真の魔物
羅刹の背中に突き刺さった薫の小刀は、その長さから致命傷に思えた。
(羅刹に止めを刺したの?)
それでも葵の警戒心は解けなかった。月一族の宗家の遺伝子が何かを感じているのだ。
(何? 何が起ころうとしているの?)
葵は動くを止めた羅刹をじっと見つめた。薫もまた、羅刹から飛び退くと、その静けさに違和感を覚えたのか、眉をひそめた。
「ふは……」
橋沢は羅刹の様子を見て、殺されてしまったと思ったのか、腰を抜かしている。辺りを静寂が包んでいった。橋沢も羅刹の死を確信し、逃げようとしたが、足がもつれて動けなかった。
「あわわ……」
薫に殺されると思い、橋沢は這ってその場から脱出しようと試みたが、それすらできない程、彼は身体が震えていた。
(来る!)
葵は羅刹の心臓の音が止まっていないのに気づき、身構えた。薫も同じく身構えた。
「がああ!」
羅刹は突然雄叫びと共に動いた。背中に突き刺さっていた小刀がその筋肉の躍動で飛び出し、床に転がった。
「何だと!?」
薫は目を見開いた。葵は呆気に取られた。
(何て事なの? こいつ、羅刹じゃない。もはや改造人間だ。殺人兵器?)
葵は薫を見て、
「薫、連携する!」
薫はチラッと葵を見て、
「わかった」
葵は薫が承知しないと思ったので、意外な反応に驚いた。薫は床に転がった小刀を拾うと、葵と共に羅刹の間合いから一旦離れた。羅刹はしばらく唸り声を上げていたが、
「ふああ!」
気合いと共に葵に向かった。
「くっ!」
葵はかろうじて羅刹の突進をかわすと、ハイキックを首の後ろに見舞った。薫は羅刹が葵の攻撃で一瞬よろけたのを見逃さず、足元へ飛び込むと、アキレス腱を小刀で斬った。
「ふお!」
羅刹は薫に対して右腕を振り回すと、第二撃を阻止して、薫に掴みかかった。
「だあ!」
薫は羅刹の右腕に小刀を突き立てたが、羅刹が止まらず、薫の顔面を手で掴んだ。
「クハッ!」
薫は呻いたが、小刀を抜いてもう一度右腕を刺した。
「薫!」
葵が援護に入り、羅刹の後頭部にトウキックを叩き込んだ。それでも羅刹は薫の顔を掴んだままである。
「あああ……」
ミシッという音がした。薫の顔から血が流れた。頬骨が折れかかっているのを悟った薫は両脚で羅刹の右腕を締め上げた。
「この化け物め!」
薫は羅刹の右腕を肘から折った。
「があ!」
羅刹はそこでようやく薫の顔を離し、後退った。
「はあ!」
この期を逃さず、葵は畳みかけた。キックの連続で、羅刹の負傷した右腕を攻め立てた。普段ならそんな戦法は決して取らないのが葵であるが、今はそんな事にこだわっている場合ではないと判断したのだ。
(足首の血が止まっている?)
薫は羅刹の異常な回復力にギョッとしていた。
(腱が切れたはずなのに、足を動かしている。これは一体?)
いつもはほとんど表情を変えない薫が焦りの色を見せた。葵も呼吸が乱れる程動揺していた。
(薫は確実にアキレス腱を斬ったはず。でも、こいつはすでに回復している……)
月と星の最高峰の二人が唖然とする程、羅刹は人間離れしていた。
「よし、いいぞ! 殺せ! 殺してしまえ!」
狼狽えていた橋沢が羅刹を煽った。葵は橋沢の調子の良さに腹が立ったが、今は橋沢に気を取られている余裕はなかった。
(羅刹の弱点……。天音姉さんか小夜さんがいてくれれば……)
葵は自分の読みの甘さを悔いた。しかし、どうなるものでもない。
「そうなんです。橋沢元首相がすでに羅刹の実用化をしていて、葵お姉さんと薫お姉さんが苦戦しているんです」
そんな葵の悔いを読み取ったかのように、美咲が天音に連絡していた。
「羅刹はそんな簡単に生み出せるものではないはず。それは羅刹に似せた別の人間かも知れないわ。対羅刹ではなく、考えを変えて戦った方がいいと思います」
天音のアドバイスは美咲には衝撃的だった。
「でも、羅刹の気を放っているんです。もしかすると、炎堂が羅刹の応用を考えたのは、ずっと以前だったのかも知れません」
美咲は自分の考えを言ってみた。天音はしばらく黙っていたが、
「羅刹の気を放っていたのだとすれば、羅刹なのだろけど……。母と話してみます。少し待ってください」
天音は通話を保留した。
(間に合うかしら?)
美咲は不安そうな顔の茜と顔を見合わせた。
「そうなんだよ。その殺人兵器がロシアに伝わっているようなんだ。お前の方で、何か掴んでいないか?」
一方、篠原も茜からの連絡で、葵と薫の危機を知り、情報本部の同僚達に次々に連絡を取っていた。
「これは地球規模の危機なんだよ。日本だけに止まらないんだ。そんな化け物が大量生産されて、世界中の紛争地域に送り込まれたら、想像を絶する事態になりかねないんだ。とにかく、あらゆる方面の伝手を辿ってくれ。頼む」
篠原は汗まみれで通話を終えた。
(俺の想定の遥か上をいく展開だよ。とんでもないぞ)
篠原は橋沢の身勝手さに絶望しかけていた。
(あのヤロウ、ボコボコにしてやりたい!)
篠原は橋沢への怒りで体を震わせた。
「はあ、はあ……」
葵と薫は疲労のピークに達していた。肩で息をするなど、どれ程の鍛錬でも経験した事がない二人であったが、羅刹と思しき男の強さに心が折れかけていた。
(鬼の行をこれ程長く使った事はない。どんな反動があるかもわからない……)
今までの鍛錬で、最長で一時間。それ以上は未知の領域で、身体がどうなってしまうのかもわからない。
「姉上、大丈夫なのか?」
薫も鬼の行がどのようなものなのか身をもって知っているので、葵を気遣った。
「あんたに心配されるとはね」
葵は苦笑いをした。
「ここで姉上に倒れられたら、私も保たないからな」
薫は羅刹の牽制しながら応じた。その時、羅刹に向かって幾本もの鉄の棒が飛来した。
「があ!」
羅刹はそれを負傷している右腕で叩き落とした。すると次に高級車のドアが飛んで来た。
「美咲?」
葵はそんな事をできる人間を一人しか知らない。
「うがあ!」
羅刹はそれを叩き落とそうとしたが、次々に飛んできるので、防ぎ切れず、顔面に受けてしまった。
「がああ!」
顔が切れ、血飛沫が上がって、羅刹は仰向けに倒れた。
「寝ていろ!」
美咲は次に高級車の車体を羅刹に投げつけた。
「美咲、やり過ぎ!」
葵は流石に羅刹が死んでしまうと思ったが、高級車の車体はすでに羅刹にのしかかっていた。
「はがあ!」
ところが、羅刹は両腕でそれを受け止め、払い退けてしまった。美咲の攻撃はそれでも終わらない。次に飛んで来たのは、庭にあった石灯籠だった。バラバラにされた石灯籠がパーツごとに飛んで来て、羅刹に当たった。
「あが、ぐが!」
大きなものなら受け止められるが、細かくされた石灯籠が間髪入れずに飛んで来るので、羅刹は防ぎ切れず、また顔面に石を受けてしまい、倒れた。
「美咲、ありがとう、もういいわ!」
葵は薫と目配せして、倒れた羅刹に飛びかかった。二人で羅刹に馬乗りになり、顔面と腹部を殴打した。
「いい加減、眠りなさいよ!」
葵は羅刹の顔面を連打した。薫は羅刹の腹部を連打した。
「ぐがあ!」
羅刹は葵と薫を跳ね飛ばすと飛び起きた。
「くっ!」
葵と薫は受け身を取って立ち上がると、羅刹から飛び退いた。羅刹は折れたはずの右腕を回復させ、腫れ上がった顔面も治癒していた。腹部だけがまだ治り切っていないのがわかった。
「まだダメみたいですね」
美咲も無理をしたのか、息を切らせている。茜が支えていなければ、倒れてしまいそうだった。
「天音姉さんからは何か教わったの?」
葵は羅刹を睨んだままで尋ねた。薫も岬に目だけを向けていた。
「もうすぐ着くそうです」
美咲からの返事は予想外だった。
「天音姉さんが?」
葵と薫は目を見開いて美咲に顔を向けた。