第九話 悪役令嬢の噂
会場では、華やかなドレスやきっちりとしたスーツに身を包んだ生徒たちが笑い合っている光景が広がっていた。
それを見て涙腺が緩みかけたディアーヌは、少し俯いて見られないようにと誤魔化していた。
彼女の隣にはサミュエルが立つ。サミュエルは優しくディアーヌの手を取り、婚約者として、今日のダンスパートナーとしてディアーヌに微笑みかけてくれた。
「無事に開催できて良かった」
「本当に……感無量ですわ」
目尻に溜まった涙を拭ったディアーヌだったが、まだサミュエルからはドレスに関してお褒めの言葉をもらってはいなかった。
いつ言ってくれるだろうという期待が半分、言ってもらえないかもしれないという不安が半分。
なにせコンディションが最悪だ。去年はこの日に向けて肌も髪も手入れして、自分でも綺麗だと思えていたのに。今年はその足元にも及んでいない気がする。
それに去年は三人からもらったブローチもつけていたのに、今日はすっかり忘れてしまった。
舞踏会を開くために奔走していたのだから仕方がないとも思うが、一番綺麗な姿でサミュエルの隣にいられないことに、少しばかりの悔しさがあった。
今日のサミュエルは王族の式典用のものではなく、この舞踏会のために誂えた上下とも白のスーツを着ていた。ショルダーラインとカラー、ラペルが鮮やかな青で、フロントボタンと袖口をぐるりと囲う刺繍が金色だ。
彼のために作られた一着だとはいえ、あまりに美しい王太子殿下であり、ディアーヌは一層、自身と比べて萎縮してしまいそうだった。
それにもう一つ気がかりなのは、彼のスーツにある青色が今日のディアーヌのドレスの色とは少し合っていないこと。
だからだろうか。あまりサミュエルとも話が弾まず、適当に視線を泳がせていると、よく知った顔が堂々とした足取りでこちらに近づいてくるのが見えた。
その姿を一目見て……いつもなら、とっても綺麗だわ、と素直に口に出せるのに。
今日ばかりは、隣に並んでほしくないと思ってしまった。
コツコツ、と軽やかなヒールの音を弾ませながら目の前に立ったのは幼馴染で親友のマチルドだ。
偶然にも彼女もまた、ディアーヌと同じく青系統のドレスを着ていたのだが……
大胆に背中を出したホルターネックのドレスは、動くと揺れる後ろのリボンがいやに軽やかで、ディアーヌの心の重さとは正反対に映った。しかもマチルドのドレスの方が鮮やかな青色で、今日のサミュエルのスーツと同じ色彩であり、ドレスのスカート部を彩る金糸の刺繍がより彼の色合いを表しているかのようだった。
加えていつもは簡単なひとつ結びにしている髪も、ドレスと同じく青を基調とした髪飾りでまとめられ、華やかな装いとなっている。艶のない髪を誤魔化すためにアップにして、時間がないからと飾りもつけずに来たディアーヌとは大違いだった。
極めつけはその耳元を飾るオーバルカットのブルーサファイアのイヤリングだ。デザインはシンプルながら、大きさも輝きも一級品だと一目で分かる。
これが誰かからの贈り物ならば、きっとその相手はマチルドのことを特別に想っている人なのだろうと予想できるものだった。
きらりと光るブルーサファイアを眩しく感じた瞬間に、外側だけ飾り立てて中身はボロボロなディアーヌよりも、内なる自信が滲み出るマチルドの方がずっと美しいと思った。周囲の生徒たちも、驚いている者うっとりとしている者様々だが、皆がマチルドに見惚れている。
……これでは誰がどう見ても、今この場でサミュエルの隣に立つのに相応しいのはマチルドだと思うだろう。
二人が並び立てば、まるでこの日のために合わせてスーツもドレスも作ったと思われてしまいそうだ。それほどまでに、一対の雰囲気を醸し出している。
三人でいれば……邪魔をしているのは、間違いなくディアーヌだった。
そんなことを思ってしまった自分自身に、ディアーヌはショックを受けた。
あまりにも情けない考えにマチルドを見ていられなくなって俯くと、頭の上からマチルドの明るい声が聞こえる。
「ごきげんよう、ふたりとも。今日は素敵な舞踏会になりそうだね」
いつも通りの彼女の様子に、自分が卑屈な方にばかり考えてしまうのが嫌になった。それこそ、サミュエルの婚約者には相応しくない。
そう思い直して、マチルドにはこちらもいつも通りに返事をしなければと顔を上げたところで……
「……マチルド、今日はすごく──」
「すごく綺麗だ。よく似合っている」
ディアーヌの言葉に被せるようにしたサミュエルの賛辞に、マチルドは嬉しそうに笑い、ディアーヌは分かりやすく体を強張らせた。
「本当に? あなたにお勧めされたから思いきってこの色にしてみたけど……着慣れないから少し恥ずかしい」
「恥ずかしがる必要なんてない。私が想像した通り……いや、それよりずっと美しい」
「褒めすぎ」
楽しそうに笑い合う二人の横にいるのは、目眩がするような心地だった。
「それに……贈ったイヤリングもつけてくれたのだな」
「……ええ。似合う、かな?」
「間違いなく、マチルドが世界で一番美しい」
「もう! だから褒めすぎ」
「褒められたくて聞いたのだろう?」
「それはそうだけど……でも、本当にありがとう。クラブの指導を頑張っているご褒美にしては高すぎるものだから、つけるだけでもドキドキしちゃった」
可愛らしいな、という一言の後、ディアーヌが手を添えていたサミュエルの腕がマチルドへと伸びた。その弾みで離れた手をどうしていいか分からず、ディアーヌは手を上げることも下げることもできずに固まる。
呆然と見つめる中で、サミュエルはマチルドの頬を優しく撫で、自身が贈ったというイヤリングにそっと触れた。
それに照れて笑うマチルドは、どこからどう見ても可憐な令嬢だった。
「また後で。その時にじっくり見させてもらおう」
「うん、分かった。それじゃあ、またね。ディアーヌもまた後で話そう」
マチルドの挨拶には、返事ができなかった。
体が震えないようにするのに必死で、狼狽えたところを見せないようにしなければという考えしか頭になかった。
マチルドが去ってから少しして、それじゃあ、とサミュエルがディアーヌへと声をかけてくる。
「我々も踊りに行こうか、ディアーヌ」
「……ええ」
再びサミュエルの手を取り、早速会場の中心まで出てダンスを始めたのだが……
「……ディアーヌ、どうした?」
まだ、数ステップしか踏んでいないというのに、足も体もすごく重い。
明らかに遅れだすディアーヌの手をサミュエルが強く握り、咎めるような声色で囁く。
「しっかり。私に合わせて」
目の前にいるはずのサミュエルの声が、遠くに聞こえる。
とにかく動け、足を動かせ、と必死になっているのに、意識は段々と自分から離れていく。
「……一回止まろう」
あまりに踊れないディアーヌに、サミュエルは踊る生徒たちを避けるように端へと寄った。そうしてため息を吐いてその場で止まる。
「あまりに動きが悪すぎる。調子が優れないのならば少し休んでいるといい」
謝りたいのにディアーヌの視界はぐわんぐわんと回っており、もう彼の声も聞こえにくくなっていた。膝は細かく震えていて、立っているのがやっとだった。
「私はマチルドと踊ろう」
その言葉と共に離れていった手が何かの決定打だったかのように、ディアーヌの心はぽきんと折れる。しかしそんなディアーヌを気にすることなく背中を向けたサミュエルに、追いすがることしかできない。
「……サミュエル様……行かない、で」
なんとも掠れた弱々しい声だったのに、サミュエルには届いたのだろうか。勢い良く振り向いた彼と目が合う前に、ディアーヌの視界は真っ白に染まる。
「……っ! ディアーヌ!」
焦ったようなサミュエルの声が耳に残る中で、一曲も踊りきることのないままディアーヌは意識を失った。
目が覚めると、医務室のベッドの上に寝かされていた。
しばらくの間、ディアーヌは自分に何が起きたのか分からなかった。ただ、小さな音ながらも聞こえてくる曲が舞踏会のものだと分かり、自分がその場に立っていられなかったということを徐々に認識していった。
「……情けないわ」
呟きの後、両手で顔を覆う。
最後の記憶の限りでは、自分は観衆の前で倒れてしまったのだろう。生徒たちが大切にしている舞踏会を成功させるために努めてきたというのに、自分が水を差す形になってしまってことが無念でならない。
人の気配はなく、ディアーヌは自己嫌悪に陥った。
ここ最近、まったく涙など流れなかったことが嘘かのように次から次へと頬を濡らしていく雫を拭いながら、一人で良かったと思う。
きっと会場では他の四人が舞踏会を成功させてくれる。
それで良かったと思おう。学園の皆が笑ってくれるなら、それで……
そう考えるようにすれば、徐々にだが涙は止まっていく。
まだ動けそうにはなかったから、もうしばらくここで休ませてもらおうと決め、目を閉じて微かな音楽に耳を傾けていた時。
数人の話し声が、部屋に近づいてきているのが分かった。
そうして声の主たちはディアーヌのいる部屋へと入室したが、ディアーヌは部屋の奥でカーテンを引いた先にいるので気づいていない様子だった。
入ってきたのは、声からすると恐らく三人。皆が女子生徒で一人が足を痛め、その付添に二人はやって来たようだ。
最初は怪我の状態を確認するようなやりとりがあり、慣れない靴に靴擦れが起きたために包帯を巻く、というやりとりだった。
そして少し休んだらまた行こうと明るい声で話していて、怪我がひどくなくて良かったということと、三人の声色がとても楽しそうなので、今日の舞踏会は成功といえるだろうと嬉しくなった。
しかし治療後に休んでいる途中、三人のうちの一人が、徐ろに話題を変えた。
「それにしても……あのお方は一体何なのかしら」
「こら、どこにいるかも分からないのよ」
「こんな学生皆が使うような部屋にはいないでしょう」
あのお方、とは誰のことだろう。
嫌な予感しかしない話に、耳を塞がなくてはならなかったのに、ディアーヌは聞き耳を立ててしまっていた。
「ひどい顔色で踊って、挙句の果てには倒れてしまわれて。あれでは心配してください、と言っているようなものですわ」
「それも原因はあれでしょう? 孤軍奮闘アピール。散々、他の方々には迷惑をかけていたというのに。本番でまであんなことをして……見ているだけで不快でしたわよね」
「むしろいなくなった後のお二人が素敵でしたから、それで帳消しになりましたわ」
「ええ、本当に。それにしても、あのお方のドレス姿は初めて拝見しましたが、すごく美しかったですわね。背も高いお二人ですから、絵になっておりましたわ」
「あんなみすぼらしいドレス姿とは大違い」
三人はふきだして、それは言いすぎですわ、と愉快そうに注意をしていた。注意というよりは、形式上、言ったようなものだったけれど。
「ところで、今日のご様子からあのお噂が本当なのでは、と思いませんでした?」
「あの噂って?」
「ここ最近、ずっとお二人ずつで行動されておりましたでしょう? それが実は、それぞれの女性を守るためだった、というお話がありますの」
「守るため?」
「ええ、あのお方の嫉妬が激しくて、自身より優秀な方に対して攻撃的になられるので、それから守るために行動していたというお話ですわ。今日だって、彼の方は本当はもう一人のお方をダンスパートナーに望んでおられたのに、お譲りになろうとしないから仕方なく……」
「まぁ、そんな話は初耳でしたわ」
「裏では悪役令嬢なんて呼ばれているそうですよ」
「それはピッタリですわね。自身の実力が劣っていることを認められない負けず嫌いで、嫉妬深さから人を傷つける。まさに、その名の通りではありませんか」
誰のことか、なんて。
会話をしている人たちに問わなくても答えは明白だった。
「今日のイヤリングは彼の方からの贈り物なのでしょう?」
「ドレスも二人で選んだものだと聞きましたわ」
「そんなお方を前にあんなにもみすぼらしい格好で踊っていたなんて、倒れた方が本人は幸せだったかもしれませんわね」
それもそうですわね、と笑われる声に、ディアーヌは涙すら出なかった。その後すぐに生徒たちは会場へと戻っていき、ただ一人、ディアーヌだけが動けないままでいた。
ディアーヌは日が暮れて音楽も聞こえなくなってから医務室を後にした。あれからサミュエルや他の生徒会の三人がディアーヌのもとへと来ることはなかった。
とぼとぼと歩きながら立ち寄った会場はもう明かりも消え、誰一人としていない。
足取り重く、誰とも会わないようにしながら歩いたディアーヌは、気づけば生徒会室にいた。いつものように副会長の席に座り、舞踏会直前になるとチェックできていなかった投書された要望の数々に目を通す。
『副会長に渡された日程表に誤りがあったのに、生徒会長から謝罪を受けた。本人は後日謝りに来たが、もっと早く来れたのでは?』
『最近のディアーヌ様はクラブ運営への意欲がないように思います。資料には誤字も見受けられ、こちらで修正しております。ディアーヌ様に謝られることもありますが、何も悪くないモニク様とロラン様も謝罪ばかりしていてかわいそうです。』
『本日、マチルド様に温かいお言葉をかけていただきました。一方、ディアーヌ様には挨拶をしても軽くしか返していただけませんでした。王太子妃となる方としての余裕が感じられません。』
投書の紙はたくさんあるというのに。
ディアーヌの目に止まるのは、彼女への批判的な言葉が書かれた紙ばかりだ。
『悪役令嬢と呼ばれるような人が、生徒を代表する生徒会であっていいのでしょうか?』
誰が悪役令嬢だ。
誰に対する悪だ。
誰のためにやってきたと思っている。
「全部……独りよがりでしかなかったのかしら」
萎れた声はどこにも響かず、ディアーヌはただ溜まった仕事をこなすだけだった。
◇
頭を抱えて唸るリュカに、どのような感情かを尋ねた。
「……一番は、そんな状況で耐えてきた君を労いたいって気持ちと、純粋に腹が立っている。あとは、仲間たちの理解の無さと、適当なことをいう観衆たちへの呆れだね」
観衆、というあたりがなんとなく勇者っぽいなと思ってしまった。
「そもそも何なんだ、悪役令嬢って……」
「私もそれは思いました。私が悪役なら、こんな苦労ばかりかけられる舞踏会なんてぶち壊しますもの」
「本当に……苦労を知らない者こそ、好き勝手言うのはどこも変わらないんだな」
「リュカ様にそう言っていただけると救われますわ」
リュカは大きなため息をついた後、膝に肘を乗せて手を組んだ。それからディアーヌに向けてゆっくりと紡がれる言葉は、ディアーヌを傷つけないように慎重に選ばれたものだった。
「自分の弱さや実力を認め、素直にできないと口にすることは簡単じゃない。やりたくない、とは違うことくらい、君と付き合いが浅い俺ですら分かる。どうしてそれを周囲は理解してくれなかったんだ」
「そうですよね。私もなぜ聞き入れてもらえなかったのか分からなくて」
「普通だったら手を貸してくれる人たちなんだね?」
「ええ。あの頃は私もいっぱいいっぱいで周りが見えていませんでしたが、考えれば考えるほど、どうしてああまでも私を一人にしたのかが……」
二人でうーんと頭を捻り、答えの出ない謎に挑むこと数十秒。
もしかして、と口を開いたのはリュカだった。
「……洗脳の魔法にかけられてる……とか?」
「洗脳の魔法? そんなものもありますの?」
「精神系の魔法の一つにね。本当は禁じられているものだけど……」
「しかし、魔法を使える人はこの世界には……」
言いかけたディアーヌだったが、リュカと魔石を視界に入れて一つの可能性を思いついた。それはリュカも同じだったようで、ディアーヌがその可能性を口にするより先に彼からその言葉が出る。
「俺以外に、こっちに来た人がいる?」
「……私もそう思いました。魔石や魔族だという可能性もありますが……」
「いや……魔王が消えた時点で魔族は皆消滅してる。魔石は残ったけれど、基本的には術者がいなければ魔法は発動しないはず。そうなると、長期間のことだから魔法を使える者がこっちにいると考える方が自然かな」
その仮説だけでも、危険度は桁違いに上がった。
なにせこの世界の人間は、魔法なんてものを扱えない。現にリュカも、ここでは魔法があまり使えないようだった。
となると魔法に対する対処法などあるのかどうか、だ。
それにディアーヌ自身も既に影響を受けている可能性だってある。
「……私も、操られているということは?」
「今の君はないと思うよ。話を聞いている限りでは、君らしくない行動を取っていたあたりは怪しいけれど……自分の中では今は違和感とかない?」
「今はないですが、それこそ昨日まではやけに内に内にこもるような考えをしていた気がします」
そこまで言って、違和感と言われると周囲にも多々あった。特にサミュエルには違和感しかないように思えた。
「もしもリュカ様の仮説が当たっていて、殿下が操られているとなると国が大変なことになりますわね」
「そうだね。もう少し、手がかりを探ろう。まだ話は続きがあるよね? その後のディアーヌや周囲はどうなったんだい?」
「その後は、転がり落ちるように自信を失い、評価も下がる一方でしたわ」
あっけらかんと言えるぐらい立ち直っているディアーヌに代わって、苦しそうな顔になったリュカに申し訳なさを覚えながら、ディアーヌは残る期間と今日に至るまでの話を続けた。




