16 それはとても陰惨な Side.鈴木
約一ヶ月。
文化祭以降、二人の雰囲気は決定的に変わった。
その場面に出くわしたわけではなくても、鈴木には分かる。
「何があったんですか?」
平日の昼間。
二人きりの室内。
不機嫌を隠そうとしない先生に尋ねた。
先生の視線はこちらを捕らえることなくただひたすらにパソコンに向かったまま。こちらの声にこたえることもなく。
静かな室内に、時計の秒針とキーボードを叩くカチカチという音がやけに大きく響く。
まるで密室の牢獄のような重苦しい空気。
先生が書き始めた小説は今までの作品とは180度違う、シリアスで重く淀んだ、助けを求めてやまないけれど決して助かることの無いような、暗い話だった。
先生の文章力がその物語の厚みを増して、鈴木は引き込まれたけれど。とてもじゃないが万人受けする作品ではない。
構想の段階でそのことは伝えてあるけれど、先生は。
『今の私はこれしか書けない、というか、書かない』
そう言って笑った。
「鈴木」
先生がパソコンから視線をはずした。大きく伸びをして、テーブルに置かれたマグカップに手を伸ばして、先生の好きなココアを啜る。
それに習うように、鈴木もマグカップからコーヒーを飲んだ。
互いの視線は互いの姿を捉えていて、けれど声はかけない。鈴木が言いたいことも、先生が話したいことも、ちゃんと互いに分かっている。なのに、言葉にならない。
「書けた。確認して」
押しやるように差し出されたパソコンの画面。
そこで踊るように連なる先生の文字。
鈴木はそれに目を通す。
とある高校に赴任してきた、二年目の女性教師。入院した影響で二十一で高校三年生をしている男子。そして、その男子の幼馴染で現在大学三年の教師の彼氏。
どこまでも絡み合って、複雑で、けれど切れることの無い関係が三人を囲んでいて。
恋愛小説だと先生は言ったけれど、易しい物語なんかじゃない。
ドロドロとした、陰湿で、読み手すらその闇に絡めとるような、そんな話。
「まるで今の私達だ」
自嘲するような声だった。
鈴木もそれを否定はしない。
ドロドロとして、どこまでも暗く沈める物語。
先生は今の状況をこんな目で見ているのか。
「先生は……陽太君が嫌いなのですか?」
思わず聞いた。
そう思ってしまうくらい、この話は暗いのだ。
「いや? むしろ好きな部類に入るくらい。じゃないと同居なんてしないよ」
「……そうですか……」
その返事にどこか安心した。
「それと同時に、無性に怖くて、憎らしくて、逃げ出したくもなる」
心を病んでいるわけではない。けれど、心身ともに疲弊しているのだろう。
怖いと、逃げたいと思うのは陽太君に対してか。それとも先生自身の心に対してなのか。
憎らしいと思うのは、陽太君に対してか、先生自身の心に対してか。
鈴木には分からない。
「どう? 直すところとかはある?」
「大丈夫です。今回もお疲れ様でした」
作品のデータをディスクに落とす。
それを持って会社へ戻り、編集作業をする。
また少しの間、先生と陽太君に会わない時間が続く。次に会う時に二人がどうなっているのか。気になるけれど、知りたく無いとも思ってしまう。
それだけ、二人の関係は不安定なものに変わってしまった。いや、もともと安定した関係とは言いがたかったけれど。今回のことで、仮初めの均衡が崩れ去った。
白水さんはこの事態を想定していたのだろうか。
「お疲れ。そういえば、次回の打ち合わせだけど」
玄関で靴を履く鈴木の背中に声がかかる。
先生は、扉にもたれかかるようにして、こちらを見ている。逆光で表情は分からないけれど、たぶんゆるく微笑んでいるのだろう。
「日にちをずらして欲しいんだよね」
「それは構いませんけど、でもなぜ?」
「……墓に行くから」
そういわれて思い当たる。
次の打ち合わせの日は、陽太君のご両親の月命日。
毎月ではなかったけれど、先生はよくお参りをしている。故人もきっとお喜びだろう。
「そうですか。いい報告ができると良いですね」
「……」
先生は答えなかった。
鈴木が何を言いたかったのか、きっと分かっているだろう。
先生の表情は相変わらず分からない。
けれど、先程と少しも変わらず、微笑んでいるに違いない。
長らくお待たせいたしました。
やっとこさ最新話です。
私事ですが、最近体調を崩しまして、その状態で文章作ったのでちょっと中身がおかしいかもしれません。
全快してから中身を改めて修正していきたいと思います。