その四
さて、これでしばらくお見舞い出来るものはございません。来週は故郷で釣りです。自然と触れ合います。文章なんか書いちゃいられません。
ペルソナ買っちゃおうっかなぁ。
「なんだ、こいつは何だ」
私がそう口にすると雷鳴のような自然物の大なる音が空間へと響き渡り、それが容易に車内を貫いて届いて来た。
《お手付きだっ!!》
それは、雷鳴がしゃべった、としか私には言い得ようのない大音声であった。雷の鳴りというもののただその名に示されている通りに、天空から轟いて来たのではそれはなかった。お、と発音は轟き、て、と発音は轟きして、全体その発声は、おてつきだっ、と轟き諌めたのである。私はすかさず空を見上げ、私を咎めた者の姿を見ようとした。白い雪の膨らんだ円が、ほのぼのと蛍光をする霊的な充ち足りを思わせる夜空がそこだ。そこに印のようにひび入った亀裂から光の靄が溢れている。顕現していない、と思われた。第三者審級はそこに、この地を底寒くする高い夜空に於いて彼の姿を現してはいないのだった。或いは見る者の私であるという認識の視座からはそれは、彼は、そこにとうに現れていたのだとしても、あのような広大な亀裂以外のものより外には知覚をせざるものなのかもしれない。もしそうであるのなら、いや否むにそうであろうともなかろうとも、どうでも私の理解が及ぶようなところではそこはない。雷鳴であるとしか言いようのない声量の声が空から喋ったのである。ただ事実がこうであるというだけのことでも、私がそれで萎縮をしてしまうのには充分な深刻さを事態は蔵している。私はまるで年若いバナナのように緑色に青ざめていたのに違いない。やむを得ず身体の芯から震え出していたのだとても、やむを得ず、誰も彼も明らかに自身へと狙い澄ましている雷に対しては、子犬のように居竦んでしまうよりは仕方がない。そう、例えば雷の明らかに私へと落ちかかろうとしているその意思を私が感じているのだとすれば、この言に曰くをする困難を持った恐怖のこともそれで誰にとっても想像のし易くなったことだろう。
「うんち」
と、小僧は言うと眼を剥いて笑う。答えたのである。私は冷や汗をかいている。何故なら、今以前の私の反応が都合三回目のお手付きだったのだと、彼が言い出しかねなかったのだからだ。しかし、そうではなかった。そうではなかったのだと思う。私は未だ、無事である。
「う、うんこ」
《お手付きだっ!!》
雷鳴が轟いた。先よりも近いところを落ちた雷の音が声だった。私はフロントガラスへと四つ這いにしがみついている虫のような小鬼、であるかのような小僧の脇から覗き込んで空を見た。すると、光溢れ出す亀裂が大空を傾いで彼の方でもこちらを覗き込んでいるかのように私には見えたのだった。だが先ず良い。良いことは、空に有り得ぬという形をして広大にひび入った亀裂が傾いでいる、というまた新たに為された活動の、その有り得ぬような不可思議さに就いてをば先ずは措いて、ということだ。それではそれは先ずは措いて、私は、どこがお手付きだ、と眼を丸くしているのである。これは先ずぜったいに良くない。うんこ、と言ったのは初めてだ、と私は抗議しく思った。小僧とでした、あたまとりにまで遡ってみても、私は、うんこ、とは言わなかったのだと思う。それに仮に遡ってされる記憶の誤りに私が陥ってしまっているのだとしても、もしそうであるのなら、先の雷鳴に告げられたお手付きを以て私のそれは三回目となるはずで、そうなら既に、あたまとられ、で私の頭はあるはずである、という訳はつまり、私の頭は既にない、はずであるがしかし、必ずある、と私は思って触れてみるとすると、そうして頭は必ず在るのだから、以前の、あたまとり、の内容は無論参照をされてなどはいないのであろう、そのはずである、ということである。ある、ということは様々ながらに今、どうでも恐らくは事実として現前をしている、ある、ものとは、進退窮まりそうな、あたまとられ、の瀬戸際に追い詰められた自分自身なのであろう。冷や汗の滲んで来ている全身が、それ相応にして冷えている。嘔吐のように迸る、首からの私のひじきを私はふと想像してみる。それは想像の出来るものだが、想像された通りのことが身に本当に降りかかって来るものであるのならば、果たしてその時に想像は潰えていよう。つまり私は、私の死を想像するばかりなのだ。
死を。
後には何も残らない、まっさらな、生の終着点を。誰しもが一度ならずも自身へと問いかけざるを得ないであろう、しかしどれだけ問うても問うその度に既に判り切ってしまっているという、必ずの答えを。誰しもが必ず辿り着いてしまわれる凡庸な閉ざされ方を。必ず、必ず、必ず。必ずであるものは凡庸である。凡庸であるものとは死だ。或いはそれは死の上には有り得ないその先だ。死の正にその瞬間にまで時を引き連れて来た各々の生は、余りにも非凡である。
非凡であるものは各々の生であるということが目前に巻き起こっているのだ。私は眼を見張った。もう、この旅路は以前のように退屈なものではなかった。冬を終えている。青ざめた生のように煌々と光っていた散雪は、更に細かく散り散りとなって、今や失せた。春だ。初めての春だ。花吹雪くような桃色の風がしかし、そうして見る間に夏めいた飛沫へと変じた。それら一つ一つの水粒の中にたゆたうような鯨の群れが鳴いている。車の中が鯨の中だ、と思われるような空洞の音が、直ちに秋の濡れ落ち葉へと浸って行った。ひび割れた落ち葉の絨毯を踏みしきる回転のタイヤが、ひもじく掠れた音を次第に変えて、凍結上を滑る怪しい摩擦音を立て始めた。またもや冬の入り口へ私は運ばれて来たのだ。
そうして私は、今、母が死んだ、と思った。巡る季節は今、驚くほどの速度をして一巡した新しい冬である。それなら母は死んでしまった。この車はでたらめなほどに加速をしたのだ。巡り行くその内にもう、母は耐えることをとうに終えていたであろう。直感は私のことをそうして、浅ましいような心の底にまで踏みしだいた。私は間に合わなかったのだ。時は時とて、しかし道は道であるのだからと私は無我夢中で振り返る。引き返すのだ、と、思われる心が、決して引き返すことをなど為し得ない時の道の、通りすがった秋へと向けて、一生懸命に差し向いた。秋を越え、夏を、春を越えることをして、あの冬へと、いや否むにあの夏へとまで私は、一目散に駆け込んで、戻って行きたい。
全く初めて、私は振り返ったのである。助手席から腰ごとに身を捻らせて、そうして振り向いて見たリアウインドウの先に外界を見出だした私は、そこで又遥か遠くにまで伸び行ったひじきの、まるでほかほかとした煙のような轍を発見した。そこに秋はなかった。そこにない秋はひじきの黒い靄の隅々にまで情報化をされている。秋はない。秋だったものさえ後方にはない。あるものは秋だったあの秋の情報群だけである。それがひじきである。私の思い出。私の、いや、
(否むに)
それは違う。私の思い出、であるばかりではないひじきが、轍の形を成している。或いはその轍が、私のものではない、母の思い出を、ひじきの上に成している。母の思い出。何故、母の思い出が。私は眼を凝らしたが意味はないと直ちに悟った。ひじきを見ている眼は疎くとも、ひじきの上に母の思い出を直視している心身であろうものは冴えている。それが見ている。嗅いでさえいるのかもしれない。現にあることのあり得ぬと思われることばかりであることは、旧来からの現世信仰を裏切る事実であろう。私はそうして母の凡的にも命がけであったはずのその生の実態から、何よりもそれが母のものであると判ってしまったその直感の為にこそ、旧来のものを捨て去り、又新たなる信仰をすることを始めなければならなくなっていたのだ。
私はようやく振り向いた。それから運転席の時の神を見つめた。長く見つめていた。私は恐らくはまたもや新しい冬を迎えていたのに違いない。いや否むに無論、私だけのことではそれはない。恐らくは私以外の全ての生存するものらが、ただ一人孤独と思われるこの走行の内に、幾度もの新しい冬を迎えているのだ。例えば彼らの迎える季節の一部に生き永らえて来た私の走行が、しかし風舞う雪片のように彼らの鼻先を掠め去って行く。私はそのような季節の空間に於ける一部なのであり、且つも連綿と伝わって来たのであるこの季節の道行きの一部なのでもある。決して誰とも交わらないという孤独の、私だけのものなのであるはずの走行が実は、一つの帯のように生きる私たち、父であり、母である、そうして祖父母から更に遠く遡って行く先々に道行き見えるであろう祖先らの、たった一つ永らえた時間、の更に一つのものに他ならなかった、のであるという事実の先に、未来をくすませている新しい時間が、つまりは今しも隣にあって私を乗せて走らせている彼の運転手、それの望んでいることが、うまれたい、という欲望であるのならば、私はどのようにその期待へと応えることが出来るというのであろうか。
(うみたい、という意思だろう)
このような簡単な設問に好意を寄せて応えるのならば、事実、胸に言われることはただそれだけだ。しかし肝心なことは、そのようにして好意を寄せ切ることのし難さが先ず、私にとって必ずあるのだという事実だ。時間は望んでいる。新しい彼の謂わば中身を。その中身とは即ち、私の子供なのである。この運転手に正体というものは無いと判った。何故ならば彼は未だ生まれてはいないのだからだ。私が私として生み出すより他ないのであるその生産に、運転手である新しい時の神はただ委ねているという虚ろである。その可能性であるばかりの時間の、底暗い器の内に私の吐精は待たれていた。しかし、虚ろというものは必ず虚ろであるより他にない。彼が懐へと収めたいのである実態は、それが私の子供であったのだとしても、そうして収まった私の子供が、うまれたい、のである私の子供であるのだとは限らない。むしろ彼らは、うまれたい、のでは必ずないのだ。私はこの意識の下にそう結論付けるより他、仕方がないのではないか。
(うみたくはない)
私は思った。かねてから、ふとした拍子に返す返すも思われて来たそのことが、しかし今しがたはいくらか意識的に、念押しをするように私に思われる。一方で一繋ぎの長い時間、かつてから私へと必ず切れ目のなく続いて来たのである一繋ぎの長い生存、それぞれの個別肉体にたゆたう帯状の、長大なその時間は望んでいる。彼の運転手という未だそこに在りはしない時間は、そこに在り得るのだという可能性の為に待ち望んでいる。これが私という個であるだけのものの走行を駆り立てて来たのである意思の大勢であったのならば。そう、私は今やそのように思わないのではない。意味の上に照らし出されないというただ虚ろであるというだけの時間の内に、その意思をそれでも見出だそうとするのであれば、それは限りのない延長である。母は祖母として私の子を望むだろう。父も又祖父として私の子を望むかもしれない。私の祖父母であるのならば殆んど無条件にして彼らは生まれ来る我が子をふくよかな彼らの胸に抱いて可愛がってくれたのに違いない。しかし個別の彼らの思いなどは限りのない延長という時間の大いなる意思の下にあっては無いものと同等である。恰かも地球を見る気象衛星の眼に一つ一つの小さな我々が決して見ては取られないというスケール位相の差違のようにして、個々人の思惑は時間の虚ろに塗り潰されるばかりである。であるのならば、であるのならば、
(私が何を思おうと意味のないことだ)
そのはずである。塗り潰された意思に過ぎない私が、何を思おうとも。
《さん》
雷鳴のような声が轟いた。私は外を見た。フロントガラスへと貼り付いて居っ放しの小僧が覗き込んでいる。彼の映じようはずもない私の姿を、確かに映じて居などはしていない濃い黒い眼が私を捉え続けている。それを空虚と思えば、空虚に見える。しかし案じているのだというふうに見ることも出来る眼差しが、以前よりも深く私へと差し込んで来ているというような気もがするのだ。二つは相異なっているはずなのだが、私は気の持ち様で見え方の異なる当の対象の、二つと別れたその見え方の何れであるのかという真実如何の憶測に因って、掛かる気の持ち様ということを反って左右されているのかも知れない。
《にい》
にい、と言うのなら、次は、いち、だ。カウントダウンである。ぜろ、と雷鳴の声が轟き宣ったその時、私のあたまは取られてしまう。私は迫り来る断罪に身を細めて、決することの我が力の無さに堪え難いものを思う。それでも何れか、言わなければならない。それは保身であるのかもしれない、あたまを守る為の咄嗟の反応なのかもしれない、しかし嘘であってはならないのだと思う。我が子である者の肉体に引き連れられる依り代のような時に、或いは逆転をして、彼の方が我が子を依り代とするのかもしれない、というそうした新しい時に対して、彼と先端で向き合うのである私が真正直にものを言うのでなければ、それは彼にすまない。
(うみたいか、うみたくないか、だ)
二択であった。
《いちぃぃぃ》
(ずいぶんと嬉しそうにしている第三者審級ではないか。こんなに人を追い詰めて嬉しそうにするという第三者の審判、というものをなど、それが第三者の審判的でまるでないという点で結局は、このお遊び全体が要するにいかがわしく、要するにこれは、やはりただ単にお遊びに過ぎないものなのである、というところへ全体は帰結をする、そうだ、いいや、考えてみれば、これが答えが二択であるなどというそんな回答幅の狭まり方は、そんなはずはないだろうが。これは、こんなものに誠意を尽くしていられるものかよ、それで唾棄するという一択で、俺の回答は)
二択であるはずがない。そうして、
「うこん!」
と、私が言ったその時だった、
《お手付きだぁぁぁっ!!》
と、第三者審級の叫んだのは!
それから私は、ぎょっとしている胸をままに、頭の内を方々巡らした。何も判らぬ。判ろうものなど何一つないと思われる。第三者審級は何と言ったのか。無論、お手付きだ、と言ったのである。叫んだのである。それは判る。それが判るのだからこそ、私には何も判らないのだ。うこん、がお手付きであるのだと言う。叫ぶ。轟いた。しかし私は、うこん、と初めて言ったのである。それなら何処をどうすれば、これでこの回答がお手付きとなってしまわれるのであろうか。いや否み、
「何故だ、馬鹿めが」
私は言った。見上げてみる亀裂の覗き返した傾きに、卑劣な笑みを私は見つける。あの一際ひび入った空の大きな横断に、十字に交えた一本の目覚ましい電撃に、私は第三者審級の嗜虐するその嬉々とした表情を目の当たりにする。大きい、巨大である、これほどに空を張り巡る広大とあっては必ず図り知られぬという図体をしたそれは、しかし小僧の如く満面に笑んでいるのであるということが私には直ちに判る。即ち、第三者審級は彼の、小僧の明らかなる同類であった。私は、傾いでいる空の亀裂の後背からが捻れ、従って空であるものそれ自体が私のことを覗き込もうとして傾いでいるという幻惑に囚われ、その眩暈的なスペクタクルに猛烈な吐き気を催した。たとえ現に座って居るのだとしても、とてもこれを見ては立ち通しては居られないというふらつきに襲われて私は、現に座って居るというそのことを全く忘れて、強かに確かに、そうして最も深くにまで墜落をして座り込みたいというような脱力状態となった。尻から沈んで行きたいという気がするのにも関わらず、周囲を滲んで来る視界の暗転に重たげとなった頭の方から、私は限りのない底の方へと沈没をして行った。
「なにが、だ。なにが、おてつき、だ」
言葉も又、喉の奥からモザイクのような吐息としてどうにか漏れ出して来るばかりの喘ぎに今は過ぎない。私の指が窓へと貼り付いた。少しずつずり落ちて行く指腹の指紋が、そこを白い汚れに霞ませるのだろう。私は手提げ提灯のように垂れ落とした首をドアへと擦り付けると、死ぬほどドアを開かして欲しい、と死ぬほどに願った。喉の奥、そこでくるくると空気を孕んだ何ものかが回転をしているように感じた。窓だけでも良い、と感じる。それだから窓だけでも開いてくれ、と心から願った。私の何処へも繋がることの出来ずにダッシュボードへと投げ出された腕から下方を、黒く伸び合って居るひじき同士の握手が、そこで微妙に脈動をしているのを頬に感じ取る。未来へ向かうものはそれだけだ。私は沈没をして行く。ただ落ち窪んで行くだけである生命の一穴が私の所在地だ。頭が、あたまがあなに落ちる、或いは、あたまにあなが空くのか、鉛のようになったそれが、首からぽつりと溢れ落ちてしまわれそうだ、或いは指に摘まんだ葡萄の実の一粒のようにして、渋たらしい面のその皮を全面ぷくりと剥かれてしまうのだ。しかし、それならもうそうなってしまうのでも良いのだと私は強く思う。観念をするのではないのであって、乱暴に打ちやり、棄却し去ってしまいたいのである私はつまり酔っている。車酔いである。あたまを取られるということが、こんなにも車酔いと同じ症状を人へともたらすものだとは思わなかった。吐いてしまいたい、のである身体の不調が恨めしい、のである私は勿論吐いてしまいたい、のでは心の底から無い、のであるのだから、心身の反り合わぬこの反目こそはそれが生理現象というものの本質なのである、という偏向的な観点に則って本当にそのことが疎ましいのであるのだと私には感じられている。今は昔に読んだ詩の、詩人である某が私の内の、眠れる何処からか微睡みのその目を一息に覚ましめて詠うのであるのならばそれは、哀しみの底より深いもの、とこう詠うのである。私は見出だした。哀しみよりももっと底深いものに私は取り包まれ、そこに墜落をし、受胎させた。受胎、を、させた。しかし取り包む子包みへと私の受胎せしめた当のものとは、如何にも私自身、それそのものであるのだと言うより外にない。見上げている空が、見上げられている空であるのだと直ちに判るのであれば、私はいつの間にか空を見上げていたということがこの際に必ずである。いつの間にか、私は子包みのその中身であったのだった。
様相は春である。風のように吹き込んで来る日差しが頬に豊満である。空は青く、真っ透明の昼。私を揺らしている子包みが、目前の枝葉の淡い茂みに列れて、きゅっきゅっ、と鳴っている。静かだ。それが時に鳴っているというだけのことで、無垢らしい静けさは辺りに自ずと奏ぜられている。私は音符である。白い子包みに取り包まれているのである以上、又且つ、それが桜の枝に紐通しで垂れ下がっているのである以上、音符である私は恐らくは二分音符なのである。私は自分の音を知りたいと望むのである私だ。その以上、私は自分の音を知る為に、この喉を鳴らそうとしてみるのである私だ。私は試みる。湯葉でも貼り付いているかのような閉ざされた喉が、そこから思うようには動かない。手を伸ばした。伸ばされた手が見えている。子包みの内にある手なのだからそれは赤子のほどに小さな手をしているのだろうと私は思う。予めそのように思うことがしかし、目前に掲げている自らの手のそのなりに因って直ちに否定をされる。見飽きた指の短な手の甲が誰をかくすぐりかけようとしているかのように筋張っている。点入する光にそこだけが包まれているのだから相当暖かい。包みから飛び出でて、そのまま宙を泳いで行かれそうである。そんな私の手の甲だ。すぽん、と。
えぐぅ、と泣いた。それはシの音だった。私は首を懸命に起こしやって、泣いた何者かを確認しようとした。しかしそれが出来ないまま次いではミの音を聞いた。泣き声は、ほえぃ、だった。やがて方々から泣き声がし出して、それらは思い思いの産声仕方から、数限りある音階の層を空間へと敷き詰めた。二分音符らが私だけではないことは、先刻から私の個人的な幻想のその為にもつとに承知をされていたことだった。私は子包みの内側からでは見ようもない外に、一様宙吊りとなった私たち子包みの一つ一つの温かな膨らみに就いてを内に思い描いてみた。内に。頭の内に、と私は感覚したいはずだった。ところが頭のあの静かな場所にだけ限りなくある形象は、それを思い描く間も無く肌身に表れて来るというような奇妙な感覚へと取って変わった。私は思い描こうとしてみたことを頭の内へと像を結ぶことで見ているのではなく、外部へと結ばれたその像に肌から触れたのだと判った。その接触は余りにも率直で、肌は触れ合う自分自身であるかのように互いに私のものなのである。例えば触れている私は、桜の幹であり、枝であり、無数の子包みでも同時にあった。それらの押し並べて既に、私の行きずりである幻想に過ぎないものなのであるのだとは判っていたのだから、あたまのない現今にあって触れることでそれと判るというその先に結局、私自身の肌合いを自ら知るというその結果の訪れたことは必然だった。触れ合っている私たちが、ただ一つの私であるのだという個としての定まり方のその延長線上に、それでもやはり私たち、別々の、大勢な何ものかたちであるのだということもが事実、感覚の上に重複して受け止められてしまっている。或いは既にそのように、表現をされてしまっている。桜の形をとり、純白の子包みの形をとり、延いては青い空さえもがそれへと触れ得れば、私の成さした形に過ぎぬもの、しかし成さしめたその以上、私では必ず無いのである青い空そのもの、であるのだと私は知ることが出来るのであろう。
(もう少し、もう少し)
手を伸ばしている。今まさに生まれたばかりであるのだと空想をされていた子包みの中身が、死に臨して尚も生へ執着する病める身のように、無力なその腕を伸ばしやる。本当に私は、腕からすぽん、と願ってみるのだ。暖かな日の光を浴びたこの手だけでも、空までもが私のものなのかどうかを知るというその為に、飛んで行って欲しいものである。とそう思ってみると、この手とは実は鳥だと私には思われた。そうして鳥ならばと思うのである私から手へと欲動を手向け、すると手はぱたぱたと羽ばたく真似をし出した。飛ぶだろう、と私は予測をした。予測をしたその通りに手は腕から飛び立った。鳥だと信じた手はしかし蝶のように春風に煽りを受け、複雑な軌道をさして宙を舞い出した。
見える。見える。だがしかし感じるのである。無数の枝葉に括り付けた子包みのその無数、それでもしなだれさせずに屹立し通している大きな、いや否むにそれは巨大なのである桜の幹、いや、こと更に否むに、こればかりはもう桜の幹であるというだけのものではない、これは空の亀裂である。従って第三者審級である。小僧曰く第三者審級のその名はベトゥウリ・ナサタヌゥートゥ・ペングリオリオーである。それだ、と私は思い知った。今の彼は、私に自ら奉納をされて奉られた、桜のその内に於ける最もまさしくの桜であるという、一本の王なのに違いない。霊性とはその名ばかりに顕れて来るものだとて、霊性と呼ばわれる当のものの物質的姿は常に、霊性のその名ばかりに顕れて来るものへの及びも付かれぬ浅ましい姿であるより外にない。だがしかし、この屹立をしたるも仄かの存在性から物理的の存在それこそが反って滲み出して来るのであるかのような桜の王は、実に霊性ということだけを掛け値のなく彼の全てとしていられる真の霊体であるのだと私には判る。ここに生誕がある。ここだけに生誕の全てがある。ありとあらゆる生まれ出ずるものの全てはこの桜の王に基づいている。全ての父であり、母であるのだと信じる。即ち桜の王は、未だかつて何ものに因っても歩まれぬという未然の時を幹とし枝葉とし、子包みとしている。時とは存在に因って引き摺られて行くものなのではなかった。時とは、時というそれ自体を虚ろとして、何ものかであるという存在の為に常に歩まれることを用意しているものだった。それがこの莫大の桜の王の権限なのであり、異能なのであり、本能なのだった。私の蝶である手の羽ばたきが王の香る空気を叩き付けるその度に、私は続々と知り行くのである。
「産まねばならない。我が子のものである虚ろなる時間は、私がそれをするのを待っているのだ。だから、あたまとりの正答とはこうだった。うみたい。うまねばならない。虚ろなる時間に求められる、存在の生という内容の為に」
私の手である蝶は、桜の王の遥かな屹立の傍で、際限のなく昇って行く。昇り詰めて行く。春の限界へまで空を行く蝶の目前は、ただ青々と透き通るその一面である。その空もが私自身であるのだと信じて良い。私は父であり母であり、私は私の子なのである。私たちは常に誰かの続きなのであり、しかし続かせて行こうという意思を持つのでなければならない常なる一つの終わりなのである。終わりの無い個というものの有り得ぬというこの世界に於いて、継がせ、継いで行くという連綿たる我々は、個ということの避け得がたい死の故に恰かも永遠を覗き見ているのだ。
ひた上向かせ昇って行かれる蝶の下から、産声は次々と上がり始めた。生誕は止まず。今日も今日とて、新しい時間に存在は滑り込んで行くのである。
昇る、昇る、昇って行かれる。
産声は様々な拍手であった。私は感極まれる祝辞の只中で、青空へと激しく射精した。
車に乗っている。車上の人である。車中の人とも言うだろう。
「なにが、どうなった」
私は言うのである。私は蝶に成って、大空へ向かった。覚えている。また蝶に成ったのであるよりも以前、私は子包みの内にくるまれていた。王である桜の幹と、多種多様な産声。そうして、またそれよりも更に以前、私は、
「あたまを取られた。そうだったよな」
私はそう言いながら顎を触り、唇に触れ、額を撫で回した。取られてしまったのであるあたまは今やすっかりと元通りである。私は首を上げてバックミラーへと自らを映した。顔だ。私の、もう若くはない、泥棒のような無精髭の顔だ。それと、もう一つ。まるでバグのように小僧の姿が映り込んでいる。
「おじさん、どうだった」
「あたまを取ったな」
「取ったよ、どうだった」
「射精した」
私は素直に言った。小僧ぐらいの年頃に射精の意味が通じるとは思われない。だが小僧はくつくつと嫌らしく笑っているので、きっと射精の意味は判っている。
「おじさんな、産みたいと思ったぞ」
「そう」
「でもな、おじさん、相手がいないもんだから。つい出しちゃっただけだぞ」
と言うと小僧は更にけたけたと笑い出して彼の張り付いているリアバンパーを数回叩いた。まるでこいつは猿だな、と私は思った。
「ねえ、早く相手を見つけなよ」
「うむ」
「それでちゃんと彼の時間を埋めてあげなよ」
「うむ」
小僧は薄気味の悪い謎めいた軟体動物のように車の外側を移動すると、運転手を指さした。私を乗せているのであるもの。私を先導するのであるもの。それは我が子に持たれ得る時間なのである。彼は、私にとっての我が子という可能性なのである。私たちを引き継いで行く新しい命の受け皿なのである。
「こんな可能性の下に、我々は一人きりではないということか」
車は進んで行く。私だけを乗せて。私は私という個を乗り越えては行かれないのだ。それは誰しもがそうだ。にも関わらず、私は私ばかりでないものを産み出すという能力を持している。その意味で、個の個々であるというような境界線などはまやかしである。
この隔絶をされた車中に、私のみならぬまた別の個の可能性をも人々は有している。それなら誰しも孤独で居られるものではない。孤独もまた、子を為す可能性というそのところの為にまやかしなのである。
「しかし、相手がいない。こうして車に乗っていたって対向車か何か、走って来てくれるのでなければ。まず出会いが無いのだ。出会いがないのなら、ドッキングがし得ない」
「ドッキング」
と私が笑わしてやろうとして言えばその通りに笑ってしまわれる小僧である。彼は車外に生え延びるだけ生え延びている一帯と同様に草を生やしているのである。このようなことの滑稽さというのも実に不思議なものだ。
「ねえ、相手を探しなよ」
「判っている。だから眼を細めている」
そうして細めた眼の視界へ無理矢理に入って来る小僧が鬱陶しい。
「見えん」
「おじさん」
「お前で見えん。これでは見逃す」
「おじさん」
「なんだ」
すると小僧がこう言った。
「車から降りなきゃ、相手は見つかりっこないよ。この道中はおじさんだけの人生でしょう。おじさんにだけに歩まれている時間なんでしょう。そこに他者は現れない。現れるものは他者であるものの可能性だけさ」
「それなら、どうする。降りたら死ぬと言ったのはお前だ、小僧。そして私は、降りたら死ぬということの意味をもうしっかりと判ってしまっている」
「そうだけれど、おじさんはひどく降りまいとしているから。この車にはもちろん乗り続ける。だけれど一方で、この車から降りるんじゃなきゃダメってこと。ドアにハンドルもないって。そんな車がある訳ないじゃない。おじさんがそうしたがっている、決して降りたくはないと、そう思っているというだけなのさ。頑ななのは車じゃない。おじさんの方だね」
うむ、と私は頷いた。そうなのかもしれない。私は私という個にだけに敷かれている道のりを孤独にやり過ごしたいというだけだったのかも知れぬ。
「孤独ばかりを感じる必要はないのだ。確かに作文は孤独だ。ただ今有る限りの自身内情を以てして、それを吐露しようという作業はあくまでも掛かる自身にばかり着目をして、そこからは一向に抜け出されないのである、時にそれは罠だ。私は一人、我が人生という車中に於いて、それの表したる限りの意味に於いて、孤独を生きている。だが、必ずしも私は、それの表したる限りの意味に於いてだけ、この人生を送るのではない。車上は車上だ、それは孤独の旅だ。皆の孤独だ。私の判ったこととは、このような個としての人生という孤独の内にあってさえ生きるものは生かしめる別個の生誕の行方を握り、彼の生で埋め尽くされよう新たな時間を与え得るという、或いは孤独それ自体に因る孤独への裏切りのような、その可能性だ」
「そう。なら降りなきゃならない。手放さなければ」
「この文章を終えなければならない」
そう。ならそうしてよ、と小僧は言った。私は何時だってこの文章を終えることの出来るのだと判って居りながら、どうにもきっかけを掴めずにいて、それを難しいと感じる。
気の効いた終わり方でなければなるまい。私は、ドアハンドルの本来ならば有るその辺りを何度となく見てみたが、やはり決して無いのである。頑なであるものの私であるのならば、私自身にさえ度しがたく頑なであるというのが私というものである。しかし一方でもし、私が私だけではないのだとしたら。私を織り成すはずのものの常に、私ばかりなのではないのだとしたら。常に私に因って産み出されるのかもしれない他者を含み得るのが私というものであるのだとしたら。そうであるのならまた、彼でもある私は私の思いも寄らぬやり方で、私でもある彼のことを出し抜くことの出来るはずである。そうしてそのやり方は、
「いや、すまん。実はもう端から決まっていたのだ。このように終えるだろうという当初からの目論見の通りに、私はこれを終えようと思う」
「どうすんの」
期待に輝かしい小僧の眼はまん丸い。
さて、私は思い切り屁をこいた。
ぶおぅんっ。
するとサイドウィンドウが下り始めた。
フロントガラスに張り付いていた小僧は、鼻を摘まみながら何とも不潔そうな顔をさせている。私は、がっはっは、と笑った。
これで彼の顔もしばしの見納めである。
よく全て読めましたね。すごいです。読むことは本当に才能ですから。あなたは得難く、偉い!今年も良いことありますよ。その調子で、望んだり望まなかったりしていきましょう。