プロローグ
夜になって降り出した雨はあっという間に雷雨となり、ゴロゴロと鳴る空から降る大粒の雨が、激しく窓を叩いている。
雷と雨の音だけが響く部屋で一人、ベッドに腰掛け窓の外を見つめるのは、ディアーヌ・バトン公爵令嬢。
その横顔は元からの色白さを通り越し、ひどく青白く、目の下にはくっきりと隈が浮かんでいた。彼女の婚約者が綺麗だと褒めてくれた金色の髪も、今はその面影なく艶を失っている。
誰もいないたった一人の空間で、ディアーヌは大切に想っていた三人の姿を思い浮かべていた。
……婚約者と弟と幼馴染。
幼い頃から切磋琢磨し、励まし合い、大切に想ってきた。
それぞれに抱く愛情は違えど、生涯をかけて彼らを愛するのだろうと思っていた。
しかし、彼女のその想いは今後一生、叶うことはなくなった。
ディアーヌは一昨日、自身の婚約者と幼馴染が抱きしめ合って愛を語らい、熱い口づけを交わす現場を目撃してしまった。
そして動揺から婚約者を拒絶して逃げた彼女を騙す形で、皆の前に彼女を晒したのは弟だった。
ディアーヌは彼らの行動に深く傷つき、膝から崩れ落ちそうになるほどの絶望を味わった。
さらに昨日、彼女の言い分は何も聞いてもらえず一方的に婚約を破棄され、婚約者と幼馴染が新たな婚約関係を結ぶと告げられた。
そう決まった後、父親からは貴族学園を卒業後はこの家を出ていけと言われてしまった。
今まさに、人生のどん底にいるであろうディアーヌの手の中には、三人から贈られたブローチが握られている。
これはディアーヌが十二歳の誕生日にプレゼントされたものだ。
三人で話し合って選んでくれたそれは、花の形をしたシルバー製のブローチである。
ディアーヌの翠眼をイメージしたという翡翠を中心として、寄り添うように三珠のパールがついた可愛らしいデザインのそれは、婚約者から『私たちはいつも君のそばにいるよ』と言って手渡された。
このブローチを受け取った時、ディアーヌは涙を流して喜んだものだ。
あれから五年。
三人との関係は、修復不可能なものとなった。
もう二度と、このブローチのように寄り添い合うことなどできないのだ。
「……さようなら」
彼女の人生においてかけがえのない存在だった三人への別れの言葉を最後に、ディアーヌは立ち上がると、大股で窓へと歩み寄った。
そしてその勢いのまま、鍵を開けて窓を全開にする。
すうーと息を吸い込んだディアーヌに、横殴りの雨粒がぶつかってくる。
しかしそんなものは気にもせず、大振りな動きでディアーヌは腕を振り上げ──
「私は、負けませんわーーー!!」
一生分の大声を出し、手に持っていたブローチを外へと向かって全力でぶん投げた。
上半身を乗り出したことで雨に濡れてしまっていたけれど、今はグツグツと腹の底から怒りが湧いていたので、頭を冷やすにはちょうど良いぐらいだ。
暗闇の中、ブローチの行方を目を凝らして追う。
放物線を描き飛んでいくブローチが一瞬キラリと光った気がして、また彼女はお腹いっぱいに息を吸い込み、ブローチに向かって吠えた。
「絶対に、負けてたまるものですかーーー!!」
最後の一吠え。
その声が空に届いたかのように、ゴロッと鈍い低音が響いた刹那──
ドゴォォォン!!
「キャア!」
「おわっ!」
バトン邸の庭内の木に雷が落ちたのか、一瞬視界が真っ白になり、これまでと比べ物にならない轟音とともに床が揺れた。その衝撃でディアーヌは窓際から数歩後退る。
先ほどとは違う意味で呆然としながら、雷はどこに落ちたのか、家や領地への被害は、など考えなければならないはずなのに。
ディアーヌは恐る恐る後ろを振り向くことで精一杯だった。
雷の音の直後に。
この部屋では聞こえないはずの声がしたからだ。
「……ここはどこかな?」
声の主は、いつも自分が使っているベッドの真ん中にいた。
異常事態にも関わらず、自分よりも少し年上かな、と冷静な部分が残っていることにディアーヌ自身が驚きながらも、ベッドの上にいる男性を見つめる。
「あれ……?」
キョロキョロと周りを見回した男性と、ばっちり目が合った。
明かりを抑えた深夜の室内では黒と見間違うような紫紺のミディアムヘア。そして髪色よりも薄い紫色をした瞳の男性を見つめ、ディアーヌはかける言葉を失う。
彼女が知る限り、この世界に紫色の髪や瞳をした者はいない。
落雷と同時に現れたというだけでこの世のものとは思えないところを、その色合いでまた余計に天から遣わされた存在なのかとすら思えてしまって、ただ黙って男性の言動を待った。
そんな彼女をおいて、男性は目を細めてディアーヌを見ると、ベッドから降りてスタスタと目の前までやってきてしまう。
背はディアーヌより頭一つ以上大きい。普段から見慣れた男性陣より高めのところにある目線に合わせるように、ディアーヌはいつもより顎を上げ、その顔を見上げた。
目はくっきりと二重で、鼻が高く眉も整えられている。まさに精悍な顔つきと呼ぶに相応しい造形で、おまけに清潔感もあるな、とこんな時なのにディアーヌは思った。
それが今は、見て分かるぐらいに心配そうな表情をしているから、性根が優しい人なのだと思わせた。
何も言わずただ見上げるだけのディアーヌに、男性は小さく首を傾げながら何の悪気もなさそうに口を開く。
「顔色が悪いようだけど、濡れたままでいると風邪を引いてしまうよ?」
それは質問だったのか、お伺いだったのか。どちらにせよ今の発言に答えられるほど、ディアーヌの頭は回っていない。
目の前の人物は何者なのかという困惑と、一体どこから現れたのかという衝撃と、やけに優しい声色への安心感がごちゃまぜになって彼女の判断を鈍らせる。
「とりあえず、窓を閉めよう。夜に窓を開けていたら危険だ」
男性は言うなりディアーヌの横を通り過ぎ、開放されていた窓を閉めた。これでよし、と一言呟いて再び振り向いた時には、親切心を全面に出したような笑顔でディアーヌへと話しかけてくる。
「それじゃあ、まずは乾かしてから話をしようか」
そう言って、徐ろにディアーヌへと右手をかざし、
「 」
と、音としては聞き取れない言葉を発した。
その直後に暖かくて優しい風が頬を撫で、ディアーヌの髪をふわりと浮かせる。
聞き取れないのに何か言ったと分かったのは、口の動きを注視していたからだ。今の動きは「オアウア」みたいな発音の動きだったけれど、それを音として認識できていない。
男性は至極真面目な顔をして口を動かしているのに。
自分はそれを聞き取れない。
それに、なぜ窓を閉めたのに風が?
いや、窓が開いていたとしても先ほどまで顔に当たった風は雷雨のそれで、冷たかったはずなのに。
パニックになるなという方が無理な状況に、一気に男性への色々な疑念が高まる中で、おや? と男性が首を傾げる。
「あれ、これだけ?」
この場に似つかわしくないとぼけた発言はディアーヌの耳には入ってこなかった。
なぜならば、今度こそディアーヌは絶句したからだ。
ディアーヌが絶句した原因。それは男性の背後の景色にあった。
窓の向こう。
その先に見えたのは激しい雷雨が嘘だったかのように、静かになった暗闇に差し込む柔らかな月明かり。
……そんなはずはない。
こんな短時間で、あの雷雲がなくなるなんて。
「あれ? やっぱりおかしいな」
おかしいのは自分か。男性か。
もしくは、この世界か。
その答えを得られぬまま、月明かりに照らされた男性は困ったようにディアーヌに頭を下げた。
「あまり力になれなくてごめん。体の調子は悪くないんだけど、どうも魔法が続かなくて。とりあえず、タオルで拭いたりした方がいいね。風邪を引いたらいけないし」
真正面から見つめ合った紫の瞳にはやはり悪意が感じられなくて、一体何が普通だったのか、ディアーヌは分からなくなりそうだった。