天乃無堂
葵達は通称「茜号」のミニバンに乗り、大阪を目指した。東名高速と新東名高速をうまく行き来して、渋滞を避けている。
「大丈夫、茜ちゃん? 運転、代わろうか?」
助手席の美咲が言うと、茜はバキバキの目で前方を見据えたままで、
「心配要りません。私、ボーナス欲しいので」
すでに茜は十時間以上運転し続けている。運送会社なら、違法な長時間運転になるものだ。
「茜、休憩しなさい。事故でも起こされたら、あんたのボーナスどころじゃすまないんだから」
後部座席に座っている葵が告げた。
「わかりました」
葵の命令は絶対なので、茜はサービスエリアに入った。
「水分補給とトイレ休憩も兼ねて、十五分休むわよ」
葵はミニバンから降りると、トイレへと向かった。
(所長は、自分が漏れそうだから、休憩って言ったんだろうな)
茜は大きく溜息を吐くと、エンジンを切って、車を降りた。
「茜ちゃん、トイレはいいの?」
美咲はハンドバッグを持って助手席を降りた。
「私は所長が戻ったら行きますので、美咲さんは先にすませてください」
茜はトイレで葵と鉢合わせするのが嫌なのである。
「そう。わかった」
美咲は肩をすくめてトイレへ向かった。
「え?」
茜は美咲の後を尾けて行く男に気づいた。
(何だろう? 美咲さんの怖さ、知らないバカ男かな?)
最初はそう思ったのだが、美咲が男に気づいていないようなので、
(あいつ、気配を消してる?)
同業者ではないかと考えた。
(まずい。美咲さんにメールを送ろう)
茜は高速打ちで美咲にメールをした。美咲は着信に気づくと、ハンドバッグからスマホを取り出した。
「あれ?」
茜は美咲の返信を見て目を見張った。
『わかってるから心配しないで』
美咲は気づいていないふりをしていたのだ。
(もう、心配して損した!)
茜は美咲に騙されたと思い、ムッとした。その時、男が美咲に早足で近づいた。
「神無月さん、奇遇ですね、こんなところで出会うなんて」
男は美咲に声をかけた。
「あれれ?」
茜は男が美咲の知人だとわかり、拍子抜けした。
(あの人、国会議員の……)
以前、美咲にアプローチしようとした川本一郎だった。
「お久しぶりです、川本さん。お元気そうで何よりです」
美咲は営業スマイル全開で応じた。川本には何の恋愛感情もないのである。茜は川本が哀れになった。
(美咲さん、どちらかというと、あの強面刑事がお好みなんだよね)
強面刑事とは、「神無月教」の熱狂的な信者の所轄の刑事の皆村秀一の事だ。
「どちらへ行かれるのですか? 自分は地元へ挨拶回りに向かう途中なのですが」
川本は美咲の感情などお構いなしに距離を詰めていく。
(鋼のメンタルだな、あの議員さん)
茜は苦笑いをした。
「あら、川本さん、しばらくですね」
そこへ葵が戻って来た。川本はギョッとして、
「ああ、所長さんもご一緒でしたか? では、失礼」
ナンパは無理だと悟り、そそくさと自分の車へ走って行った。
「あの人、トイレに行くんじゃなかったのかな?」
葵はあからさまに自分が避けられたので、ご機嫌斜めだ。
「美咲、今は空いてるわよ」
葵はニンマリして美咲を見た。
「そ、そうですか」
美咲は恥ずかしそうに俯くと、トイレへ走った。
「まずいわ、茜」
葵は茜に近づくと、小声で言った。
「え? どういう事ですか?」
茜は葵を見た。葵は、
「尾けられてる。何者かはわからないけど、川本さん、私らの関係者だと思われたわよ」
「え?」
茜はギョッとして川本の車を見ようとしたが、すでにサービスエリアを出た後だった。
「あと五分だから、素早く出して来るのよ」
葵はミニバンへと歩き出した。
「あわわ!」
茜は慌ててトイレへ走った。
「こっちだ」
薫は新大阪駅を出ると、細い路地を進み、クネクネと曲がり続け、プレハブ小屋の前に出た。
(置いていかれたら、迷子になりそうだ)
篠原は不安に怯えながら、小屋に入った。
「尾けられていた。撒けたかどうかわからないが、取り敢えずここなら安全だ」
薫が言った。篠原は思わず口笛を吹いた。そこは表から見たのとは違う、ハイテクな室内だった。室温が上昇しそうな大きなコンピュータがあり、どこに仕掛けてあるのかわからないくらいの監視カメラの映像が十以上はあるモニターに多分割されて映っている。当然の事ながら、空調も万全で、篠原はやや汗ばんだジャージの袖を捲る必要はなかった。むしろ、ひんやりとしているのだ。
「天一族か?」
篠原は眉をひそめた。薫はフッと笑い、
「いや。連中ではない。恐らく、公安だ」
「公安?」
篠原は眉を吊り上げた。
「どっちだ? 調査庁か? 警察の公安か?」
篠原は天一族以上にやばい事になっていると思った。
(全国指名手配犯があれだけ堂々と街中を歩いていたんだからな。警察の方か?)
薫は篝と鑑が用意した椅子の一つに座ると、
「調査庁の方だ。我らはテロリストに認定されているからな」
鑑が差し出したペットボトルの炭酸飲料水を一口飲んだ。
「ああ、そうなんだ……」
俺はこの人達と行動を共にしているのを知られている。防衛省、クビかな? 篠原は妙な心配をした。
「姉さん、ここ」
モニターを見ていた篝が言った。
「撒けたようだな。見当違いの方を探している」
薫はモニターの一つに映っている黒尽くめの男達を見て呟いた。
「俺、まずくないか?」
篠原が薫に問いかけた。薫は篠原を見て、
「心配ない。お前はずっと養ってやる」
真顔で告げたので、
「あはは……」
篠原は引きつり笑いをした。
「ええと、トイレ行きたいんだけど」
篠原が言うと、
「お前、本当に忍びか? 十時間位我慢できないのか? さっき、駅で行っただろう?」
鑑が不機嫌そうに詰め寄って来た。
「仕方ない。この中にしろ」
薫が二リットルのペットボトルを差し出した。
「ええ!?」
篠原は目を見開いた。
「何だ、足りないのか?」
薫は事もなげに訊いた。篠原は苦笑いをして、
「足りなくはないと思うんだけど、人前でするのはちょっと……」
すると薫は、
「贅沢を言うな。お前のなど誰も見ないから、向こうを向いてしろ」
ムッとした顔になった。
「わかりました」
美人三人がいる部屋での放尿は篠原的には妙に興奮するものであったが、羞恥心の方が優っていたので、躊躇したのだが、漏らす方がもっと恥ずかしいと思い、仕方なく薫達に背を向けてペットボトルの中にした。
「くっさ! あんた、どこか悪いんじゃないの?」
鑑に罵られた。篝は何も言わずに鼻を摘んでいる。
「申し訳ない」
篠原は謝罪しながら、し終えた。
(監禁されていた時、水分をほとんど取れていない状態が続いていたから、駅のトイレに続いて、また濃いのが出たなあ。ちょっと心配)
篠原はキャップをしっかり閉めて、薫を見た。
「これ、どうすればいい?」
薫は立ち上がって背を向けると、
「喉が渇いたら、飲めばいい」
とんでもない事を返して来た。篝と鑑は声を殺して笑っていた。篠原は仕方なく、部屋の隅にペットボトルをそっと置いた。
「行くぞ」
薫はそんな事くらい自分で考えると言いたそうな雰囲気を醸し出しながら、プレハブ小屋を出て行った。
「はあ……」
篠原は大きな溜息と共に外へ出た。
「はい」
鑑が不機嫌そうな顔で篠原にウェットティッシュを渡した。
「汚いところを触った手で、あちこち触れられると嫌だから」
鑑は憎まれ口を利きながら、顔を赤らめていた。
(どうも、この三姉妹の感情が読めない)
篠原はありがたく受け取りながら、鑑の謎のリアクションに首を傾げた。
「何だ?」
元来た道を戻って行くと、途中で黒尽くめの男達が十人程倒れていた。
「死んでいる。外傷は一切ない。何故死んでいるのか、不明だ」
薫は医師免許を別の人間として取得しているので、男達の検死をした。
「どういう事だ? 毒殺か?」
篠原が尋ねた。
「いや、毒殺の兆候も見られない。窒息死でもない。これはもしかすると……」
薫は妹達に目配せすると、辺りを警戒した。
「尾けて来たのか、下衆?」
薫は路地の両側にある高いビルを見上げた。
「そうですよ。篠原護様は、我が一族の種馬です。お返しいただきませんとね」
その声は、無堂のものだった。
(あのヤロウ、ふざけやがって! この男達を殺したのは、奴なのか?)
篠原もビルを見上げた。無堂の得体の知れない能力を想像して、篠原は汗ばんだ。