第一話 負けず嫌いと完璧な王子様の婚約
幼い頃のディアーヌを一言で表すならば、十人が十人、口を揃えて“負けず嫌い”と言うだろう。
彼女は親も驚くほどの負けず嫌いで、どんな時でも自身に対して完璧主義を追い求める子供だった。
そんなディアーヌが七歳の時、同い年のサミュエル・シャルダイム王太子と婚約を結んだ。
婚約後、王太子妃教育を受けるために専門の教育係がつけられることとなったが、その教育係に対し、ディアーヌは自己紹介を終えてすぐ、
「生意気なことだとは承知しておりますが、先生にお願いがあります。私は同い年や同じ立場の人に負けている自分が許せません。ですので、私がその方々に勝てるまで、とにかく厳しくご指導ください」
と、申し出たのである。
これには教育係も簡単には返事ができなかった。
ディアーヌのことはまだ書面上でしか知らない教育係からしても、彼女の申し出はあまりに無謀なことであったからだ。
それというのも、彼女が同い年として対抗意識を燃やしているサミュエルは、“完璧な王太子”として有名だった。彼はどの分野においても教えられたことは一度ですべて覚え、軽々とこなしてしまう、まさに天才であった。
おまけに自身の才能を驕ることなく、どんなことでも真面目に誠実に取り組み、常に国民の幸せを願って行動できる人物でもあった。そんなサミュエルに対し、国民も彼は必ず心優しく素晴らしい王になるだろうと期待した。
サミュエルは、歴代の王族の中でも抜群の人気を誇る金髪碧眼の麗しい王太子だったのである。
誰からも好かれ憧れられる、非の打ち所のない完璧な王太子に対抗心を燃やすなど、正直なところ身の程知らずなのでは……と教育係はディアーヌを評価しただろう。
しかしディアーヌは、ギロリと音がしそうなほどに教育係を睨み上げると、追撃の言葉を口にする。
「ここで頷いてくださらないのであれば、先生を教育係から外していただくように言います」
「な……っ!?」
「私は本気です。本気で、負けたくないのです。そんな私についてこられない人から教わることなどありません」
そう言いきったディアーヌの背後に鬼が見えた教育係は、たった七歳の剣幕に息をのみ、首を縦に振るしかなかった。
実はこの当時、婚約が決まる前からディアーヌは密かに自身の一番のライバルにサミュエルを据えていた。
それはもちろん、彼女の負けず嫌いな性格によって決まったことで、何をするにも完璧なサミュエルに勝つことばかりを考えていた。
そんな相手が婚約者に……
ディアーヌにとってはこれまで自身の中でだけ比較しながら挑んでいた相手が、明確に越えなければならない壁となって、目の前に立ちはだかったのである。闘志が燃えないはずがない。
「たとえ完璧な王太子殿下であろうとも……私は絶対に負けませんわ。その横に並び立ち、いつかは圧倒してみせますから……!」
婚約は戦いではない。婚約者同士は勝った負けたの関係ではない。
そう言いたいのに、教育係をはじめとした周囲の大人たちは、ディアーヌに何も言えなかった。
言わせないだけの威圧感がディアーヌには確かにあったのだ。
ディアーヌが大成したら、もしかすると。
「本当に、圧倒してしまうかもしれない……」
そう呟いた教育係の言葉はディアーヌには届かなかったが、あまりにも強烈な印象を与えたディアーヌの王太子妃教育は、こうして始まりを告げたのである。
◇
王太子妃教育が始まってみて教育係が一番に驚いたのは、あそこまでの大口を叩いた割に、ディアーヌの才能が凡庸だったことだ。
それこそサミュエルとは比べ物にならず、彼女は何をさせても要領良くできるタイプではなかった。
また、歴代の王太子妃と比べても劣っており、歴代の彼女たちは教えたらすぐできたところも、ディアーヌはつまづくことすらあった。
しかしディアーヌと約束している以上、教育係は厳しくする以外にない。そしてディアーヌ自身も、自分に対して少しの甘えも許さない。
できない時は悔し涙を拭いながら、できるようになるまで絶対にやめなかった。そこまでできればいいじゃないか、と周りが言ってもその言葉には首を振り、寝る間も食べる間も惜しんで自身が納得するまで徹底的に向き合った。
そうして過ごすうちに、ディアーヌは王城内でも有名になり、教育に関わらない者も内々で話す際、彼女の話題が上がるようになった。
その内容は決まって、あれほどまでに自分を追い詰めてしまっては自身も苦しいだろうし、このままでは潰れてしまうのでは、という懸念だった。
けれどそんな周りにもう少し見守ってほしいとお願いしたのは、他の誰でもない、ディアーヌがライバル視しているサミュエルだった。
彼は立場としてもその実力からしても、常に敬われ、同年代の子女で堂々とサミュエルをライバル視してくる者などいない環境で育った。その中で婚約者が自分を睨む勢いで対抗意識を燃やしてくるのは、驚きよりも嬉しさが勝っていた。
「私はサミュエル様にだって負けませんよ」
そう言ってめらめらと燃えるようにやる気をみなぎらせるディアーヌは、サミュエルの目にはとても輝いて映った。
ディアーヌは黙って微笑んでいれば、とても可愛らしく、魅入られる者も多いだろう、というのがサミュエルから見た彼女の印象だ。しかしサミュエルは、黙っていないところを気に入った。
彼は自分を褒め称えるだけの婚約者より、高め合える相手を欲していたのだ。
目を血走らせながらどこまでも一直線に突き進むディアーヌを心配する周囲に対し、サミュエルは穏やかに笑ってこう話をした。
「私の婚約者が務まるのはディアーヌしかいない。彼女は必ず何事もやり遂げ、きっと歴代で最も優秀で気概ある王太子妃となるだろう。私は彼女を見ていると、これからも努力しなければいけないな、という気持ちになれるんだ」
これを境に、ディアーヌに王太子妃は無理なのでは、という声は随分と減少した。そしてこの言葉に背中を押された教育係の指導はさらに熱が入り、それをかかってこいとばかりに嬉々として取り組むディアーヌは、王城内で一種の名物となっていた。
その後も心配の目を向けられながらも、ディアーヌとサミュエルは切磋琢磨しながら……と言いつつも基本的にはすいすいと先をいくサミュエルを、ディアーヌが歯を食いしばってついていくような形ではあったが、二人で高みを目指して前へ前へと進んだ。
歳を重ねるとディアーヌも彼女の求める王太子妃像に実力が追いついてきて、少しばかりは余裕を持てるようになり、悔し涙を流すこともなくなった。
サミュエルのこともライバルとしてだけでなく、生涯の伴侶として意識するようになり、二人の間には婚約者としてもライバルとしても強固な絆が築き上げられていった。
◇
十五歳となったディアーヌは、潰れるのでは、と心配されていたのが嘘かのように、今では次期王妃に相応しいのは彼女しかいないと言われるまでに成長した。そしてサミュエルも、前評判通り、間違いなく歴代最高の国王になると期待を寄せられている。
この日の二人は、バトン公爵邸の東屋でお茶会をしていた。
テーブルを挟んで向かい合わせで座り、優雅に微笑み合う様は麗しい婚約者同士である。
少し離れたところで控える侍女と護衛も、二人の雰囲気に癒されながら気を引き締めていた。
……と、本来なら優雅なお茶会であるはずのこの場だが、片方の笑みには優雅さの中にも少しばかりの悔しさが滲んでいる。当然、それに気づいていながらも微笑みを崩さない完璧なる王太子は、どこか愉しげに自身の婚約者へと声をかけた。
「とうとうディアーヌに並ばれてしまったな」
並ばれた、というのは彼らがもうすぐ通い始めるシェンセローア貴族学園の入学試験のことだ。
入学試験において、最高得点を取った者は新入生代表挨拶を務める。これが同点の場合、双方の同意を得て基本的には身分の高い方が行うのが一般的だ。
ディアーヌとサミュエル、二人はこの入学試験において見事満点合格を果たした。
そしてここで議題となるのが、新入生代表挨拶をどうするか、ということである。
「私はどちらがしても良いと思っているが、ディアーヌはどうだ?」
サミュエルはそう尋ねてきたが、ディアーヌの中で答えは一択だった。
「殿下にお譲りしますわ」
「おや、我が婚約者はとうとう私に負けを認めたのか?」
あっさりと認めたディアーヌに対して挑発的とも取れる問いに、ディアーヌは不服そうにサミュエルを見つめ返した。
「私は完全に勝たないと気がすみませんもの。同点ならばサミュエル様に勝ったことにはなりませんわ」
満点なのにこれ以上どうすれば勝ち負けがつくのか、ということを聞く者はこの場にはいない。
ディアーヌの答えを聞くとサミュエルは満足気に頷き、ディアーヌの片手に自身の手を重ねた。
「……サミュエル様、どうかされまして?」
「ディアーヌ、私は君のその負けず嫌いなところが大好きだ」
いきなり雰囲気を変えたサミュエルに、びしりと音がしそうなほどにディアーヌは固まった。
この年になると、二人はライバルなだけでなく、お互いに男女としてちゃんと意識し合うようになっていた。
特にディアーヌのことをサミュエルが愛しているのは誰の目から見ても明らかで、彼は誰にでも平等に優しいが、ディアーヌだけは特別だった。
一方でディアーヌは、こと恋愛面においては極度の恥ずかしがり屋となってしまうという特徴があった。
「毎回好きだと告げているのに、そうやって固まるところは本当に可愛らしいな」
この状況に慣れっこのサミュエルは、硬直したディアーヌを気にすることなく隣へと移動し、彼女の金色の髪へと手を伸ばす。自身の金の長髪も美しいとよく称賛されるが、婚約者となってからディアーヌが内面だけでなく外面の美しさを磨いてきたことも知っている。
だからサミュエルは、ディアーヌの髪こそ褒められるべきであると思い、髪の一房にそっと口づける。
動揺してぎこちない動きをするディアーヌの胸元には、彼らが贈ったブローチがきらりと輝く。それを視界に入れて、サミュエルの口角は自然と上がっていた。
「いつもブローチをつけてくれてありがとう。本当によく似合っている」
「……こちらこそ、ありがとうございます」
「それをつけている君を見ると、皆に自慢したくてたまらなくなる。我が婚約者はこんなにも可憐だろう、と」
ぶわっと、ディアーヌは自分の顔に熱が集まるのが分かった。
先ほどまでは気心の知れた友人同士のような雰囲気だったものが、サミュエルによって甘い恋人同士のものとなり、ディアーヌの心臓はうるさく跳ねる。負けず嫌いとしてはここで何か返したいのに、か細い声で返事をするしかできなかった。
何か返したいのにもじもじとしているしかできず、ちらりとサミュエルを見上げれば彼は極上の微笑みをディアーヌへと向けていて、さらにときめきが増しただけだった。
照れて大人しくなるディアーヌの髪を撫でていたサミュエルは、髪から手を離すと、今度は彼女の手を持ち上げてその真っ白な手の甲へと口づけを落とす。
思わず、んんっ、と声を出してしまったディアーヌだが、恥ずかしさが頂点に達しそうでも気合を入れて手は引かなかった。
自分だってサミュエルのことは好きで、こうやって甘い時間を過ごせることは嬉しいからだ。
「ディアーヌ、力を抜いて」
「……どこに力が入っているのか分からないので難しいですわ」
その答えに、サミュエルは、ははは、と笑う。
彼がこんなふうに笑うのは自分に向けてだけ、というのはもうずっと前から知っていて、ディアーヌの中でもサミュエルへの愛おしさが積み上がる。
あとはそれを、素直に口に出すだけだ。
「……わ、私も……サミュエル様のことは……その、お慕いしておりますし、皆に自慢したくなりますのよ」
伏し目がちになりながら今のディアーヌに返せる精一杯の言葉とともに、サミュエルの手を握り返した。
いつかはもっと大胆に……いや、もう少し羞恥心を表に出さないようにして好意を伝えたいけれど……まだこれが限界である。
しかし彼女の気持ちはきちんとサミュエルに届いたようで、サミュエルから、ディアーヌ、と呼ばれて再び目線を合わせると、心底ディアーヌが愛おしいという眼差しで彼は自分だけを見つめていた。
「ディアーヌ、好きだ。学園を卒業したら結婚しよう。私は君といたら、きっと立派な王になれる」
「…………きっと、ではありませんわ。絶対に、立派な王になるのです。それだけの努力を、サミュエル様はされているのですから」
サミュエルはやろうと思えば何でもできたけれど、それは彼が彼なりの努力を続けている証だ。
実際、婚約者となって知った彼は、根っからの挑戦者であり、自身の努力が国をより良くしていくことに繋がると信じている、まさに理想の王族であるということだった。
そんなサミュエルだから尊敬しているし、好きになった。
そしてこれからも彼の隣にいるのは、自分でありたかった。
サミュエルがディアーヌの左手の薬指を指先でそっと撫でる。
「ブローチももちろん君に似合っているが……早く君のこの指に、私の選んだ指輪を贈りたい。私を正しく理解してくれる君を、私だけのものにしたい」
ブローチは三人から。
けれど左手薬指の指輪は、だった一人からだけ贈られる。
「……その指輪が似合う人間となれるよう、これからも研鑽に励みます。だ……大好きなサミュエル様の隣に、いつもいたいですから」
顔だけでなく首までも朱に染まったディアーヌだが、羞恥心から潤んだ瞳を逸らさずサミュエルを見つめると、私も大好きだ、と返されて幸せのあまりつい笑ってしまった。
サミュエルも同じように笑ってくれたので気持ちは通い合っていたのだと思う。
ディアーヌはこの時の幸せな気持ちを覚えていようと思った。そしてこの人と共に、未来を歩んでいけることを幸せだとも思っていた。
……まさかこの二年後に、ディアーヌが婚約破棄されてしまうなんて、この時は想像すらしていなかった。