう目的は何だ、答えろ」
威圧的な言い方はやはりサミュエルらしく、嫌悪感が湧いた。これ以上は黙ってほしい。ここで彼が話せば話すほど、後々、彼自身の首を絞めることになりかねない。
そんなことを思いながらリュカがなんと答えるか待てば、リュカはこの場の張り詰めた空気をぶった斬ることを飄々と言ってのけた。
「彼女は俺の前世の妻です。最愛の妻に再び出会えたのだから、また共にいたいと思うのはおかしなことではないでしょう?」
ディアーヌは頭を抱えたかったが、リュカの回答の一拍後、生徒たちのどよめきや小さな悲鳴から耳を塞ぐので手一杯だった。
「……ディアーヌが、貴様の妻だと……?」
「サミュエル……?」
視界はリュカの背中、聴覚は自身の手で遮っていたディアーヌには、サミュエルとマチルドの様子も呟きも届いてはいなかった。




