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その三

いつか人は死ぬだろう。深刻なことではない。ありふれたことだ。しかし、死後の世界についてはありふれた空想があるというだけである。このことは深刻に、我々の知の限界を指し示している。


だけれどそれが、何だ。

 ひじきである顔面が私に対して何をか仕掛けて来るということは無かった。事実そのような事態が起こり得るのだと思って、私一人気の立った沈黙の内に危機を予期するその精神を凝らし続けていた。長い時がそうして過ぎ去って行ったのだと思う。いつの間にか疲れ果てていた私は、恰かも暫しの眠りに就いていたかのよう、或るときふっと目を見開いた。そこには運転手が居た。もちろん、彼の顔面は父のものなのではなく、ひじきのものなのであった。ほんの束の間にされた意識消失の内にも事態は何事も変わりのなかったということだ。すると、また咄嗟に強張らせた全身の力が随分と抜け落ちて、私は、ああ、と一言すると、とうとう助手席に深くへたり込んだ。全身は水に浸ってちゃぷちゃぷになった一束のカーテンであるかのようだった。細かな汗が肉束から滲み出た。

「貴様は何がしたいのだ」

 私は呟いている。これまで幾度ともなく呟いて来たことだったように思われる。運転手は私を乗せて、車を運転している。運転されている車は頻りに走っている。走っている車は何処かへと向かっているのに違いない。何処かへと向かうのではない走行を想定する場合に、それは所謂散歩のようなものである。名実共にドライブであるだけのそれは、ドライブ、或いは単にそうなのかもしれない、だとしても何故、私がそれに付き合っていなければならないものかは、まるで判らない。

(私はこんなことをしている場合ではない)

 父と母とのことを思えばこそ、そう焦る気持ちもいよいよ真に迫って来るのだった。あれほどに弱っている父のことを私は今まで知らないで来た。余程のことである。母の経過は悪いのに違いない。肉親も何も、いつかは生者に失われるものだとするのが必然であるという教えは、心に少しくもその準備をさせているものだろう。しかしそれを身を以て知るという実際の段にことは移ろい、或いは、身を以てそれを知らねばならぬという気配の非常に濃くなった、という段に実際ことは移ろい、そこに死生の教えは堪えるばかりの衝撃を与えて来るというだけだった。

 仮に首尾よくしてここから抜け出だすことの出来たのなら、先ず駆けつけた私の目撃するものは父の老いだろう。次いで、仮に母が生死の境から無事に戻って来てくれたのだとして、私の目撃するものは母の老いだろう。私は確かに、老いするものの老い方のそれぞれを信じることは出来る。しかし実に久しぶりに、電話口であの声を聞いてみたという実感から私にもっと信じられてしまうこととは、私の父と、恐らくは母もが、私の想定している以上にもっと老いているのだ、ということだった。私にはそのことが信じ難かった。信じられてしまうというのに信じ難いのであるというこの気持ちは、信じたくはないのである、というだけである。私は、老いたる父と母とに出くわすということに、恐れを抱いている。

 後部座席に居た頃とは違って、ひどく開けて見えている景色は、しかし相変わらずの田舎道なのである。目はもう面に付いているというその事実ばかりに、視界へと何をも彼をも映さねばならないのだからただそうしているというだけで、実際には私は殆んど何ものをも見てはいない。少しばかり日は陰りつつあるのだという気がする。遠くに黄金の帯がせつ然と敷かれ延びている。あれが暮れ行く鈍い寂しさなのだろう。子供は友と別れてぴよぴよと、家路に就こうという頃合いだ。現在、私も一刻も早くと、そう思われてならないはずであるものとは家路なのである。

 いや否まずに子であるよりは外にないという属性条件は現状の私の全てであるようだ。確かに全ての人は某の子である。人ばかりではないのにもせよ、人に限ったところがそうである。そうしていずれ某の子は親となり、親である彼は子であるまた別の某を産み育てる。人がそうである。私は人である。であるのならば人である、という私にもその時はいずれは訪れようかと思われる。思ってみるだけだ。何故なら私は既に知っていて、私は子供を残したいと、そう思ってはいないのだからだ。子供を残さねばならないという理由が私にはよく判らない。きっと誰にも判るものではないと私は時折考える。それでも判らぬままに子供が出来てしまうということは誰にとっても起こり得ることなのだ。私は恐ろしく感じる。何の理由もなしに人の親となってしまったという、実にありきたりなその境遇を自身の上に想定してみて、私は恐ろしく感じる。養えないのではない。私と誰かとで産み出したものが、私や誰かとは別個に独自指向的な動きを開始し出すということが、思えばそら恐ろしいのである。そんな制御をし得ない自然物の活動の全てが産み育むものの責任となって伸しかかって来る。恐ろしい。が、それをともあれ心身共に引き受けるのが人の親というものである。私は時折考える。子であるという属性をだけしか持たれない私のことを、そうして親ともするその為だけになら子を持ってみても良いと考える。確かにそれは子を産み出すことの私にとっての理由になっている。つまり子を産んだので親になるというのではない、親になる為に子を産むのである。時折、そのように考えるのであるとき、私はしかし自分自身というものを極めて醜い存在のように感じ出して、嫌気が差して来るのだ。

 もし父や、無事であったのなら母もが、孫を見たいと言って来たというときに、私は一体何を思うのであろうか。会わない年月のままに彼らに対して冷淡であった私であるのなら、そのことを或いは不快に思うのかもしれない。或いはとうとう氷解の頃に心は時節を得て、彼らの望みであるのならば、とその期待に応えてあげたいと思い始めるのであろうか。判らない。そんなことは事前に判るものではない。父母がそう望んで、私が父母の望みを叶えたいと望むのであるときに、そのような経過の元に子供を産み出すということが一体どれだけの正当性を持ち得るのか。子にとって、世の中は本来生まれて来るべきではなかった不当な場所である、と感じられるということは、その背後に父母が正当な場所を彼らの為に期さなかったという恨みがあるのだろう。そのようなことは今や主義である。私はと言えば。親となる想定をばかりしているというところに子であり続けているという私は、父母のどのような相談の下に生まれて来たものか已然知れない。それを知ろうというような気にさえなられない。誰にでもあろう自らの出生の秘密ということを聞き出してみるほどに父母へと踏み込んで行くという粗野はし辛いからである。であるのなら、私はそうした主義に与しているのではないということになるだろう。主義者の恨みがましさは粗野をそれと知っていたとて、或いはそれだからこそその行いの下に容赦のなく突せしめているという節がある。私にあるものとはせいぜい、ふいに生まれてしまってその内に故知れず生きているということを折に触れては気の付いて、するたび少しくして困惑を覚えてみるというぐらいの細やかなものに過ぎない。しかし私の子は。私に有り得るのである別個の、生命として独自に存在をするであろう私の子は。彼もが又、行く行く私のように感想をするのだとは決して限らないのだ。つまり私は、生まれて来るその子らが、彼らの為にではなく既に生ある我々の為に生まれて来るのであるということが、彼らに対して申し訳のないのである。たとえ彼らにとって正当な時と、場所とは、何処をどう見渡してみても見つかるはずのないものであるのだと知れていたのだとしても、いや否むにそれだからこそ私は、そのように思うことで、未だ生まれてもいない我が子を慮ることをする。

 陰り行く太陽から地べたに降り下りた黄金の帯が次第に近付いて来る。そこにどなたものかけがえのない美しい記憶が埋葬されているかのようにだ。子供であるより外にないという私は、車のそこを通りがかって踏みつけにするであろう瞬間に、そんな人類の美しい記憶というものを胸へ幻想したいという気がした。が、事は黄金域の煌々と輝き返す一帯へ踏み込んで行くその以前に、既にして車の背後の方から大勢を以て迫り来ていた。クロロフィルである。私は直ちにそう判じた。数多の粒であるクロロフィルが追い風に乗って吹いて来たのだ。粒々はそれら一粒一粒が柔らかく炊かれた米粒のように光っている。その光の鋭利な輝きの内に尚ほのぼのしさを留めることで、雲の一群じみても見える緑色味のふくよかな団塊は、まるで一握する巨人の拳のように背後をぬっと出没していた。緑色のその拳へと風は伴うのだろう。それは四方にあや取りをする破裂的な掌ともなって、指に指へと糸を引き合い、分離と融合と、出会いと別れとを宙空に繰り返した。今ここにクロロフィルは遊んでいる徒手空拳である。やがて、そうしてぐぅにぱぁにと為する諸活動の絶え入っている黄金帯の境に、横殴りのアントシアニンが吹いて来た。アントシアニンの赤い色は威勢の良く蹴り上がった。アーチである。今しも黄金帯へと滑り込んで行く車は、それを出迎えるかのようなアントシアニンのアーチ下をくぐり入った。花吹雪を思う私の肌が想像上に触れている。今、たとえば車のメタリックな肌艶にまで伸びて行く私の感覚神経は、想像上を確かに、罷り通っているとする、と、すると花吹雪のようなアントシアニンの赤渦へ触れた身体中の目が、そうして触れた傍からそれらの全て発汗作用のようにして、肌裏に眠れる数々の順次、見開かれて行くというような気がして来る。私はどうでもまさかとだけ思われるようなことがおもむろに判ったという全身の気付きの為にすばしっこい汗をかくのだ。その水の滴を拭い去って行くアントシアニンが、口紅でそそらせるような傷痕を私へと残した。向こうでは蹴り上がった赤い一団が地に伏して壊滅をしている。と、そう見えるなりに又渦を生じて巻き上がるアントシアニンは、逆サイドから真っ向して放たれて来たカロテノイドとぶつかった。黄金を白地に色染めたような黄色の群れは、しかし黄金を白地に色染めたのではないのだからカロテノイドの黄の色だ。それらは再び蹴り上がったアントシアニンのその足を掬い上げるように屈み込み、下方から風に波を打たせる波の起こりへと自身を化かした。もつれていそうなアントシアニンの上体へと突き上がったカロテノイドは円やかな筋肉を震わしてついに打つ。それは隆起する腕である。しかし瞬く間に消える、それはアントシアニンの為する回転の内に巻き込まれてしまう、カロテノイドであるかつての隆起した腕であった、今はささくれた黄の色をカロテノイドは、アントシアニンの臀部のようなふくらみにそれらのいくつもを突き刺して共に在る。無軌道な風に乗って塵のように舞うのである時、二つはとうとうない交ぜて互いを別け隔てはしないけれども、それぞれに二つの色として鮮やかだった。私はこのように珍妙なものの事態光景をしかし、幼い頃にも見たのだと思う。いたずらをして窓から放ったクーピーペンシルの削り節だろう。見て来たかつてのものから取り出して思えば、目前に開かれた色素要素の氾濫はそれに最も似ているものだ。

 私はひじきの面を見た。クーピーペンシルの色に黒い色を思い出されない理由は、黒である色以外の色の為に、つまり描くことを色彩に因ってするという行為の指向傾向の為にこそ机上へとそれを並ばしたのだとする記憶からであろうか。黒は白地にいくつもを書いてきたペンシルの文字の色であった。その色に、赤、と書いて、或る意味では事実ではないそのことに因り、赤、の色を私たちが一様に想起しているというのは文字を成す各形態のその力の為にである。思うに、こんなことがあった。あたまとりの小僧のあたまが取られて、それから彼のあたまから吹き出したひじきが私へと語りかけた。私はそれと会話をすることが出来た。思うことをして思い出されたことから更に思うに、ひじきは文字である。この車の旅世界に通用をしているそれは文字であり、であるからこそ同時にコミュニケーション手段でもある。それは無論、あ、でも、A、でも、æ、でもない。この旅世界に特有の、生に、物理活動的に行われているという文字、或いは文字的なジェスチャーなのではないか。と、すると私がひじきの面を見ていて思うのであることとは、この車の運転手である彼との遂にされ得る会話なのである。今更、他に思われることは何もない。私はこの車から早々に降りてしまわなければならないのだから彼を、どうしてもそのように説得してみせなければならない。

「おい、貴様。運転手さん。季節を巡る貴様は時の神だ。或いは時は神だ。それが貴様である。貴様のような格好をして、私へと見せているのだ。神よ。私は謎を解いた」

 日の光はいよいよ純金である。透せられぬ輝きの色が我々をまで冬の日没へと引きずり込んでしまうが為にその眼差しで重たくしなだれかかっている。満遍ない光といえども、それは私ほどの小さな一つ身に依ってかかる限界に於いて満遍のないのであり、事実は球体、ここから見られぬ世界の広い形状というものを思えば今、明るい辺りはスポットライトのようにされる太陽光のその捕捉下にあるのだと言ってもよい。私はこのまま連れて行かれるのだとしても、日没へ直向いている走行に時季の必然的な冬へとだとは中々思われない。それがこの道中に於いては必ず、必然、それであるのだと既に私は確信をしているのだとしても、気の遠くなりそうなこの光の中に揮発して、白けてただ消えて行くというような終わり方をした方が未だ私には嬉しいのだというような気がしている。その先は。判らない。或いはもう先などないのだ。少なくともその先に暗い冬を迎えるのでなければそれ以外に生きて行くということを想像し得る宛など何処にもないだろう。誰にでも、それはないのだ。

 運転手の顔が変わる。まるで言い当てられた事実を誤魔化すようにして、軟体がうねっている。ひじきの顔だったそれはかつて父の顔だった。今は昔見た映画の主役の顔をし、それも又変わり、学校の教師の、武術家の、哲学者の顔へと次々に移り変わる。だが、よく見ていろよ。そんなふうなまやかしに騙されてしまう頃は、貴様と共に通りすがって来た今の私だ。時の神は記憶のよすがに変貌をして、折々の師父を私に再現してみせる。しかし真に私を掴まえて離さないというその父なる手は、神である時のものであるより他には有り得ない。抗いがたく、生にあるのみ決して降りられないという走行とは、時だ。それがこの車の、そうしてこの運転手の正体なのだ。

 あぁっ……ぁぁぁぁああああっ!

「あじゃこんぐっ!」

 と聞こえるのが早いか、判らぬというほどの同時に前方から激しくぶつかった音が鳴った。車に伝わった衝撃で私の皮膚もが少しく震えた。潰れている肉体が、フロントガラスに張り付いている。小僧だ。小僧がいつか有った冬から逆走をして、未来の秋へとやって来たのだ。

「ああ、ああっ」

「うるさいわっ」

「あ、だよ。おじさん!それとも、い、にする?」

「うるさいわっ」

「それじゃあ、う、から始めるよ。今さっきから始まったよ。おじさんはもう、うるさいわ、を二回言ったんだから、お手付き一回だよ!」

 何をしに来やがったんだこのガキは、と私は思った。思ってみたけれどもこのガキは、あたまとりをしに戻って来たのに決まっているのだとも私は又思った。それにしても、

「なんだお前、頭はすっかり元通りなのか。いや、すっかりでも、ないが」

「あっ!おじさん、お手付き二回だよ。う、から始めないんだったら、次はこうだよ」

 と、小僧の殆んど潰れてしまっている口の中から、ひじきが這い出して来た。それは稲刈り鎌のような浅い曲線を描いて、フロントガラスをこんこんと打った。よく切り、よく断つはずの黒い刃だ。私は既に見知っているのだったが、つまり、あたまとり、を勝たないのであるのならばあたまは本当に取られてしまうのであるのだから勝たねばならない、ということは、今より私は何ごとも、う、から言い始めねばならなくなったのだという事実を指し示している。少なくとも小僧はそのような強制を私へとふいに働きかけている。しかしどうであろう。そんなにして厳しく取り締まるようなことをして、かつての冬に私は彼とで勝負をしたのではないと思うのだ。

「ぅおい、厳し過ぎやしないか。俺はあたまとりのルール外にお前のあたまについてを訊ねたのであって、だから訊ねたことがあたまとりの回答なのではないんだぞ。それに俺はあたまとりを受けて立ってはいない。今はそれどころではないんだ。馬鹿め」

「今度はぼくから始めたあたまとりなんだからぼくがゲームマスターなんだ。つまりぼくが主催者の側なんだからぼくの意思の方が大事なんだ。おじさんは絶対に、う、から始めて。でないなら次は絶対に、こうだよ」

「うーんと、馬鹿め。だから俺は受けて立ってない」

「うーんと、おじさん。たとえそうでも、おじさんはもうぼくと対面をしているんだよ。だからおじさんはあたまとりをしないことなんて絶対に出来ないんだよ。だってもしおじさんが次に、う、以外で始めたんなら、その時ぼくはおじさんのあたまを絶対に取るんだからね、こうだよ」

 そう言うと又、小僧の口から這い伸びたひじきはフロントガラスを突っついた。ごっ、と鳴った。本当にその切っ先が、ガラスを貫いて私の首先にまで届いて来るかどうかは判らない。しかし、確かに破裂をしたときに破裂をした彼のあたまをよく覚えているという身からしてみれば、この私のあたまが破裂をするというか、切断をされるというか、いずれにせよ、あたまとられ、と成ってしまうという結末の、容易に想像出来てしまうというのが私のあたまである。あたまとられ、てしまってはそんな想像も決して出来なくなるだろう。謂わば結局のところが、どれだけ理不尽であってもその時に力のあるものへと従わざるを得ないという境遇が、またもや私へと巡って来たのである。

(知ったことではない。そんなことは)

 実にそう思った。私は運転手のひじきである面から望んだ通りのことを読み取りたいという思いをしてばかりである。相手が小僧であるだけ今はマシであると思われるような脅迫行為でこれがあっても、せいぜい、う、から始めるように徹底はして居ながらにして、しかし一方で私は時の神へとは質して行かなければならない。

「うがんだ!」

 小僧が叫んだ。うがんだ、とはウガンダ共和国のことだろうか。それなら、うがんだ、の、う、を英語に置き換えたのならば。しかしそれは恐らくは、u、であって、う、とは大差のないように思われる、と言うよりも私は、ウガンダ、の正しい英語発音をなど知らないのであるし、ウガンダ共和国の公用語をだって英語であるものかどうか知れたものではない、のだから、これを以て小僧の揚げ足を取るというような作戦の実行も為し得ないのである。

「うわばみ」

「うぐいす!」

「うんこ」

「うりうり!」

「うーんと、貴様は私を降ろせっ」

 私は時である神へと言った。言ってそれから凝視した。あらゆる顔を経過して、今や又元のひじきへと形成し戻った運転手のその顔を。私は祈った。そうしてそこから意味のあるひじきを読み取られるのだと信じることをして凝視した。だが、余りにもひじきは意味というものを何も告げないというひじきでただあるばかりだった。そんなはずはない。そうであってはならない。私は凝視し続けている。そうすれば思いは伝わるのだとは信じてはいない。意味はそこに浮かび上がるのだと信じている思いが凝視をし続けているのである。待った。私は待ち続けている。

「うろこ!」

「うーんと、神である時よ、貴様が私を降ろされない理由を述べよ。貴様がそのように存在をしているというのなら、私を手ずから掴んで運んでいるというその意思のように、私を逆に手放して解放をすることも可能であるはずだ。そうして私に歩ませろ。私は父母の元へと急がねばならぬのだ」

「うま!」

「うーんと、もし私を降ろすことが出来ないというのが貴様という我々への定めであるのならば、しかしその私の意思ということをまで貴様は司るほどのものなのでは現実にないではないか。或いは私こそが、そうだつまりは、私こそがそのハンドルをにぎ……」

「うんこやろう!ねえ、おじさん、ちょっとさぁ、反則なんじゃない?」

「うん、なんだって」

「ちょっとさっきから、おじさんは反則してるんじゃないのぉ?」

 にへらと笑うガキである。潰してやりたいが既にもう多少潰れて見えているその面はとても不快である。

「うんこやろうはおまえだ!反則ではない。う、から始まった、全く別のことを意味として指し示している一連の語なんだから、反則では決してない。必ずそれは有り得ない。であるのにも関わらず反則だと判じかねないお前は非常に馬鹿だ」

 私がそう答えてみせると小僧は、おじさん、ちょっと大人げないんじゃない、と返して言うのだったが、どうでも良い。私にとって、今の小僧はどうでも良い。私のそう思って彼に接していることを小僧は必ず察しているのだったが、それで彼のことがいじらしく見えて来る訳でも決してないのである。よくよく見れば構って貰われないという寂しさに心細くなっているという、実に子供らしい子供の、その普くに現れて来るというような心情は今、彼にない。小僧は中々に大人びている。私に対しては本当に呆れているといった面持ちを彼はして見せている。尤も時折はこのように、相手が小僧でないのにしても、小僧くらいの年の頃をした子供と間近に接してみるという機会を私もいくらかは持つことのあったようだが、その度に彼らのする大人への期待というものへは周到に応えないという私の振る舞いに対して、それらの子らも一様にこんなふうな顔付きを以て遇するものだった。それが私にかかる大人げのなさであるのだと言うよりも私からすれば、大人の方が余りにも大人じみて、彼らに対して不相応に取り澄まして居るのである。少なくとも私が大人であるという身振り仕草に騙ることを為するというところへ、彼らにそうして騙られた大人の姿を見出ださしめては内面化させてしまうというような欺瞞が教育であると言うのならば、私はそれをしないでも必ず良い。仮に私に子供が出来たのならば、現実問題、その子のことを私が庇護せねばならぬのだとしても、そのように処す現実問題へは片目を瞑ろう。見開かれたもう一つでその子とは親と子との絆をよりは友と友との絆を結ばれたいのだ。そうすればこんな不愉快な思いをしなくとも彼は済むかもしれない。時の神がそれ自身を準えに用いてあらゆる師父の姿を私へと承知せしめようとする、そんな不愉快な思いを。それが事実であれ、確かに私は一個の存在として自力であった、自力であろうとして来た、はずであるのにも関わらず、その深層には常に父なるものへの従属があったという心理への嫌味たらしい指摘などは実に不愉快であるばかりなのだ。

(私がハンドルを握るのだ。時よ、貴様は消えるのだ)

 私は念じた。それから私は手を伸ばした。

「おっと、おじさん。そんなことは出来ないよ」

「……ううん。するよ」

「してみても良いけど、でも、しようとしても出来ないよ」

「ううん、してみないと判らないよ」

「普通はしてみなくたって判るよ。もしかして、おじさんはここから抜け出したい?」

「うなずき」

 私は頷いた。すると小僧の面持ちがいくらか真面目くさったようになった。全体彼の様子は、小僧のただガキであるというその一身上に於いて、それでは如何にしても表出のされては来ないのであるはずの、謂わば人生の芯を食ったような神妙さというものに取り包まれているのである。私は急速に、小僧であるはずの彼の大人びて来たその様子から反って、こうしてそれに対面をしているという私の方こそが小僧の身分なのであるかのような相対的幻惑に囚われた。それとは実に幻惑であるのだとて、相対的な差し向かいの間にのみそれが起こって来る幻惑なのであれば、親と子とといったような関係とは、互いに背丈を比べ合うような時に見られる二人の差分へと付いて回るものであるのかもしれない。ともあれそのように思われた私はと言えば、ふいに真剣味を増さした彼へと相対をするに相応しくして、自ずと伸びて来た背筋の切り立ちにも気付かされ、とうとう私の方までもが彼とは真剣に差し向かうというような形に自然と成らされた。そうして見ると、見ているのである私がこれで小僧の、人、というところを初めて認め出したのだと感じられる。確かに、期せずしてされた最初の出会いの内にはどうでも小僧の人などというところには目も行かれぬはずで、足の回転も呼び声もただに歪、人に於いては普からず、全体それが尋常ならざるものであったというその以上、彼を恐ろしい幽霊か何かのようにして私は思うより外になかったのである。が、今そのようではないという気分の反映は、小僧に頼ることをするという一つの選択を可能性としてもたらし得ていた。つまりその可能性はある。何せよ小僧が先ずこの旅世界のとば口に立って、遠く私へと向け、訪ねて来たのだ。それだから、さしづめ異邦人であるところの私が頼りたいはずのものとは、本来的に彼であったのだ。今やそれが可能である、のかもしれない、というその可能性に私は、静謐な胸の打たれ方をする。内側で、とん、と響いて行く曇りのない音を胸は聞いている。現実周辺に澄ますのなら、耳にもその音は聞こえて来たはずだ。

「おじさんは、ひょっとしたら、ここから抜け出すということの意味が、わかってないんじゃない」

「うむ、意味とは」

「ここを抜け出すということが、どういうことかわかってないってことだよ」

「うむ、ここを抜け出すということは、ここを抜け出して、両親に会いに行く、ということを意味している」

「りょうしん。でも、会えないよ」

「っ……うーんと、何故だ」

 小僧は溜め息を吐いた。真っ黒いガーゼで面を覆ったかのように、少しく俯いた彼は表情を陰らした。

「死ぬからさ」

「……うららかな、母がか」

「ちがうよ」

 と思わず笑ってしまった小僧は言うとそれから、

「おじさんが、だよ」

 と言って慈しむような微笑みをそこに留めた。そのまま時が止まってしまったのではないか、と私にはふと思われた。視界の内に生きている小僧の微笑が、しかし生きていながら活動を遮られているかのように硬直して見えた。時、であるのならば、容赦のない、それは決して止まったりなどはしていない、それと判る理由はただ一つ、車の走行は未だ続いているのだからだ。私は神である時の姿を盗み見た。

(確かに、理屈はそうだ。そうだった。しかしそれなら)

 しかしそれなら、私は何をどうすれば良いと言うのだ。ここから抜け出すことが私の死を意味するというのであれば、私は父母に会いに行くということをする為に、何をしたら良いというのだ。そうして思えば思われることとは既に、

(ハンドルを奪う、だ)

 そう、既に思われていて問答の為にこれは中断をしていたのである。私は時の神の姿を見た。

「ハンドルをさわるなら、さわりなよ」

「うむ、そうしようと思っていたのだ」

「でも、なんでそんなこと、するの」

 私は、父母に会う為だ、と言った。小僧はその瞬間トカゲのように顔を仰いだ。それから彼はザリガニのように両の手を仰いだ。よくもそんな不安定な姿勢をしてボンネットへと張り付いて居られるものだと私は思う。小僧はまるで、レッサーパンダのする威嚇のように腹をまで反り返しているのだ。

「おじさん、いい?触れないよ。そのハンドルは触れない。だってその方は」

「うん、知ってる。時の神だ。または神である時だ。とにかく時だ、こいつこそ」

「でも、おじさん。おじさんがそれに気付いたのは良かったね。そうだよ、その方はビリディケだよ。だけど、うん、いっぱい言いたいことはあるんだけど、じゃあ、時の神さまからハンドルを取っちゃうことって、おじさんは出来るの。時だよ。しかも神さまなのにだよ。でも、神さまじゃなくたって」

 私は手を伸ばして触れた。その時、私の尻が滑った。手ではない、尻がである。助手席に重たくしてあって潰れた尻が、助手席ごとに捲られたかのようにして宙を浮いた。それが頭と取って変わったかのように上がり切ったその瞬間、私の身体が雪崩のように落っこちた。危うく首が折れてしまうところであった。私はひしゃげたようにしてシートへと頭を直撃させぬように腕から庇いながら落ちた為、どうにか脚下のスペースへと上体をもつれ込ませて無事だったのである。胎児のように横たわる私は、痛めた肩のその痛みの故に目を剥いている。剥いている目から白いものが迸って感じる。動悸が高鳴っている。死ぬかと思った、と私は幾度も思い直している。

「ほらねぇ」

 小僧は言った。その時ばかりは大人びていた小僧も、小僧らしい柔らかな、自由な心をブランコのように放っているという気前の良さをさせて、ほぅっらねぇ、と尻上がりに面白がるような言い方を、私に対してして見せた。それから彼は、あはあは、と続けて笑って、更に笑い続けて、私へもそうして笑うことを催促しているかのように、余りにも笑い続けた。私はこのような場合に笑うという人の心理のあり方へと目配り、しかしこれの何がそれほどに面白いものか判らないのだというような気がして、束の間困惑した。恐らくは引っくり返って、頭から落っこちるというその時の落っこち方、というものが余程彼の目には滑稽に見えたのではないかと思われた。私は、目も眩んでいるという逆さまな窮状にあって居ながら、そのような墜落し方をしたのである私の逆姿を脳裏に想い浮かばせてみて、その滑稽さが判った気がした。それでつい、反射の弾みというようなことで口腔は、あ、の発音をするに必要なその空間を咄嗟に形作っていた。しかし、待つが良い、あいや、待たれい、である、と私は思うのである。あ、とは言うまい。それは言えまい。たとえそれが、笑い声なのであっても、今はその笑い声が、あ、から始まってしまったのならば私は、あたまとられ、に必ず決定だ、それではダメである、と寸んでに思い止まることが出来たのだ。それだから私はこのようにして、逆さまなままの頭へと血を昇らせていながら、勢いよく舌を突き出した。危うい。何事も危うく、油断のならない状況だ。そうして私は、逆さまである私を又引っくり返して上らして行くと、未だ絶えず笑っている小僧の満面に、うふふふふ、と笑いかけてやった。当然、お前のそんな罠などこちらもお見通しなのである、という気持ちをもそこへ乗せるということをして、挑戦的な意図をこの笑声の内に努めて明らめたのだった。

「触れないんだよ、おじさん」

 小僧は目と目とを互いに向き合わせたその瞬間に笑い止んだ。唐突に又彼は、真面目くさってしまっている。私は少し、小僧の心の釣れなさから、寂しい思いを味わった。

「うむ。しかし、前に挑んでみた時は、それに触れることは触れたような気がした。もちろんその時も吹き飛びはしたんだが」

「触れないってのは、触ったって触ったことにはならないくらいにそれが意味のないことなんだってこと。わかるでしょ。考えてごらんよ。どうしておじさんが、時に触れるっていうの。時に触るなんて、考えなしのばかだよね」

「うんうん、そうかもしれんがね」

 ところで、と私はここに来て思われた。ところで小僧、クソガキよ、さっきからお前の言葉は全然、う、からは始まっていないのではないか、と。しかし私はこれを条件反射的に、即ち直ちにといった返す刀でそのことを指摘する、というようなことをしない、すべきではないのだ、というふうに考えて、ただ懐へと疾風のような太刀のその一撃を厳に納めているのである。未だ待たねばならない。何せよ小僧は私の脱出行にとり依然、重大な手がかりを秘めている者であるのだからだ。少なくとも、秘めている者である、というように私の直感の告げているその限りで彼がなくとも、小僧は確かに、この旅世界に於いては唯一無二である意志疎通の叶う存在なのであるのだから、消えてしまっては私が困るというのもそれは当然のことだ。従って私は懐内へ、彼に対して致命であるというような事実は包ませて置いておくのである。そうするべきである以上はそうしておくというのがいつか切り出すのかもしれないカードの手札への適切な含ませ方というものであろう。

「おじさん、りょうしん、に会いたいんだったら、おじさんは……」

「う……うかい、迂回しないで直進で会いたい」

「そう、おじさんは迂回しない、だっておじさんは時に連れられているんだから、迂回なんてない、全ての時の道のりはずっと直進するんだよ。それしか出来ないんだ」

「うそだ」

「どうして」

 小僧は聞いた。私が、うそだ、と言ったのは、口を衝いてそれが出たのだったからだ。しかし思いをしてみればそれが嘘だ、ということは確かに事実なのである、と急速に思われても来る。これは何だ。私は俯いた。

 時は直進をする。確かにそうだろう。しかし直進をする時に連れられているという私の存在というものをまで、ただ空間的な直進を強いられているということは大変な不条理である。私は再び外景を意識した。黄金もいよいよ鈍く落ち込んで来ているという辺りに先までは舞っていた秋の二大色素は、枯れ行く茶よりはむしろ無垢らしく白い玉へと色褪せて来ているのだった。それも風に吹かれて一様に舞っていたというくらいの点点のその軽やかさは、時の車のする進行の次第に失われて行くものであったのだろう、今や色素は白い姿のそれら一つ一つに夜を気色ばんだ密かな自重というものへ堪えかねているようだった。いずれは冬が訪れるのである。それが時の進行をする様であるのだ。朝に夜にと、春に冬にと、巡って行く時は又、朝へ春へと巡り廻るという時の支配的のその内に、世界に於ける様々なる現れを繰り返す。冬に、立ち枯れた木を見るというその冬は、いつか見た冬なのであると共に又、今現在、私の見つつある冬なのに違いない。静謐であるという朝に一つ道を行く足音へと最も静謐である音を聞いているという朝が、再び私の朝なのだ。それは繰り返す。確かに繰り返している。世上の様々なる現れは、時の転回に列れることで繰り返されている。しかし、そうして繰り返される様々なる現れの、その繰り返し方もが一様なのではない、様々なのである。本当に、びた一文とまけずにして繰り返しをし続けている事物など、本来はない。前夏と今夏とでその暑中の暑さの度は異なる。母が事故に見舞われなかったのである多くの夏と、不幸にもそうなってしまったのである今夏とは全くの別ものだ。彼女にとってそうであるように、私と、父とにとってもそれは必ず新しい夏だった。生きているのだ、我々は。生きるということは、ただ時に運ばれるということなのではない。時が進んでいるのだから我々は生きていられるのではない。事実は明らかに逆である。我々が生きている、生きて、活動し、その活動の内に互いに不和をもたらし、しかしどうにかそこに和解を果たすというような数多の実を行い続けている我々こそが、その感性から時というものを虚へと無性にして表し続けているのだ。問いは、どのようにして時を過ごすか、などという問いなのではなかった。我々の、どのように、したところで、そのどのように、が時を引き連れて行くのである。であるのだから、私の為すべきこととはただ一つであるはずなのだ。

(どうするのだ)

 私は小僧を見た。その顔を見た。するとその時、ふと思い当たって驚いた。

「ねえ、どうして」

「うしなわせる、ところで」

「ええ?」

 小僧は言った。ええ、何を言ったの。

「うまくいくかは判らないが、こいつのあたまを取るんだ」

 私がそう言うと小僧は沈黙した。私は彼の開け広がった自由である呼吸というものが、その束の間に停止をしたように見えた。

「うきよ、浮き世とは定まりない世の中のことだが、それは定まりない物々の活動の総和を言って差すのだと判る。時を感じる、時の流れを感じるということは、万物の流れ、その浮き沈みを感覚するという心的の受胎を差して言うのだ。全てのものは活動をしているたとえ、それがただ鎮座して、静まっているというだけの態度であったのだとしても、そうであってさえそれは時を引き連れる活動の内の一つなのである。だが、私は時をそのように思うのではない習慣に縛られて、恰もそれが物々に先触れて行く神のようなものだと捉えてしまいがちになる。時を以て世のことを管理し始めた人類の内の私が一人であるからそうなのだ。世のことを全て明らかにしようという欲望と、生活の利便との為に働かせた、殆んど人類普遍と言って良い詩的傑作物が時だ。それは、我々が自身に誂えている拵えものなのだ。なのにも関わらずして、我々はそれに管理をされている、かのように思い込んでしまう。時とは確かに約束事である。それが人類普遍である以上、我々同士の約束事なのである。経過する時というような観念を共にしないのであれば我々は協働をし得ない。それだから時は必要だ。しかし、くれぐれも時とは、私たちを先導しているものなのではないのであって、それは常に我々である物々によって体現をされている空虚に過ぎない。実に、我々に於いては全くの原初からあらゆる事物を管轄し始めたという時こそは、まさしく神のあたまの如き最大空虚なのである」

 私は言い終えると、きっ、と時の神のことを睨み付けた。すると時の神がこちらを見ていたので仰天した。うわぁっ、と叫んだ。

「ねえ、じゃあ、こちらのビリディケも、あたまとりに参加させたいっていうのが、おじさんの考えなの?」

「う、うもうぶとん。そうだ」

「それで、おじさんが勝てばビリディケのあたまが取られて、おじさんは、それで何?」

「う、うーんと、脱出することが可能」

 私は言った。どうしても私の目の離せないでいるひじきの面が、そうして無言の内に詰め寄って来ているような気がして、私はたじろぎながらこの身をドア側へと張り付かせている。背でガラス戸に張り付いているような有り得難いヤモリである格好だ。私は小僧を見てみた。と、小僧を見やるつもりで送り込んだ視界の内へと夜が染み込んだ。ともあれば夜である暗闇の底へ、空からの白い冬の玉が柔らかく落ちては弾み、落ちては弾みと繰り返しているその夜景が、しかし夜であるというのにも関わらずして青ざめている薄らかな光を帯びているのだった。見上げてみるとその光は空へと伸びた大樹の面影のような亀裂から弛く流れ込んでいるものだった。私は仰向いてドアガラスから見上げ続けているという姿勢の無理にも堪えずして、ただ呆気に取られた胸のすこぶるに感動を震わせるというだけのことで心身を充たした。美しいものを見る時に心をそうさせる鏡のような反映は妖しく私のことを捉え続けている。大樹といえどもあれほどに大きな大樹というものは尋常に於いてあるものではない。又、亀裂といえども空への亀裂などというものはそこが実質的に空無なのである以上そもそもひび入られるはずもないことだ。従って偽である。とそう思われようともそこに実際、目にしているという事実が全て、心で味わってしまったという意味では必ず真なのだった。

「ベトゥウリ・ナサタヌゥートゥ・ペングリオリオー第三者審級だよ、おじさん。おいで下さいました」

 それならあれが、又、青白い光を漏らしている光の亀裂に、或る人影を象らせて見せる時が来るのかもしれない。

「うじしゅういものがたり」

 空を仰ぐ小僧が改めて答えた。であるのならばここに三再度を期して、あたまとりは三者で為する為に、そうして三たび始まったのだ。

「うぞうむぞう」

 有象無象とは形有るものをも形無いものをも一遍に差して言う言葉である。私がそう答えたのである時、すでに回答順は時の神へと移った。私は彼を見詰めた。私を見詰め続けているようである彼の、表情のないひじき面のことを、私は見返し続けた。一体、神のようにふるまっている時というものが、どのような言葉を発するのだと言うのか。私は信じられない。信じてはいない。つまり私は必ず勝つのだと自らを信じていることになる。何故なら、時、とはそれが、時、であるというばかりであるのならば、それは必ず空虚であるのだからだ。人は有象、心は無象としてみても時は、多くの人の有象と、その心の無象とに拠って掛かる内容物を道々に拾得しているだけの空無に過ぎない。言葉とは我々のものだ。言葉の差す宛の生きているその内容とは我々のものだ。それらは時のものなのでは決してなかった。

「うなばら」

 沈黙の末に口を開いたのは小僧だった。であるのならば、と私は小僧を見た。小僧は頷いて私へと促した。無回答はお手付き一回と同等である。すると、あと二回。

「うきぐも」

「うにどん」

 ウニ丼が好きである。

 私たちは待った。時の神は答えない。随分と待ってはみたものの、私もいつまでも黙りこくっているつもりはない。私は小僧へと首を振ってみせる。小僧も私へと首を振り返してみせる。そうして黙っている。私は再び首を振る。今度は小僧に意図のきちんと伝わるようにと、時である神へと手を伸ばして、それをも振った。すると小僧は目をぱちくりさせて、私へと頷いてみせた。しかし、それでも黙っている。私は、こいつ、必ずわざとだな、と勘づいた。ここで業を煮やして私の何をか言い出そうものならたとえその言葉の、う、から始まろうともしかし、私の番では今はない、というところに抜け目のない指摘を小僧はして来て、そうして結局、私は最後のお手付きだ、従って言うに絶対おじさんはあたまとりに決定だとかと、そんなようなことを奴は言い出して来かねないのだ。私は苦み走った顔をしてみせた。まるで勢い余って梅干しの種ごとを噛み砕いてしまったかのように下顎を歪めた。すると小僧は、ちっ、と舌を打つのだった。それは実際には発音のされてはいない、ちっ、であったが、たとえ音にはなられぬほどに消音せしめた動きのその些細さにでも、気の立たせてそれを見るという集中の下に私のあってみれば、そうした意思の先鋭化をされた一つは存外に聞こえて来てしまわれるものなのである。私は睨んだ。小僧は又目をぱちくりと剥いてみせ、今度こそは私へとネタばらしとばかりに、笑った彼のその表情を顔面にべったりと張り付かせている。どうでもやはり妖怪じみたものが彼である。すると私も又ほくそ笑んだのだ。

「うなじゅう」

 小僧は言った。とうとう言ったと思った。私は鰻のことは好きではない。しかし、これで確定したのである時の神のあたまとられのリーチに私は、汗腺のばっと開いて来る全身の熱量を以て応え始めた。

「うばすてやま」

 私は答えた。うば捨てられぬという全体生存の殆んど原理であると言うことの出来るほどの価値観の下に生きている我々は、うば捨て去るという民間の掟をことある度に耳にしてみては、寒村の冬、ひもじさと、明け暮れぬ寒さとに裏付けられた人の鬼のような生存合理を感じるものだ。逼迫した生活事情が経済に役立たぬ人を山へ捨て去るにまで行為及ばしめるという危機感には、それが本当のところの真偽も判らぬという昔話なのだとて、未だそれよりは遥かに豊かである現代日本に於ける生活へも決してそこを離れては行かれないような現世実体の影に紛れて、その暗部から生々しく付き纏って来るようなところがある。仕方がないという諦念を以て愛するものを打ち捨てるというほどの行為をさせてしまわれるのが集団の生存意欲であるのなら、それは人の美点では決してないだろう。誰も美しさなどは求めてはいられないという極限にも、溜め息を吐いて見ている景観の美しさには心を奪われているという人々が、傍目に哀しいものと見えるか、滑稽なものと笑ってしまわれるかは、それを心に映す者の感性に拠るのであろう。が、私はと言えば今こうしてその言葉を答えとして口にした途端に、言葉をして母を見捨てたような気持ちへとふと移ろって、彼女の容態にまで遠く作用をするのではないかと危ぶんでさえ居るのである、私は、哀しいのであっても滑稽なのであってもどちらでも良い、救いたいというものは是非とも救いたい、救われたいのだと思うことだけなのだ。気の沈んで来るものである。果たしてそんな暗澹たるところへと思いがけずも心を落とし込んでしまったその時、私は、指に触れている指に触れている、と感じ出した。それは俄に起こった。指に触れている指に触れているはずなどは必ずなかった。何故なら私の指は助手席ソファに触れているのだからである。しかしそこへ触れているというはずの指は、ソファへと触れているという感触こそは基よりそれのあるものなのだとしても尚、先んずるようにして薄く触れている指へとも確かに私の指が触れているという謂わば薄皮一枚目の感触を訳もなく知り続けている。訳もなく。そう思ったのだ。ところが寸でに指が滑った。ぬるりとした感触が指の平をとてもゆっくりと舐めて退った。伸びた。

 時の神の面から尖り立って来ているひじきの数本が伸びていた。それらは私へと向け、伸び、しかし私の目の先で急降下をした。それらは横長い電車座席へ座している足の数々であるかのように、全て一様にすとんとしていた。そうしたひじきの下るに列られて、送る私の生々しい視線は、それらの面状となった暗い先端を一目に捉えた。初め、そうまでひじきを私へと及ばした時の神が、私の裏側から私のことを如何にか為そうという魂胆であったのではないか、とそう思われて怖かった。しかしながら、これは違ったのである。時の神のひじきが背後へと回って来て私へと何をか為そうと企んでいるのではないか、と思われたのである私にそうと思われたのである原因とは、指に触れている指に触れているかのような影らしからぬその実態、即ちそれはひじきであった、だからこそ私は時の神の面を見て、そこから下り落ちたひじきの、数人のすらりとした足々、のようである降下状態を発見したのだったが、発見した、というその故に、指に触れている指に触れているそれとは彼のひじきであるのだと咄嗟に考えたのである、が、どうしてもそれが違うのだと判ってしまってからの私はおぞましいものに寄りかかっているという不快感から、先ず全身の総毛立つ恐ろしい思いが変わって別方面からも再び被さり掛かって来るというその息吐く間の無さに、口から出掛けた嗄れのような呻きも必ず塞き止められてしまった。今、肋骨から絞られている窮屈さへの反射運動のようにして、右の手が、腕ごとお化けのように目前を持ち上がって来ている。それは私の腕だ。しかし持ち上がって来ているところの影に潜むようにしてある黒い、ひじきの腕は必ず私のものではない、とそう思う。それは影なのか。影なのではないと思った。影のようにしてずっと私の後背に付き纏っていたそれは、私の、ひじきなのである。繋がった。それと、時の神のものであるひじきとが、繋がったのだ、いや否むにそれらは既に、ずっとの間、互いを繋げ合い続けていたのだったろうか。溶け合った黒い握手が目前を浮かび上がって来る。すると繋がり合った腕の管中に、夥しい数のものが流出して行くその隆盛が唐突に見え出した。夥しい数のもの。それが何であれ、私から、時の神へと、それは奪われて行っているのだ。私はヘモグロビンを思った。互いにされる流出入のその行為は輸血のようだった。黒いひじきの内に止めどもなく流れている夥しい数のものさえ、よくよく透いてこれを見通してみればそれらもが又ひじきであった。ひじきである夥しい数のものを見ていると、途端にそれらが出来事であるのだと悟った。今、流れて行ったもの、腹痛と共に夜半に起きて、急ぎ足に開かせた扉の縁へと足指をぶつけてしまったというひじきである。今、流れて行ったもの、でたらめなところへと生えて来た新しい歯に潰れて血の流れ出した歯肉を指でいじっている、洗面台へ、吐血のようにして吹き出した薄い血を後に残し、母がそれを見つけてくれるまで布団にくるまっていたあの時、母が、おもむろに開かした襖に佇んで、居間奥の光を一身に塞き止めたその暗い姿をさせながら、ああ、ちょっとあんた、大丈夫なの、と心配そうに聞いて来たあの時の、うしろめたいような心のいじけた満足さ、それが今、管中を泳いで行った私のひじきなのだった。又、今、流れて行ったもの、幼い私の腕の傷口に、アロエを宛がおうとした祖父へと泣いて嫌がってみせた私が、ふっくらと笑う祖母の胸に抱かれ続けているというひじき。今、流れて行ったもの、ローラー滑り台を真っ向に遡ってはその台上から俯せに滑り落りて行くという危険な反復に、けたけたと一人で笑っているというひじき。この後、私は足を滑らせ遡り損ねて、額をローラーへ激しく激突させると、皮をひん剥かせながらぐしょぐしょの涙と共に滑り落ちたのである。全て、私のことだ。私の身を以て経て来たのである体験、又謂わば情報が、時の神へと流出をして行っているのである。私は思わずそれを押し止めようとして、手を伸ばした。しかしひじきは触れ得ざる過去のように影めいていた。私には止めようのなくつまり、それは止まらない。流出現象は順調に続いて行くのである。音が聞こえて来ると思う。あらゆる情報の、あらゆる体験の音が幻のような生のミュージックコンクレートとしてくぐもった音をさせている。くぐもっているというその理由は蓋し、ひじきの管の中にそれらの在って遮音的なのだからか、通りすがる進行のばかりに音も時の神へと前進をして行くのだった。或いは生々しいそれは、生々しくとも何処か映像的であるとは言えるその例えばファイルを、時の神であるハードディスクへと書き出ししているかのようでもある。そうするとまるでハードディスクであるかのような時の神は、私の生きて来た具体的なその中身を彼の内へとそうして取り込んでいるかのように私には見えているという訳だった。

(やはりそうに違いない)

 苦痛はない。それもが生きて来た証なのだとて例えば肉体の肉を片々として削り取られて行くということのある時に引き起こされて来るであろう身体的な苦痛のようなものはそこにない。当然ながら私の身体そのものは無事である。恰かも削り取られて行くかのようであるものが時の現前性に押しやられた私の過去であるという場合に、肉体へと起こる苦痛は一つもなかった。しかし本当は奇妙なことなのではないか。私が生きて来たという山積みの過去があらぬ方へと滑り出しているというこの時に、そうした過去を生き抜いて来た一番の当事者であるはずの身体が、肌先にさえ疼きをも覚醒し得ないという事実は、思い出に対して妙に薄情だと私には思われる。確かに時の神のパイプ管のような黒いひじきは私の肉体へと接続されているのではない。ひじきは又別のひじきへと接続されているのである、が、しかしその別のひじきとは、

(私のひじきだ)

 私のひじき、私の思い出、いや否むに、思い出であるそれらを預かっていた、私の、

(時の、神なのか)

 であるのならば、今目前にある、時の神とは、

(一体誰のものなのだ)

「うまれたい」

 口を開いた。今目前にある、時の神がである。彼が、そう言った。うまれたい、と。私を引き連れて離そうとはしなかった、この道行きの車の、看守であるかのような運転手がだ。フロントガラスのおぼろ気な反映の内に小僧の満面へする笑みが微かに動いた。

だけれどそれが、何だ。

もし、私の死後に魂の行き着く楽園を迎えるのであるのならば、そこで私はフェデリコ・フェリーニに会って、この作品を映画化してくれませんか、と訴えてみたいと、そう思っている。

もちろん"私"を演じてくれるその人は、マルチェロ・マストロヤンニであることを望んでいる。

望むくらい、誰だっていくらでもさせてくれりゃあ良いじゃねぇか。

望むということの殆んどが、我々のことを残酷にふるいへとかけ始める、その端緒だったのだとしてもである。

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