第十七話 魔王と勇者の約束
二人が一通りの話を終えた頃には、夕方に差し掛かる時間にまでなっていた。
昼食を挟んだものの、内容の濃い話をじっくりとできたことに満足もしているが、二人揃って立ち上がり伸びをするくらいには体は固まっている。リュカから、こうするといいよ、と簡単なストレッチを学びつつ体をほぐしたディアーヌは、お礼を言ってから自身がメモを残した紙を手に取った。
「また分からないこととかあったら訊いて。一気に話したから曖昧なところもあるだろうし」
「ありがとうございます。大変勉強になりましたわ」
「いやいや。こちらこそ」
ディアーヌがメモをした紙には、魔法から始まってリュカの世界のことがびっしりと書かれてあった。
一枚では足らず追加したのだが、自分の文章を読み返しながら、ディアーヌは切なげにぽつりと溢す。
「……人々に絶望した少年が魔王になってしまった、というのは本当に悲しい歴史ですね」
「そうだね。闇魔法研究の最中に魔法が暴発して生まれた存在だと言い伝えられていたから、聞いた時はさすがにショックだったよ」
その事実は、魔王を倒した勇者とその仲間たちが魔王から直接聞いた歴史だった。
──魔王は、元は人間で、小さな村で産まれた平民の少年だった。
少年は生まれながらにしてあまりにも膨大な魔力を有しており、加えて感情の昂りによって、魔法詠唱をせずとも魔法を放ってしまう特異体質だった。
それでも小さな村だったので、穏やかに過ごせるように両親も村人も少年に優しく接してくれていた。
しかしどこから伝わったのか、その体質を知った国王の命令によって少年は捕らえられ、わずか五歳で争いの絶えない地域へと送り込まれることとなった。国王は世界を自身の手中に収めるため、少年を兵士として利用したのである。
そこからは壮絶な……とてもじゃないが、ディアーヌはそれを書き残すことができないくらいに、悲しく痛ましい人生を少年は送った。
けれど戦地に送られて十年。これは少年が聞かされていた約束の期間。
──十年間、国王のために戦い、成果を残せば親の元へと帰そう。
それだけを願って痛みも苦しみも負いながら、戦地に身をおいた少年だったが……
すべての争いに終止符を打ち、国王が世界の頂点に立った時。
村へと帰った少年を待っていたのは、自分を見て泣きながら怯え逃げ惑う両親と村人だった。
来るな、近寄るな、出ていけ、と向けられる罵詈雑言に絶望した少年が悲しみの果てに魔王へと変貌し、世界を壊し、人間を恐怖に陥れる存在となった。
魔王は村を飲み込んで、そこには深い深い地下迷宮ができ、その最深部に魔王はいたのだという。
「戦いが終わって竜から少年の姿になって……五歳ぐらいの男の子が泣きながら、愛されたかった、と言ったんだ」
魔王と人間の戦いが続く中で、魔王の誕生とその正体に関する事実は、人間にとって不都合だと思われたのか……
いつの間にか事実は捻じ曲げられ、間違った言い伝えが浸透し、それによって闇魔法の使用は禁忌とする決まりまでできあがっていた。
それはリュカたちも、魔王から告げられるまで疑うことのなかった世界の歴史であった。
「当時の国王やその周りの人間が、幼い彼にしたことは許されることではない。そして間違った歴史によって戦い続けた俺たちも同じだ。だから俺たちは、『二度と魔王を生み出すような世界にはしない。君のことも正しく俺たちが語り継ぐ』と約束したんだよ。そうしたら……魔王だった少年が、笑ってくれたんだ。その笑顔が本当にあどけない子供で……思わず抱きしめたんだけど、最期にありがとうとごめんなさいと言って消えていった」
ぐす、とディアーヌは鼻をならした。
少年の生い立ちを聞いた時も涙を堪えたが、彼の生き様には心の中でそっと安らかに眠ってほしいと願う。
そしてディアーヌの前世を魔王にしようと言っていたのをリュカが嫌がっていた理由も分かった。今となっては妻で良かった、とも思う。
「魔王から生まれた魔族は魔石になって、それが人間を強化する……きっと魔王は、いえ、少年は、誰かに止めてほしかったのでしょうね」
「そうだね。魔族を増やすために使った魔力は回復せず、魔石も力を使い果たしたら粉々になる。千年の間に、魔王の魔力は随分と減っていたから俺たちは倒せたんだ。タイミングが良かっただけで勇者なんて崇められるものではないけど、この話を伝えていくためにこの名が必要だから、勇者を名乗っているんだよ」
「……リュカ様ご自身がお認めにならなくても、私の現状を打破しようとしてくれるリュカ様は立派な勇者です。出会って間もない私にも優しいお方ですもの。元の世界では、たくさんの方がリュカ様の優しさと強さに救われていると思いますわ。そんなあなただからこそ、少年も自身の想いを託したのだと思います」
ディアーヌは手に持っていた用紙を机に置くと、まっすぐにリュカを見た。
「リュカ様ならきっと、少年の願いを叶え、幸せな世界にしていけるはずですわ。だからその時まではちゃんと、勇者でなくてはなりませんよ」
「……勇者でなくてはならない?」
「魔王を倒した勇者ではなく、魔王を“救った”勇者として、あなたはあちらの世界で名を残すのです。そうすればきっと、少年も温かな気持ちを持てるはずですわ」
そう言ってにっこりと笑ったディアーヌをじっと見つめていたリュカだったが、ふいに明後日の方向へと目線を逸らした。
「リュカ様?」
名前を呼んでもリュカはなかなかディアーヌを見ようとしない。
突然の彼の態度に、偉そうな物言いをしただろうかと不安になった。
けれどリュカの横顔からは不快という雰囲気はないように思う。だからここは待つしかないか、とディアーヌは口を閉じてリュカを待つことにした。
……待ったのは、ほんの少しだ。
まだ横を向いたままで、リュカはディアーヌへと問いかける。
「……ディアーヌは、この一件が片付いたらどうしたいとかある?」
「片付いたら? それは……まだ何も。誰がどこまで魔法をかけられているか分かりませんから、それによって対応も変わるかとは思っておりますが……少なくともこの家は出て、王都からも離れるつもりですわ」
「そうか……」
その一言の後、リュカはディアーヌへと向き直った。
「もしもこの一件が片付いて、君のやりたいことが見つかったら教えてほしい」
声色もそうだが、すごく優しい眼差しだった。
なぜ突然そんなことを? と尋ねることもできたが、それはしなかった。
なんだか無粋な気がして…、知らないままでいいこともこの世にはあるのだから、これは知らないで良いことだとディアーヌは思う。
そしてそれはリュカにとってもそうだったようで、ふう、と短く息を吐き出すと、俺の話は一旦このくらいで良いかな、と微笑む。
それにはディアーヌもええ、と返し、再度お礼を伝えた。
「ありがとうございました。でしたら、次は私からですが……これは手短に終わらせますね」
「手短に?」
「長引かせると嫌がられそうですので。リュカ様、ちょぉっと失礼いたしますね」
「え? ちょ、え!? ディアッ……!?」
そこから続いたのは、リュカの小さな悲鳴だった。
……リュカはこの時まで、勇者である自分がまさか身ぐるみを剥がされることになるなんて、思ってもいなかった。
抵抗するリュカを押さえ、まぁまぁ恥ずかしがらずに、なんて言いながらディアーヌは笑顔で押し切り、彼の着ていたシャツを受け取る──正確には剥ぎ取ると、それをソファの背もたれにかけた。
そしてどこからか取り出したメジャーを使って、ソファの前に立たせたリュカの上半身を測っていく。
リュカはどことなくげっそりしながらディアーヌの指示に従って腕を広げたり、その場で回ったりした。
シャツの下にもう一枚着ているのだから良いでしょう、とディアーヌが言うと、信じられないという目で見られたが無視を決め込んだ。
そうして上半身を測り終え、やっぱり、とディアーヌは口にする。
「リュカ様は相当、着痩せされますね。シャツの上から見て想像したサイズよりも大きいものを買わないと、腕なんてパツパツになってしまいそうですわ」
「あー……それはあるかも。身長はそこまで高くないんだけどね」
「高い方ではないですか? 少なくとも、私が知る男性の中では高身長と言えると思います」
シャツ一枚のリュカの前で、ディアーヌは自身の頭に手のひらを乗せて、リュカの頭の先へと伸ばす動作をする。
「そこらへんも違いがあるのかな。俺は平均より少し高いくらいだったよ」
「私は女性の中では平均ぐらいですが……もしかして、リュカ様からすると小柄な方になりますか?」
「確かに、そうかも」
今度はリュカが、手のひらを水平にして自身の目線から上げたり下げたりした。彼の記憶の中の誰かの身長を思い浮かべているのだろう。
「弓使いはディアーヌと同じくらいで、魔法使いが目線くらいはあったけど……弓使いは仲間内でも小さいと言われてたな」
「リュカ様の目線の高さですと、私の幼馴染ぐらいですね。女性では長身になると思います」
「そうかぁ。そんなところも違うのかぁ。面白いね」
そんな話をしながらもディアーヌは、自身の机へと移動して白紙の紙を一枚持ってくると、ソファに座り直してから先ほど測ったリュカのサイズを紙にまとめた。それからシャツ、ズボン、靴下……と服から始まり日用品までをズラッと書き出して、その横に数字を記入していく。
シャツを羽織ったリュカが、ディアーヌの手元を覗き込むようにして尋ねてきた。
「……それ、俺の生活品を書き出してくれてるよね?」
「ええ、部屋は手配できますけれど服は好みもありますでしょうから。明日、領地を巡って買い揃えましょう」
「……今さらだけど、俺、一文無しなんだよね」
「ご心配なさらず。私、お金だけならたんまり手に入りますから」
え、と溢したリュカににっこりと笑いかけると、ディアーヌはペンを置いてクローゼットへと歩いていき、ためらいなく扉を開けた。
そしてその中からいくつか宝石のついたアクセサリーを取り出して、リュカのもとへと戻ってくる。
宝石に興味のないリュカでも、良い値段がするものだとはなんとなく分かる品物に、まさか、とディアーヌを見ると……
「これらは元婚約者から贈られたものです。これを宝石商で売れば、たんまり、ですわ」
どうだ、と晴れやかな笑顔で言ってのけたディアーヌを前に、リュカは頭を抱えた。
「……ディアーヌ、それは思い出の品だろう? 俺のために売るなんてしなくていいよ」
「もう私には必要ないですものですし、リュカ様のためではなく、私のためですから」
いや、でも……と言いながら顔を上げたリュカだったが、次の言葉は出てこなかった。
まっすぐに見つめ合ったディアーヌの眼差しは、彼女の中にはもう、元婚約者への気持ちは残っていないのだと伝わってくるものだった。
「……本当にいいのかい、ディアーヌ?」
「もちろんです。私は以前のように、純粋な気持ちであの方をお慕いできません。たとえ魔法の影響を受けて起こったことだったとしても、苦しみや痛みは私の中にあって、何かがある度にきっと私はそれを思い出してしまいます。こういうのは時間が解決することかもしれませんが……それを待たされるのは国民で、そんな迷惑をかけるわけにはいきませんわ」
それに、と彼女は続ける。
「私の今の一番の目標は、悪を倒して、リュカ様をちゃんとあちらの世界に送り届けること。新たなことを始めるのですから、何をするにも自由にできるお金は必要です。なのでこれは、私が私のために換えるものです」
「……それは、俺のためって言うんだよ」
「私のためです。だって、私が負けたくないから挑むことですもの」
だから気にするなという言葉が音になることはなかったが、リュカには十分すぎるほど伝わっただろう。
それでも、なんて反論は出なかった。
「俺ばっかりお世話になるから、俺もちゃんと働かないとだね」
「あら。リュカ様は今日から私の護衛兼先生になるのですから、それなりに忙しいと思いますよ」
「先生?」
「魔法詠唱と魔力についてはまだまだ知りたいことがありますわ。それに剣術もですし、リュカ様のような身のこなしを会得するにはどうしたらいいかも教えてほしいです。あとはあちらの世界でリュカ様が過ごされてきた日々もですが、これは毎日聞こうとしても時間が足りませんわよね。他にも……」
指折り数えながら次から次へと項目を挙げるディアーヌを前に、リュカはソファの背もたれに体を預けた。それはまるで降参かのような姿勢だが、口元が緩んでいる。
「リュカ様、冗談ではないのですよ?」
「あれ、俺、笑ってた?」
「ええ、にんまりと」
真似して口角を上げれば、リュカがごめんごめん、と軽く謝る。
「どれだけ効率的に学べるか、が勝負の鍵ですからね。今からどう学んでいくか、ちゃんと順序を考えなければ」
「うん。やっぱりディアーヌは真面目だなぁ」
「時間は限られているのですから、今すぐにでも計画を立て始めましょう」
「うーん……俺が話をするのもいいんだけど」
リュカは背もたれから再び体を離し、膝に肘をついて手を合わせた。
少しだけ前かがみになると、まっすぐにディアーヌと目が合う高さになる。
ディアーヌはリュカの言葉を待っていて、二人の間に流れる空気は朗らかだ。お互いに十分な睡眠を取れているとはいえないのに、表情は明るい。
だからきっと、リュカも今後の話をしてくれるのだと思っていたディアーヌだったのだが……
「俺も、もっとディアーヌのことを知りたいんだけど」
今後の話、には違いないかもしれないが、対象が自分だとは思っていなかった。
「私のこと?」
「最愛の妻のことを知りたいと思うことは悪いことではないよね?」
「さっ……! そ、そうでしたわ! リュカ様!」
「ん?」
問い正さなければ、と思っていたディアーヌだが、既に頬を紅潮させていた。対照的にリュカは飄々としている。
「つ……妻だけなら、のみこみますけれど! さいっ、最愛、なんて、そんな言葉を!」
「その方がより近くにいたいって主張できるでしょ?」
「それは……そうですけれど……! でもさすがに言い過ぎでは? 簡単に使って良い言葉ではありませんわよ」
「簡単には使ってないよ?」
「え?」
「そんなことを言ったのはディアーヌが初めてだよ」
にっこりと笑うと勇者に、口をはくはくとしながら言葉を失う悪役令嬢。
「俺の服は余裕で剥ぎ取るのに、ここでは照れるんだ」
「あ、あれは……! 生活に必要なことでしたし……!」
「そうだね。ありがとう」
それからディアーヌがごもごもと小さな不満を言うが、そのどれもをリュカから必要なことだから、と返され、結局、ディアーヌは彼の前世の最愛の妻という立場は変えられなかった。
残りの休日はほぼ丸一日使ってリュカの生活品を買い揃え、彼の部屋となったディアーヌの隣の部屋へと運び込んだ。
本当は使用人たちと同じく主人家族とは離れた部屋になるはずだったのだが。
「私“だけ”の護衛なのですから、私の隣の部屋にします」
とディアーヌが譲らず。
そんな彼女に好きにしろという公爵と、困惑する使用人たちをおいて、ディアーヌは楽しげにリュカに隣室を用意してみせたのである。




