第十九話 悪役令嬢の登校
曇り空となったこの日は、休日明け。登校日である。
シェンセローア学園の門の前にバトン公爵家の家紋が刻まれた馬車が停まると、道行く生徒たちは分かりやすくざわついた。
休み前に起こった、学園の中心にいる生徒たちによる生徒会室前の出来事を知らない者はおらず、加えてサミュエルの婚約破棄と新たな婚約の話も既に生徒たちの耳に入っている。
その翌日、噂の中心であるディアーヌは医務室で授業を受けたため目撃情報も少なく、多くの生徒からすればあの騒ぎの後、初めて彼女を見ることになるのだ。
そのため、馬車から出てくる人物に注目が集まった。
しかしよくよく考えれば、この時間帯、ディアーヌは生徒会室にいるはずである。そう考えると、あの騒ぎの後ということもたり、その場にいる者は彼女を選択肢から除外した。
「……ロラン様ね」
誰か一人がそう囁やけば、次から次へとそれもそうかと納得の声がして、皆の視線はまた方々へと散った。
彼らの声が届いていたわけではなかろうが、タイミング良く静かになったところで開いた馬車の扉。
そこからは出てきたのは……
「それでは、行って参りますわね」
曇り空を吹き飛ばすような晴れやかな笑顔で御者へと挨拶をして手を振るディアーヌであった。
彼女を認識した生徒は、その場で足を止めた。
そして信じられないものを見る目でディアーヌを見る。
彼らには、なぜ、ディアーヌが笑っていられるのか分からなかったのだ。
彼女は間違いなく、失意のどん底にいるはずだ。
それがたった二日の休日で、何事もなかったかのように笑うまでに心機一転するなんて、さすがに無理だろうというのが皆の共通認識だった。
しかしながら驚愕と困惑の視線が集まる中でもディアーヌは彼らの視線など何一つ気にしておらず、力強くも軽やかに歩を進める。
自然と生徒たちは道を開け、中には頭を下げる者までいた。
颯爽と生徒の間を歩く姿は、彼女が悪役ならば周囲の生徒たちはさしずめ、その配下のようにすら見える。
……と、ディアーヌと他の学生たちの様子を学園内にある木に身を隠して見ていたリュカは思った。
「すごいな。人が自然と道を作ってる」
一歩、また一歩と踏み出すたびに、前方の生徒が横に避けていく。周囲の生徒は、ただ歩くだけのディアーヌに圧さているのだ。
もしかすると既に何人かは、ディアーヌへの評価を改めた者もいるかもしれない。
「さすがだなぁ」
そんなことを呟いて、リュカはあらかじめディアーヌからもらっていた手描きの学園の地図を片手に、彼女が向かう場所へと移動する経路を目で追った。
学園に忍び込むのは屋根から木から飛び移ればあっさりと侵入できてしまったので、ディアーヌと合流した際に、防犯にはくれぐれも気をつけるよう言おうと決めている。
今日のディアーヌは、とある目的を果たすために学園に来た。
それを果たせば体調不良だと言って早退すると言っていたが、あの足取りでは信じてもらえるかな、と苦笑しつつディアーヌがある部屋の前で足を止め、ノックをしてから入室する姿を追いかけた。
彼女が入ったのは、教員準備室と書かれたプレートがぶら下げてある部屋だ。
リュカは室内が見えやすい位置に移動し、いつでも助太刀ができる準備はしていたのだが……
部屋のほぼ真ん中。
ディアーヌと、リュカより少し年が上ぐらいの男性がそこにはいたが、まるで泣いているかのように手で顔を覆うディアーヌの前で狼狽えている男性、という構図ができあがっていた。
これまた名演技、とリュカが思っていると、男性がおろおろとしながらもディアーヌへと近寄った瞬間に、パッと顔を上げたディアーヌが男性に足払いし、尻餅をつかせてしまった。
「お見事」
その足払いは昨日、リュカが彼女に教えたものだ。
元々、幼馴染から体の動かし方は教わっていたというので、のみこみは早かった。その練習の成果がつい先ほど出たというわけである。
そこからは、端から見ていてもディアーヌが優勢なのは明白だった。
尻餅をついた男性の前で仁王立ちした彼女が何かを話し、男性は力なく数回頷くしかできていなかった。そしてよろよろと立ち上がった男性は、項垂れたまま机の中から紙を一枚取り出し、何かを書き込んで彼女へと手渡す。
その紙を受け取ったディアーヌは、満足気に微笑み、綺麗な一礼をして退出した。
リュカもまた静かにその場を去った。
そしてある程度の荷物を持っている自分に気づきもしない警備たちは大丈夫かと心配になりつつ、やっぱりディアーヌには何か防犯用の道具を持たせようと思うのだった。
◇
心労もまだまだ溜まっておりますし、自分がいると他の学生たちが集中できませんから、と言い張って早退したディアーヌは、リュカとともに家に帰る途中の領地で時間を過ごすことにした。
歩きながらのおしゃべりと見せかけた作戦会議をするのに、ちょうど良く人通りが少ない場所を選んだ。
変装用にと持ってきていた帽子と、制服が隠れるコートを着て、これまた帽子とメガネをかけたリュカとともに、腕を組んで街を歩く。リュカの服はウェーナーが休日に着ている服を参考に昨日買ったばかりの一着だ。
どれだけ変装したところで自分の身のこなしでは貴族にしか見えないことを逆手に取り、貴族がお忍びで外出している風を装えば、道行く人はどこかに護衛が潜んでいるかも、と勘ぐりしてそこまでじろじろと見てこないだろうと考えたのである。腕を組んで歩くのは、秘めたる恋のために忍ゆでるんです感を出すためだ。
この作戦は上手くいったようで、街を歩き出してからも人々の視線はそこまで集まってこず、それなりにのびのびとした気分で過ごせそうだった。
そんな二人の最初の話題は、リュカの入門許可証についてであった。
「まさか指導員で、とはね」
「私の交渉力もなかなかのものでしょう?」
自慢気に笑うディアーヌに、さすがだよ、とリュカは返す。
早退する前、木の上からリュカが見守る中でディアーヌはリュカの入門許可だけでなく、クラブ活動の外部講師として彼を招き入れることへの許可も取ってきていた。
彼女がその話をつけたのは、生徒会担当のマルソーだ。
まだ教師としては若手の彼に泣き真似をして動揺させてから、普段のディアーヌなら絶対にしない足払いをして転がし、混乱している間に話を持ち出した。
許可証をもらう上でのポイントはただ一つ。
学園長の期待を裏切るのか、という点だ。
「生徒会は、学園長発案のものですからね。当然、担当であるマルソー先生もその思いはお聞きになっておりますし。そこをちょこっとつついただけですけれども」
「それでも副会長辞退か俺かでよく押しきれたね」
「もう一年ほど活動しておりますし、今さら生徒会をなかったことにはできません。初代副会長辞退は立派な汚点になりますもの。それでも決め手は、リュカ様をお認めにならないなら私が作った資料はすべて燃やすと言ったことでしたわ」
「すべてとなるとさすがに了承するしかないか」
「ええ。特に今年の舞踏会の記録はけっこうな痛手になると判断されたのではないかしら。色々と要望を増やしてくれましたけれど、資料類はすべて私が作りましたから」
それは確かに手放せないだろうね、とリュカは苦笑する。
ディアーヌはその言葉に頷きながらも、でも、と返した。
「学園長が出張でしたから早くに許可がもらえましたけど……」
本来なら許可証の承認は学園長権限で決まる。
けれども学園長はしばらく出張とのことで、生徒会活動に関する権限はマルソーが持つことになったのだ。
「副学園長をおいて若手が承認権限を持つなんておかしな話、あの厳格な学園長の提案だとは思えませんわ」
「そうだね。本人なのか、操られてるのか……俺がもうちょっと魔力を感じられれば良かったんだけどなぁ……そこらへんも鈍ってるみたいだから、とにかく情報収集をしないとね」
リュカは元々、魔力探知より気配に敏感だった方なので、感覚的に鈍ったと分かる今、それに頼ることはあまりしたくないらしい。
そうなると最終的には、直接対決しかないのだろう。
ディアーヌにしてみれば、魔法なんてものよりもよっぽど分かりやすいが、慎重にならなければ生徒を巻き込んでしまう。
「学園内でディアーヌは特に狙われるだろうから、気をつけようね」
「ええ、もちろんですわ。それに、いざという時はこれがありますから。呼んだ際はお願いしますね」
「はは。任せて」
親指と人差指で輪っかを作ったディアーヌがこれ、というのはリュカが彼女に教えた指笛のことだ。貴族のご令嬢らしさはまったくないが、道具を持つより身一つでできるので採用となった。
まだまだ完璧には鳴らせないので家で練習しようとディアーヌが目論んでいると、リュカが天気が良くなってきたね、と言った。
その声の調子がとても穏やかで、ディアーヌはゆっくりとした動作で空を見上げる。
朝、馬車に乗り込む時は曇り空だったけれど、リュカの言う通り青空が見え始めていた。気づけば足もその場で止まっていて、二人はぼんやりと雲の行方を追う。
「……こんな時に相応しくないのかもしれませんが、なんだか和みますね」
「いいんだよ。息抜きはできる時にしないと」
一度深呼吸して、またディアーヌは歩き始めた。
学園で舞踏会準備が始まってからは俯いて歩いてばかりだった。
けれどそれが今では、お天気の空を見上げて足を止め、ほのぼのとした気分で歩き出せている。本当なら切羽詰まった状況であるはずなのにやけに安心感はあって、今は息抜きなのだと納得できているのだから、人間というものは不思議だ。
おかれた環境、共にいる人。
それだけで、見える世界がこんなにも変わる。
心が軽くなったように思うのはきっと悪いことではない。
ディアーヌは気分が上がってくるのを感じながら、先の道を見つめた。
そんな彼女の内面の変化に、リュカはすぐさま気がついたようで……
「なんだか気分が良さそうだね」
声色で分かっただろうかと思ったディアーヌに、リュカからの返答は思わぬものだった。
「足音が軽やかだ」
足音……とは、足音か。おお、まさか、そんなところまで。
「それで分かるものなのですね。リュカ様は私よりずっと耳が良いのかしら」
「あ、さすがに気持ち悪いね。ごめん」
純粋に驚いただけだったのだが、謝られたディアーヌはすぐにリュカにそうではないと否定した。
「気持ち悪かったのではないですわ。まさか足音から気分の良さを知られるなんて思わなくて。さすがリュカ様だと思ったぐらいですのよ」
そう言って笑ってみせたが、リュカは複雑そうな表情でディアーヌへと頭を下げた。その様子から、これはきっと過去に似たようなことがあって、注意を受けたりしたのだろうと予想はつく。
反省を全面に押し出した彼にどう伝えれば自分の本意が正しく理解してもらえるかと一瞬悩み、ありのままを伝えるべきか、と単純な結論に至った。
「頭を上げてくださいませ。本当に気持ち悪くはないのですから。むしろすごいことなので悔しいです」
「……ここでも悔しいの?」
「ええ、だって私にはできないことですもの。それをあっさりとされて、口に出してもいない心情を当てられたのですもの。悔しい以外にあります?」
伏し目がちなリュカを斜め下から見上げるようにすれば、はは、と眉を下げてリュカは笑った。ディアーヌの本心からの言葉は、ちゃんと彼に届いたようだ。
「さすがだなぁ」
一本取られた、みたいに笑う彼にディアーヌもにっこりと笑顔を返す。
「まぁ妻の気分の変化に気づけるのは良いことだよね」
「…………」
「いででででで。ちょっと抓らないでよ」
「おかしなことを言うものですから」
「おかしくないでしょ。俺は前世の妻を追いかけてここまで来たんだから、このぐらい普通普通」
「ああ言えばこう言う……」
「お忍びなんて、それこそ秘密の恋人みたいで楽しいよね」
その声は本当に嬉しそうで語尾が弾んでいた。
ディアーヌはそれ以上何も言わなかった。何か言ったところで、どうせ倍の言葉が返ってきて、自分が照れて終わるのだから。
それに……この関係には、必ず終わりがやってくる。居心地の良さに慣れてはいけないと思う自分もいる。
リュカが学園に入れば、きっと物事は無理矢理にでも進んでいく。もしかすると、終わりはディアーヌの想像よりはるかに早く訪れるかもしれない。
その時に、ディアーヌは誰といて、どこにいて、何をしているだろう。何ができるだろう。
これが不安かと言われたら、そうかもしれない。
しかしこの気持ちをリュカに勘付かれるわけにはいかない。リュカは優しいから、少しでもディアーヌに不安があれば心配してくれる。
分かっているからこそ、しっかりしなければと思う。
リュカにはリュカの世界がある。
彼を必要としている人々はそれこそ大勢いて、彼の仲間たちも彼を元の世界に帰すために尽力しているはずだ。
今だけ少し、勇者をお借りしますわ。
必ず、お帰しします。
白い雲が空の先に見えて、ディアーヌは明日を想った。
どうか少しでも早く、リュカを笑顔で送り出せる日常を取り戻せますように、と祈りながら。




