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その一

RSヴィルスに因って発熱している。早く治りたい。健康は大事だ。非健康では出来ることも限られて来る。非健康時には、健康時になら、あれをしたいこれをしたい、とて無性に色々と思われる。治った暁には、治った暁にはとて。無論、その殆んどを治った暁にはしないのである。悩ましい怠慢の性だ。

 車に乗っているので車上の人という表現をふと思い出したのだったが、そうして思い出したものをべたべたとまさぐり思えば、車上の人とはどうも変な表現である。変だなと自然とそう思われるのであるのならば、そんな表現は予め使わない方が良いだろう。従ってそれは、この文章の書き出しとは成らなかった。この文章の書き出しを構成しているものは、車上の人、という表現方法に逡巡をしている、という実際的な精神の骨子である。それで良い。実に、芋づるを引き張り出すようにして、車上の人、からまた続々と思われ出すものを検めて行くと、とうとう旅情ということがその列なりの最深部には在る、と判った。果たして、個人の下に発見をされたそれは、深い根へとこびりついている湿った土の欠片ほどの記憶に過ぎないものである、が、それほどの記憶の下にも考えを進ませて行くと、恐らく車上の人というような言い方は、車上の人、に於いて表されている当人によって抱かれた、旅心、をも意図しているのであろうと今ではそうとも思われる。それなら、それで良い。二度言う。前述の通りに、同一そうである、それで良い、という文句は実際に短小な時を越えて今に来たかつての、それで良い、なのであって、同一そうであるのではそれはない。確かに同一なのである。そうして理由はこうだった。車に乗っている私自身が旅をするつもりでも何でもないという私自身である、というが為に。それなら、車上の人、という文語的表現は、当人並びに当環境に就いてを表すのにはこの場合、適切ではないのだと、私自身がそう思うのだからだ。

 しかしながら、このように逡巡しているという迷い迷いの精神の骨子とは違って、車は長い直線道路をひた向きに走り続けている。窓枠の向こうを変哲のない景色がそうして流れて行きそうで、しかしなかなか流れては行かれない。それぐらいの速度がうっとうしいほどであるのだが、運転手は私でない。こちらの意思の下にその速度をどうこうするということは、運転手が別個の人なのである以上こちらには出来はしない。従って現状、私は黙って車に乗っているという私、であり且つまた同時にして、その緩かなる速度に堪え、そろそろと堪えかねては足を幾度ともなく組み変え直しているという私、なのでもあった。窓の外を見よう。

 灰色の小さなビルが向こうを遮っている。視界に立ちはだかるものの全て、慎ましいような、廃れてしまったような、色のないつまらなさである。全体が殺風景というよりも、例えば東京のような日本の都市であってさえこのような寂れ方をしているところは少なくはない。それだから、日本の都市景観に基づいて言うなればこれこそは平々凡々たる日本の風景である。風情である。心でもあろう。それがまた退屈である。ということだ。それがまた退屈である、ということに端を発して、私の足は漫ろに組み変わり、私の気は堪えかねて、しかしそれでも堪えているより外には仕様がないという私の精神の骨子は、未だに道をさ迷うかのような不安定な輪郭を内部に呈している。ここに私を積載する自動車ばかりがひた向きである。長い、長い道のりをそれは頻りに走っている。我々は遥か行く手に、何ものをも見出だすことはない。少なくとも今のところは、未だ何ものをも。それにしても運転手は、貴様は一体どこのどいつなのだ。

「貴様はどこのどいつだ」

 私は訊ねた。運転手は一言も発しはしなかった。ふむ、それで良いだろう。私はただに運転手の色の黒いというだけの頭部を一瞥するに止める。

 やや、開かれた。開かれたものは景色である。開かれてしまうと景色は、田畑の土波を静かに伸し広げて平坦だった。風だって吹いているのだろう。吹かれてそよぐものの滅多に見られないというこの景色を、風は吹いていたのだとしても空無に隠されてしまっていて私には判り辛い。ただ広い。だだ広い。穀物も野菜の類いも、全て収穫の後といった土色の重たさが、一帯の寂れ方に干上がって見えている。クソほどつまらない。私はそう思う。人の手は数多ではない。この広さを管轄し、この広さの為に実働をするという人は、極少数人に限られているだろう。つまらないことなのだ。ふと見上げてみると曇り空。だいたいいつでも見上げてみる空が曇り空であるという事実を、ただならぬ人生の徵と私は受け止めている。見上げてみる空に曇り陰りを見ているばかりであるというこの事実に突き当たれば、誰しもが哀しい定めのような人生の道のりの象徴をそこに見ないでは居られないはずだ。私は欠伸した。冬の欠伸だ。真心の死んでいる冷性の空気はそれ故に閑散としている。冬の欠伸をするのなら、そこの冷気をいっぱいに腹の底へと吸い込んでやった気がするものだ。しかし、私は今車中に在る。車中は生温い機構物の空気に充たされている。欠伸をする私はつまり、そうして欠伸をすることで不快な毒物をばかり腹の底へと積もらせている。それが現実である。少なくとも、内に在しているという周囲環境的な意味に於いて、現状、それは私にとっての確かな現実なのである。車酔いをした。

「窓を開けさせろ」

 運転手へと言った。

「窓だ」

 しかし運転手は何も言わぬ、何も返さぬ、私など彼の後ろにまるで存在してはいないかのようにふるまう、のでもそれはない、運転手は実は私の存在に気付いていないのではないか、と私には思われるほどに無反応だが、それもまた有り得ないことだ、何せよこの至近距離に居て、こうして声を掛けていて、それが音波として奴の耳へとまで届いては行かれない、そのような事態が現に起きている、起きてしまっている、などということは、全く信じるには値しない、或いは信ぜよと言われたとても私には信じ難い、到底、それは有り得ないことだろう、だから私は、

「窓だ、窓窓、開けさせろ」

 と叫んでやった。

 それでも、うんともすんともなのである。と私は実にそれどころではないということに今更になって気が付いて、唖然とした。先ず、車のドアの持ち手部分に付いているはずである、窓開閉ボタン、或いは窓開閉のレギュレイターハンドル、のいずれもが完全にない。ドアにない。それなら何処にあるのかと、私は探しはしなかった。何故なら、ドアノブ自体が何処にも見当たらないということに気が付いたからだ。私は、それなら私はどうやってこの車から降りるのだ、と卒然と気が付き、やたらと怖くなって、それで唖然とした、のでは実はない。実は私は、もっと以前にそのことに気が付いていて、それを知っていたのだからこそ、運転手へと、窓を開けさせろ、と頼んでいたのだったからだ。それを忘れていて、ふと思い出して、そうして唖然とした。

(いつだ。いつから私はこのガソリン臭いふざけた車に乗っているのだ)

 その、いつから、を探り当てようとする心ばかりは目まぐるしく回転をしてみせる。だが頭の方はてんでだめだ。全く、いつから、なんてことが途方もなく思われて来る。或いはぬりかべだ。私は、ぬりかべを思い浮かべた。今、思い浮かべし、ぬりかべ、というものは妖怪である。壁の形をした妖怪である。夜半に、人を通せんぼして誑かすという妖怪だ。通せんぼされた人は、向こうに行く手があるというのにも関わらず、一向に、そこから一歩も歩いては行かれないのである。無論のこと走っても、行かれまい。私は謂わば、頭の内に立ち塞がるこのぬりかべの姿へと探り辿る手をして触れているのである。それで、どうしても記憶を遡るということは為し難い。或いはそれは、完全に不可能な行為なのである。

 仕方がない。そう思った。そう思うより仕方がない。そうも思った。行く手に向けて壁に壁をと重ねて行くのは自分自身の諦念からである。しかし、そんなことを言ってみたって思い出せないものは思い出せないのであるのだから、やはり仕方がない。としてまた一枚、どん。それで、知ったことではない。いずれは八方塞がりに、自らしでかして行くというものだが、それもどうにせよ車の進行自体はたゆまぬ低速度をして継続されている。脳裏で行く手を塞がれつつある私が、それでも移動をしている、進行をしている、ということは、この為にのみ疑いようのない事実である。

「訳もない。訳もないことだが、肯定しない手はない、と言ったところで、俺自身のことであれ、俺の知ったことではそれはない。車で良いじゃないか。少し、とろくさい。だけれど座って居りゃそれで進んで行かれるんだから、良い、ぶつくさ言うことでもあるまい。なあ、貴様よ」

 私は前へとのめり出て、

「しりとりをするか。しりとりのようなものでも良い。しりとり的な言葉遊びで、俺たちの時間をやたらと食い潰しちまおう。何せよそれくらいのことしか俺たちに出来ることは何もないんだからな」

 無論、私は望むべくもない運転手からの応答を、待っていようという気にさえも早ならない。従って私は、あたまとり、を一人で始め出した。

「あか」

「あ、あ、あめんぼ」

「あー、あ、ね、うーんと、あざらし」

「あとらんだむ」

「はいはい、あ、だなぁ、ふむ、あぜるばいじゃん」

「あ、かぁ、そうねぇ、あかずのまど」

「あぜみち」

 あぜみちとは、畦道である。畦道とは、田と田との間に、そうして田と田とを田と田とに別つ為、盛り土した畔が畢竟道のようであるということから名付いた道のことである。そうであるという畦道と、ふと口を付いて出て来たところから私はまた、何心もなくして開かずの窓の外側へと視線をくれてやった。すると、初めはぼんやり見えた。次第にそれは空の裾野に入った、黒くか細い切れ目に見えた。見ているとだんだん人影と思われた。少し揺動したので人だと思った。人がこちらに気付いたようだった。それはつまり、とろとろと動いているこの車にあの人が気付いたのだろうということだ。人が歩き出した。どうも車の進行に平行をしてあちらもが進行を開始し出したという感じがした。その感じ方が間違ってはいない、という確信はどしどしと押し寄せて来た。あちらの人はもう走り出している。しかも、恐らくは畦道からであったのだろう、そこから干からびたような土の田地に踏み入って、次第にその身を車の方へと走り寄せて来た。私はここで少しばかり考えてみたいのだが、余程にとろいのだとはいえその速度はあくまでも車の走行速度なのであって、走って追いかけてみたのだとしても人の足の速力程度ではこれに追い付くことは中々出来るものではないと思う。事実、私の体感の上でとろいと思われる程度の車の速度が、同体感上に、それでも人の走行に追い付かれる程度のものよりは未だ速度のある走行をしているのだ、として感じられているのである。である、のならば何故、あんなに遠くから走って来出した人がもう既にして、田地を横断した上で、こんなにもこちらへと近接をして来られているのか、それが全く判らない。私は車のスピードメーターを見ようとして身を傾いだ。すると40km/h付近を計針は指し示していた。これは私が体感していたよりも速かったのである。すると、この速度に対して今にも追い付いてしまわれそうなあの人の速度はもっと速い、ということに事態は必然としてなって来る。ウサイン・ボルトは時速40km/h以上の速力を発揮して世界に冠された短距離走行専門のプロフェッショナリストであったが、間違いなくあの人は彼ほどだ。と、私の思っているその以前に、とうとう張り付くようにして隣を走り続けているこの人物が、遠目にはそうとは見えていなかったというのに実際は未だ子供であるのだということがここに来て判然とした。私は途端、このような速過ぎる子供という存在に堪え切られなくなって、目を背けた。すると開かずの窓の向こうから、おい、と呼び掛けられた。子供であろう。並走をしている彼だ。そうして私がつい見てみると、子供は子供らしからぬとしか言い様のない、様々に募らせ尽くした怨念の表情を目一杯にふくらませて私を睨んでいた。私はすかさずに目を反らした。見てはいけないものを見ているのだという自覚は、生物的な本能からのものであると私は考える。一方で私はもっとオカルティックな意味合いを胸のこの恐怖に含ませて、そうして目を背けざるを得なかったのだともまた思う。私は、冷や汗というものをかいていた。それが一筋それとして、確かに頬を伝い落ちて行くという珍しい感触を味わった。

 おい、おい、おい。

 呼び続けている。私に何の用だ、と思う。私はお前のことなどまるで知らんのだぞ、小僧、と思う。しかし呼びかけは止まない。私は、見ることは出来ない、が、或いは大声で叫んでみるのなら、表へと声は伝わるものかもしれない、とそう考えた。それで、

「なんだ、クソガキ、あっち行け」

 と叫んだ。すると突然、窓ガラスが叩き付けられて、私は身体が吹き飛んだような気がした。

 あ~あ~あぁぁぁぁぁ。

 ガキだ、小僧だ。そいつが今、窓ガラスに吸い付いているのだ。私はそう感じた。感じただけである。恐ろしくて見られなかったからだ。しかし、そう感じたことは全く正しかった。何故なら次の瞬間には私はもう既に見てしまっていたからである。従って見ると、子供は両手と顔面とを窓ガラスに吸い付かせて居りながら、一般大衆の観念上に於いて戯画化をされた蛸、例えばたこ焼き屋の、のぼりやのれん的の蛸のように唇をぶっちゅうの形に成さしめていた。あ~あぁ、と唸るような時にだけ剥がれる唇の中から、数本抜け落ちている若く幼い歯並びが垣間見えた。私は余り長く見ていたいというものではこれはない、とそう自ら認めていながらにも、やはりどうしてもどうなっているのだという事態への解明欲求ということが収まり付かなくなって、とうとう歯を食いしばりながら窓の外を見下ろした。私が気になったのは足だ。走っている車へと吸い付いてしまうというような負荷を自らに掛けている子供の足である。それが今どうなっているものかをどうしても見てみたいという欲望が激しく誘惑をしているのである。それは抗い難いものだった。畜生、見てみたい。しかしその心は全くの同時に見てみたいのでは決してないのだ、畜生。そうすると見たいのだから見ようとして見るのである左目はかっと刮目をし、見たいのではないのだから見るまいとして見ないのである右目はぎゅっと瞑って、私の顔面は熱烈な、ではない、激烈なウインクだった。食いしばっている歯の奥側からは擦り切れた吐息が殆んど唸り声のようにして漏れ出でている。

 そうして私は突き止めた。つまり見ることをするに因り、見得たそのものを大に深く入らせる印象としてこの胸に突き止めた。すると、それは、

「南無三」

 私は言った。南無三とは、失敗をして、しまった、という心持ちを口に出して告げるという仏道のスラングである。家系的な繋がりに於いてより外に、私が仏教者であるということを指し示す諸要素などは私の内の何処にも見出だせはしないのだとは思う。が、ふと口を衝いて出てしまったそれが如何にしても口を衝いて出ざるを得なかった私の感嘆的の言葉であるということに由緒は全く必要のない。即ち、しまった。しまった、と言うのであるのだから、見て、しまった、のである。やはり見るべきではないものを私は見てしまったのだということだ。

 所謂卍である。今、窓ガラスへと張り付いている小僧の足は激しく回転をする卍のように成っている。どのように見ても、例えばこれがこうして回転をしている、し続けている、という事実を奇怪ではあるが実は正常なものとして見てみようとしたのだとしても、殆んど生理に近いのである私の感性は、違う、そうではない、この回転は物理に則って必ず無理だ、と判ってしまっている。人の足の卍のような回転は謂わば、人体に於いて正常である足というものを前提するに、独りでに骨折をしては治癒をし、また有り得ぬという角度へと骨折をしては回転の或る折りには再び治癒をし、という痛ましい繰り返しをいつ果てるとなく持続させている、という惨たらしく醜悪な走行なのだった。私は私の足の痛み、股関節から起こって来るのに違いないそれが、医療観点に拠れば大重体であるはずの痛みを、率直に共感してしまわれるというそのことで、自らの足の骨や肉もがも早付け根からてんでばらばらに壊れてしまっているというような錯覚に囚われた。或いは本当にそうして壊れてしまったのだとした場合に心身へと起こって来るのかもしれない虚脱感に、私は一挙に見舞われた。それらの起こり来る順序の区別ということも、二つが同時に一瞬間で心身を突発したのである以上、どちらが先でどちらが後でというようなことは容易には言われない。逆を言えば、破茶滅茶に壊れてしまっているのであろう小僧の足が、そのようにして壊れてしまっているという事実を痛痒共感によって親身に迎え受けようとする心身生理が、先ず該当部位へと虚脱を作るという迎え受け入れ方を選んでいるのかもしれなかった。何れにせよ、私の心身は自らの無理限界を承知しているのであるからこそ小僧の腕白過ぎる足に同様の極限状態を見て共感を示したのである、が、真実を言えば小僧の足は、それで壊れてしまっているのでは必ず無かったのだ。それが私には判っている。理由は簡単である。小僧は今も未だ変わらずに窓ガラスへと張り付いているのだからして、本来気を失ってしまって居てもおかしくはないというほどの尋常でない痛みに彼が現在、襲われているとは考えられない。また、いや否むに、回りくどく述べて掛からずとも良い時には良い。それで良いというこの時に言われることとはただ一つ、小僧は吸着しながら、にやにやといやらしく笑っているのだからだ。

 あぁ、あ~、ぁぁぁあっ。

 窓ガラスの開かれないこと、つくづくと思われた。それの良し悪し、どちらにもせよ思われ方はつくづくとしていた。しかし外界と私とに、截然たる遮断のされているのでなければ、小僧は必ず私へとその手を伸ばして来ていたであろう。そうと感じられるというその以上、窓ガラスの開かれないという事情も今ばかりは私にとって有利に働いている。私は小僧の思惑というものを考え始めていた。それが全く見当の付かないものであるのだからこそ私は考えてみるのでなければならない。小僧は超人である。しかし同時に狂人である。狂人にその行為の理由を求めることは、仮に実際、彼にそう聞いてみたとて本来は出来ない相談であろうとは思われる。しかし、このような行為に及んだ心理作用は、狂人といえども必ず彼の内部には存在をしているはずなのだった。因果を思う。つまり彼と私との因果関係を思う。彼は私にとって、私のことを憎しんでいるという可能性を持している。ふとした表情にそれが表れているからだ。であるのならば、私と彼との間に何らかの因果関係を求めざるを得なくなる。私には身に覚えのないことだ。仮に忘れているという身体へと追い縋って来る小僧という過去は、恰かも私の前世の借りのようでもある。それでは私独りでには何事も知り得ようはない。また私は、彼と私と、という関係ではこれはなくして、彼と車と、という関係でこれはある、という方向に考えを向けてみた。

「おい、運転手さん。こいつは何だ」

 聞いた。答えはない。答えがないのであるのならば、手がかりを得られぬままの思考は際限のなく方々へと生え伸びるだけだ。私は例えば、この車に轢き殺されたのである小僧の恨み、というものを想定し、即ちは現に在るはずの彼を幽霊と思ってみた。そうして見てみると、

 あっ、あっ、あぁぁぁっ。

 なるほど、と私は身を仰け反らせながら感心した。それもあながち、と思われるほどに事態は奇怪性を帯びている。しかしながらそのように思ってみることが私の心へと科するものに就いて、私は無頓着に過ぎた。私は心底から怖じ気付いてしまって心の堪え難くなっている。縮み込んでしまったそれに合わせるように、身体の屈折が止むに止まれぬようになった。このままでは恐怖の底に心身は埋葬されると思われた。であるのならば、そうと思うことは止めてしまった方が絶対に良いとまた思い直されるのだ。しかし思い直してみたとても、一たび落ち窪んだ恐怖の穴部へ自らダイビングして行った私の心がまた、平常な地平へ戻って来る為に掛かる時間は決して短いものではない。そうして身体ごと俯いている内に消えてくれているのが大方の心霊現象であろうというのに、実際には小僧は未だに、ああ、ああ、と喉奥から真っ黒いその声を漏れ出ださせ続けているのである。

(ああ、ああ)

 私もまた、彼に列れるように心へと漏らしている。それは暗黒の穴中に藁をも掴むような心持ちで、平常へと這い上がって行く為の切っ掛けを捉えようとする、或る種の脱走工作であった。これがふいにされているというその時に、つまり行為の上でその行為の恐怖に対して持つ意味に就いてを知る、という成り行きがふと結実を見た。私は彼の呻きの真似をしてみると、存外に恐れが遠退いて行くというような気がして来たのだ。これは発見であった。すると私は俄然やる気になって、心の声を増幅させた。ああ、ああ、ああ。次第に心の声は反り上がり、声帯にまで上り詰めて来る。そうして私は、

「ああ、ぁぁあ、ああっ」

 と大きな声で言い始めた。内になるだけしたためてから発話をするということの気恥ずかしさが、ついし損じた口紅のように頬を掠去る。ほんの一瞬のことだ。表現上のこととて口紅を唇に塗るという行為をしたことは人生にただ一度きり有ったというだけのことだが、口にするなりに尚増して心的の妖しさが増幅されて来るこの呻きのような物真似の方は、殆んど人生で初めてこれをしているというような気分に私は成っている。これは人真似というよりも、或る傾向を持った人という生き物の物真似であるのだと、私には思われていた。発音の、小僧とユニゾンして行くようにしたくて計らっている心は、心自体からして彼にユニゾンするように、その形を似通わせて行っている。心には恐らく措定のされている小僧の心情というものが私のものの下敷きになっていて、その形勢のままに私は筆を持って彼のものをトレースしているというような状態でこれはあるのかもしれない。透かしてみると、見えている。見えて来るものへと私は次第に恐れを感じなくなる。それはつまり恐怖の正体というものが私の血肉となることで判って来るということなのであり、また私がそうして脅かされ続けていたものへと私自身が反って成り行くというその心情変化の先に、今度は私が、というような攻勢転換の有り得ているということを見出だしたが為、そこをイースト菌のようにふくらんで来る安心感がその温かさで小僧への恐れを過去へと退去させているのでもあるだろう。

「ああ、あぁぁぁぁっ、あ、あっ」

「ああああ、あっあっ」

「ああ?あっあっ、あぁぁぁ、ぁぁぁあ」

「ああ、あっ」

「あっ、ああ」

「あめふらし」

「あ?」

「あめふらし!」

 小僧は吸い付かせていた顔面を突き放したようにして私へとその言葉を叫んだ。私は一応空を見てみた。それは変わらぬ曇り空ではあったのだったが、その為にも未だ降り出してはいないという空は決して雨空ではないのである。であるのだからして、この期に及び、初めて人らしい言語をふと洩らして来た小僧の意味するところが私には、しかし未だ判然とはしかねている。あめふらし。降雨を先触れる予知のような言葉であろうか。だがそれを私にこうして告げている理由とはまた一体何であるのか。むしろ私の方が予知をして、この先の降雨のことを彼へ先触れてやったほうが良いくらいだ。何故なら彼は車の中に居るのではない。私は車の中に居る。雨水に降り込められるのは彼の方である。私ではない。と、雨水被るのことを対位せしめて考えているというこの推測思考の地平上へと、ふいにべたりと降って来たものは雨水、では勿論ないのであって、あめふらし、である。アメフラシである。そういえばそのような名で呼ばわれている魚介の類いがあったと思い出し、すると更に列れて思い出されて来るのが、ウミウシ、だとかいうカラフルで、臓物じみた海の生物だった。魚介の類いである、アメフラシ、はもっと細かに言うなれば、ウミウシ、の類いである。海に棲息をしているナメクジのような、或いは例えばナマコのような。そうだった、と私は思った。しかしだけれど、それが何だ、とばかりは未だ、いずれにしても思われ続ける。それで、あめふらし、が何だ、小僧。と私はそのように言い出しかけた、その時、今度は雨水どころか天啓のように晴れ間の差して来るという閃きが頭の内に起こって来た。そのことで私は胸を押されたように戸惑った。閃いている頭や胸に、じわじわと影のような意思を以て更に疑惑を差し込みやった。しかしながら、どうもそのようにして閃いてしまったその先には、それがどうでも真実であるのでしかないとする納得感しか生まれては来ないのだった。すると私は直感の下に、是非もなく信じてしまっているのである。こんなにも、馬鹿げたことをでも。

「あひる」

 私は言った。嘘だろう、と思ってもみるのだったが、それは思ってもみているというだけのことに過ぎない。私は、こちらの信じた通りの返答が必ず彼からはあるだろう、とも早疑うことをしなかった。

「あかちゃん」

 そうして思った通りだ。私は呆けさせた口元がだんだんと笑む為に閉じて行くその捻れたやり方を頬にひときわ感じた。たとえ得心したとても、このように異様な子供を相手にしてはなかなか上手くは笑われないものだ。私は小僧を指差しながら、判った、よく判った、と何度も頷いてみせた。その為に彼の顔をよく眺めることになった。私のことをだいぶ脅かしてくれていた小僧の表情は、やや憂いている頬だけが優しげであるという、仏頂面のクソガキだというのに過ぎない印象をしていた。こんなふうな顔だったか、と私は些か訝しんで思うのである。しかし現にはこのように他愛のない、歳のままの表情をさせている小僧であるということは疑いようのない事実なのである。その事実は決して、私を恐れさせはしない。たとえ何故この子供が、私の独りでに始めていたに過ぎないはずの、あたまとり、に中途参加をし出したものか、それが一向に判らない謎ではあるのにはせよ。

「あらし」

「あまぐり!」

「あき」

「あまてらす!」

 私の解に次いで彼の解は殆んど間断のなく叫ばれた。私は、あまてらす、と彼の言い放ったその時、そんな言葉をよく知っていたな、こ奴、と感嘆をして思わず手を叩いた。そんな素直な反応の思いがけなさに私自身がつい驚いてしまっていたのだったが、小僧の方はと言えばそれで照れてみるのでもない、ただ彼のぺたんとした一重瞼から目をひん剥かせて見て来るだけで、そうして次に私のする解をせっつくように待っている。しかし私は本当に、真実他愛のないことだ、と思うに列れて、こうして、あたまとり、などと内的に称してしているこのあ行のあの語からしか始められぬヴォキャブラリーの羅列を、よくもこんなに楽しもうとこのガキはしているものだと哀れみたくもなって来た。これなら先ず、投げやりな気持ちから自らで、自らに過ぎ行く時間を馬鹿にしようとしてした奇の衒いなどはもう止めてあげた方が余程良い。本当に、しりとりをでもしてやった方が未だ彼には楽しいはずだろう。そんなふうにも思うのだ。しかし何せよ、小僧の方で渇望的に望んで来ているようである、あの語の私の方でする解を、ただ与えてやっていればそれで彼が満足をすると言うのなら、彼の為にはそんなことでも充分なのだろうと、私も適当に考えておいてしまえば何一つ間違いはないはずなのだ。私は再び彼の走行を見てみた。走行は先程と寸分も違わない卍の回転をさせて行われていた。あれが例えば私の首か何かにそのままの速度をして巻き付いて来ようものなら、痛い。すると私は、何としても小僧に対しては間違った行いをする訳には行かないという気持ちにふと移ろう。それは実に再度巡る来る私の内の恐怖心との対面を意味している。従って私は、あたまとり、を続けなければならない。それはやがては決意であった。私はこのように私のお見逸れしている彼のご機嫌を、ある程度までは伺い続けた方が良いだろうと考えざるを得ないのだ。無論、しりとりの方が遊びとしては未だマシなものだとは判っている。だが、全体私たちの方でする感覚的の物差しと彼のものとで、著しい相違がないとは言い切られない。少なくとも現状に於いて、小僧は、あたまとり、をしているのだし、したがっているようにも見えている。それならそこに私の為の無事無難さは予めから用意をされていたのである。何もいたずらに新しい提案をしてみて、それで彼から思いがけない反応を引き出すことで自らを危機に陥らせようという藪蛇を、わざわざと働きかける必要などは全くないのだ。

「あんぱんまん」

 私は言った。あんぱんまんは、ん、で終わる。しかしこれは、あたまとり、なのだからそれでも必ずセーフだ。

「あんぱん!」

 小僧は言った。楽をする卑怯者の怠慢め、と私は思った。

 あづちももやま、ありすとてれす、あしか、あいきどう、あたりめ、あなぼこ、あいじん、あに、あみ、あやとり、あらまたひろし……

「あべしんぞう!」

「あぁ、あ、あらごしとまと」

 あそうたろう、あしながおじさん、あきんど、あばしり、あまえび、あさひ、あゆ、あゆのつかみどり、あるぺん、あこうろうし、あんたれす……

「あ、あ、あぁぁぁ、あき」

 と、小僧の顔が豹変した。非常な速度で首が傾げた。首が折れたのではないかと思われるほどの速度だ。それから小僧は口を鋭くすぼめたまま、

「あきは、さっき言ったじゃん。お手付きだよ」

「うむ」

「お手付きは二回までだよ。三回目は」

「何か」

「あたまとりだよ」

 三回目は、あたまとり。どういうことだ、と私は疑問に思った。思ったが、思うのと殆んど同時に嫌な気持ちがとろとろと膜を張るように胸を落ちて来た。つまり、いや、しかし、

「あたまとり、って、何をどうする」

「おじさんのあたまを取るよ」

「そうかね、だがどうやって」

「こうやってだよ」

 と言うと小僧はすぼめた口の先端から大きくて長い、ひじきのような黒いものを伸ばして来た。そうして本当に小僧の首が折れてしまった。そうと思うより仕方がないほどに有り得ない角度へと小僧の首はねじ曲がった。次の瞬間、首が、彼の走行をする異様な足の運動のように鋭くしなって、大きなひじきが空を切った。なるほど、そうか、と私は思った。

「だが、しかしどうやってそれで切る」

「今、見せただろ」

 私は窓ガラスを軽く叩いた。こんこん。

「こんなのがあってだな。これがお前と俺とを隔てているよな。そうするとお前がそこでそうやって、びゅんびゅんしてたって俺の首切りはぜったい無理だよな」

「中に入るよ」

「ドアノブみたいなのは無いんだぜ」

「ドアノブみたいなの、あるよ」

 小僧がそう言うと、ドアの中身からこっという音が鳴った。経験の、車に纏われば幾度ともなく聞いて来たはずの音である。私は私の心臓が止まってしまったかのような気持ちになった。私は私の背筋の凍り付く音さえ、こっと鳴るのを聞いたような気がその時にした。内部にあって然るべきドアハンドルはなくしてしかし、外部にはそれが然るべくしてあるのだという。そんな無茶苦茶な、小僧の都合にだけ合っているというような、そんな私には不利な、やはり、どのように考えたのだとしても無茶苦茶である、というだけの話が本当にあるか。あるのだ。それが無いのであれば私は私の耳に、こっという音を聞いたりはしなかったのである。私は息詰まるように呆然として小僧の顔を見詰めた。小僧は何の気なしといったような表情へとまた彼のものを変化させたその上で、私のことをずっと見詰め返している。しかし、違う。私は必ず違うと思った。必ず違うということはつまり必ず小僧はこちらのせざるを得なかった動揺を知っていて、それを必ず知っているという隠せざる事実を、彼の表面のいずこかに表して見せているはずなのである。私は見詰め続けた。と、次第にゆっくりとだったが、彼の面全体が左右を吊り上がって行く動きをし始めた。私は認める。それが笑みだ。彼の隠せざる、人をいたぶっているという自覚の下に露とはすまいとして隠し通そうとしている、愉悦の心情だ。私は怒りを感じた。こまっしゃくれた小僧がガキの分際で、人様の命を弄ぶような真似をしやがる。許せん。私はそう思った。

「ち」

 私はそう言った。

「なに」

「ち、だよ。ち。あき、ち。あきちって俺は言おうとしたんだよ。あきちは未だ、出てないだろう」

「それはずるだ!」

「ずるなものかよ。お前の方がそそっかしいんだろうが。俺はちゃんと、あきち、と思ったところで、そうやって言おうとしたら、あき、まで聞いて、お前が鬼の首取ったみたいに、ぎゃおぎゃおぱおぱお言ってくるんじゃねぇか。俺はお手付きなんかしてない。しているのはお前の方だ」

「なんで!」

 そう言ってみると小僧はこれは、本当に驚いたものらしく、彼のぬるりとした一重瞼を丸く見開かした。そうすると急に小僧もその表情を一段と歳の頃らしく憂いあらしめて来だした。すると私は、ここだ、とばかりに彼の弱り目を押して行くのでなければ済まないという気になって、

「あと、お前は、ありすとてれす、と言ったんだったよな。ありすとてれす、アリストテレスのあ、は日本語の、あ、なんかじゃない。アリストテレスは本当は、Aristotle、と発音をする。聞いて違いは判るだろ。お前の思っている始めの、あ、は本当は、e、だ。それを日本語で言うんだったとしても、e、はどうしたって、え、だ。馬鹿め。これでお手付き一回」

「そんな!」

「次にお前はあるぺん、アルペンと言ったんだった。アルペンとは、Alpine。つまり、あ、の本当の発音は、ǽ、だ。これを日本語で言うんなら、あ、並びに、え、の中間くらいの音だ。あ、並びに、え、の中間くらいの音が、あ、の音そのものでないことは完全に自明だ。従ってお前は、これでお手付き二回に決まってる。従ってお手付き二回」

「ひどいよ!」

「ひどくない。俺が始めたのは、あ、のあたまとりなんだ。それ以外の音でなんか始めちゃいない。さて最後に、お前のお手付き三回目は、あんたれす、だ。Antares。æ、だ。これは言っても意味はないが、アクセントからしてお前のは違う。何が、アンタレス、だ。それじゃ、ちゃんちゃらちゃん、だろうが。実際には、ちゃんちゃーら。ガンダーラと一緒だ。因みに英語で言う、Gandharaも、ちゃんちゃーら、でおんなじなのである。つまりお前はお手付き三回目なので、あたまとり、されるのはお前の方に完全に決定なのである。馬鹿め」

 ひどい、ひどいよ、と小僧は繰り返す。私は、事実を言ったまでだ、とするぶ厚い面の皮でそれをやり過ごす。真実、私はやり過ごしているのだ。理由は幾らでも述べられるが述べられようともそれをしようとは思われない。やり過ごしているという行為そのものの意味が述べることによって失われてしまうからである。無論、内心では、アリストートルであるアリストテレスは古代ギリシャ人であるのだから、現代音を以てしても未だギリシャ語でその名を発音するのである方がより正しいのだろうとは思っている。それに私自身が彼の来るより前にはカタカナ外来語を用いて、あたまとり、をしていた可能性は充分にあった。それはよくは思い出せないというだけで、事実、そうであったに違いない。実に私はそもそもから、あたまとり、程度のものであっても誰かと相対するという場合に、こんな手口をでも用意しているといういたずらっぽさを自身に秘めていたのである、だから、私はそうして用意周到にカタカナ外来語を用いてはこれに臨まぬようにとずっと気を付けていたのだった。如何にも信じられないことである。

「それじゃ、おじさん。僕の、あたま、が取られちゃうってこと?」

 そうだ。賢しそうにしているガキの分際には、そのようにしたがっている頭などは無用のものである。果たして機敏な、異常の彼の身体性に、頭でっかちに考えてしまわれる頭脳などない方が健全で、あたまとり、なら私は小僧を生きることの不善から救ってやっているくらいの善行を施しているのだ。と、私は興に乗りつつ彼へとは続々と言い募ってやりたいような欲求を覚えはした。しかし、そこまでして追い込んでしまわないでも良いだろうという判断が、ふいに訪れて来た小僧の哀れっぽさから内にぽつんと導き出されても来るものだ。やはり小僧は小僧である。私の怒りは満足した。小僧の内面が小僧らしからぬという不具合から延いて、今や小僧は小僧らしいとしか言い様のない内面を、その表情へと反映させている。柔らかな憂いた両の頬に向かって目尻が下りかかっているという哀切さは品評をするに値する。そうして私は品評してみて、実にこれが小僧にとり尤もらしくて適切だ、と髭の伸びた顎を頷かせた。小僧の顎には髭など生えない。これが子供と大人との力量差分をその蓄え方に物語っているという私のひじきである。果たして、そんなふうに束の間思う充足感が、やがて小僧に破られぬ哀切と不安との表情を見続けるに列れて、自身はただ無情にして卑劣であるばかりの大人だといううら悲しさへと転じ始めた。

「お馬鹿。俺がお前のあたまを取ったりなんかするかい」

「ええ?ほんとう」

「本当も何も、俺が始めた、あたまとり、にはそんな酷い仕打ちを敗者へ下すような規則はないよ。つまり頭は無事だよ、お前のも。もちろん俺のだって無事だ。二人とも無事でそれで良かった。めでたしめでたし。で、もう充分だから、これで終わりで、お開きだ」

「でも、それは違うよ」

「なに。何も違いやしない」

「違うよ。おじさんは何にもわかっていないんだよ。あたまとり、は必ず負けた方のあたまを取るんじゃなきゃ終わらないんだよ」

「あのな」

 私は言った。しかしながらその先を言うにも言われぬくらいに割って入って来ようとする小僧の言である。それを指先で裂きたいように、幾度も押し止めながら、

「いいか、待てよ。あたまとりってのは、おい、待て、喋んな。あのな、いいか、少し聞いてみろ、聞くということをしてみろ、いいか、あたまとり、なんてのは、俺の作ったでたらめに過ぎない訳だ。そんなものは俺の手前で、いくらだってルール変更可能なもんだから、お前、おい、ちょっと聞けよ。時には聞けよ、先ず」

「ダメだよ!」

 小僧は言った。小僧はがなったのである。

「ルールは厳格なんだよ!」

 小僧の顔はうっ血をしたように赤黒くなっていた。あともう少しで、それは葡萄の大きな玉のようになる。しかし、

「しかし、お前が決めたルールだろう。それはそれに過ぎんのだから、自分で助かろうとするんで良いんじゃん。しなさい」

「違うんだよ、わかってないね。あたまとりの公式ルールだよ。ベトゥウリ・ナサタヌゥートゥ・ペングリオリオー第三者審級がそれを厳格に定め、敷衍し、一般的下位構造に求めたんだよ!」

「なんだって」

 なんだって。小僧が何を言っているのかが判らなかった。ベトゥウリ・ナサタヌゥートゥ・ペングリオリオー……なんだって。

「判らん。何を言った。何と言った。あと、お前の顔はそれで大丈夫か」

「もう、おじさんは、ぜんぜん、だなぁ!」

 うっ血は充血とは違うものだ。今、このようにうっ血をしているかのようにしてどんどんと黒みを帯びて行く小僧の面は、そのうっ血という言葉に形容をせられる通りに彼の血の流れがそこで滞ってしまっているかのような、というような案配で変色をして行っている。一方で充血ということは、そこに血の流れが平常よりも夥しいという案配を差して言われる言葉なのだったが、正に今吐き出した小僧の、ぜんぜん、という語の響きにこそ、そうした充血の気が聞こえ出していた。発語に血が通うとは文学的な表現に過ぎないようである。しかもそれは充血というほどに殺到して通い来る血がそこに殆んど溜まって聞こえているというような発語なのである。ところが、文学的な表現であるのに過ぎないものであると言うのならば、或るときに人の実感の特別に籠った言葉をそれは指し示しているというだけのものに過ぎない。そうではないのだ。確かに小僧の或るときである今しもに小僧は、彼の、恐らくは神なるようなものへの実感をその言葉へと乗せてはいただろう。しかし、それだけではない。その言葉には、その発語には本当に、血が流れ、それも夥しくして血は流れているのだと聞こえて来るというほどに、言葉の充血はそこへ確かに熱っぽく行われているという不可視の物理的現象だったのである。

「おじさぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!」

 小僧は叫んだ。遠くに居る私へそうして呼び掛けているかのような小僧はしかし、車のサイドガラスを一枚隔てて、目と鼻の先に居る。私は咄嗟に、死するものの遠退いて行く意識の底から、私へと彼は呼び掛けて来たのではないかと疑った。その意味はつまり、小僧は今にも死んでしまうのだ、と私にそう直感をされたということだった。それも恐らくは彼は、あたまを取られる。神なる何ものかに因って。私にあたまとりで敗れたというそのことの為に。これは困ったことになった、と、そう口を衝いて出そうになっている私は、それどころではないと、凍り付いてしまいそうになっている私でも同時にある。

「おい、居るぞ。ここだ。お前、もうやめろ。やめさせろ」

「ぼくのぉぉ、あたまはぁぁ、取られるよぉぉぉぉ!」

 取られない、取られるはずはない、と私は言って聞かせようとする。これは私は、私自身へと言い聞かせているのでは決してなかった。私は運転手へ振り向くと、車を止めろ、と言った。それからどうせ、どうでも相手からの反応はないというそのことを見越した上で、運転座席を後ろから蹴り付けた。私はかかる体勢から出来得る限りの力を以て、そこへと蹴りを投げ付けてやった。しかしそれでも反応の兆しは見られない、という寸でには私の身体はもう前のめりになっている、どうせ、どうでも相手からの反応は有り得ないのであるのだから、蹴ったとしても同じことなのだ。それなら、ハンドルを奪うのでしかない。アクセルを放つのでしかない。ブレーキを踏み付けるのでしかない。全て、私が私自身で為さねばならぬことだ。そうして飛び掛かろうとしたその時、

「あぁっ!」

 小僧が再び声を上げた。

「おじさぁぁぁぁん、見ててぇぇ、今、取られるよぉぉぉぉっ!すっごぉぉぉぉいっ!」

 私は見ては居なかったのだ。私は運転手の襟首を掴んでいた。ハンドルを握り締めている力の抜け落ちた腕を遮ろうとしていた。わたしが見たのは、すごい、という小僧の言葉が破裂した音を聞いてからだった。それでも私は殆んど全てをこの目にしたのだと思う。

 もう小僧の顔はそこに無かった。つまり首から上に人の備えている、あたま、と言えばと直覚のせられる所謂、頭、であるところのものが完全にない。それは決してない。しかし何ものもそこに無いのでは又ない。のであるからして何ものかは未だそこにあるのだと言える。言い得られる。言い得られるのであるというその以上そこにあるものはかつては頭であったはずの何ものかなのであり、そうしてそれは殆んど必然的に、かつて小僧の頭であったはずの彼の花開いた肉塊であるのだと思う。花開いた肉塊であるのならまたそこにうっ血していた彼の血はびゅうびゅうと吹き出していることだろう。私はしかし、そうして見る間もなく頭に想定していたような凄惨な光景を、実際にはこの目に見ていない。確かに、小僧の頭は既に無かった。確かに、頭のないそこに花開いている彼のかつての頭はあった。だが花開いている彼のかつての頭はひじきであった。無数のひじきが、花弁のように小僧の首を咲いていて、それらは黒い磁性流体のように尖り立っている。時と共に尖り立つそれらの内のいくつかは、切なく伸び切ってしまうと、ぴっ、と千切れ、飛ぶ。飛んで来るひじきの片々が車の速度に後方へと押し流されながら、しかしいくつかは窓ガラスを付着して、よく見える。ひじきだ。ひじきが流れ落ちる。また、ぴっ、ぴっ、と飛び散って来る。私には小僧が笑っているのが目に見える。笑っているというその笑顔はもう既にそこには自生してはいないのだ。だから私の目に見えている彼の笑いとは、あはははは、という彼の笑い声なのである。今、あはははは、の一部が窓ガラスへ付着した。それがまたずり落ちて、ガラスとサイドドアとの隙間に挟まった。この様子ではあといくつかの、あはははは、はその隙間に挟まり続けて、いずれは黒い雪の積もったようになるだろう。

「痛くはないのか」

 痛くはないよ、が、ぴっ、と尖った。痛くはないよ、は切断されるなり風に吹き流された。ほらね、こうなったでしょ?がまた生まれて来た。私はそれが天上へ滴り落ちて行こうとする雫のように、ふっくらと彼の首上を勃興するのを見ていた。

「生きているのか」

 まだ生まれてすらいないのに、が盛んに飛び散った。それはどういう意味だ。あはははは、が千本生えた。まだ生まれてすらいないのに、の意味は、が突発をした。ひじき全体は波打った。そうして、まだ生まれてすらいないということだけだよ、は心拍の波形のようにじぐざくと生え伸びて、やがて萎れた。ひじきの渦がある。小僧の首上に花開いているひじきの黒い海には、ひじきの渦がある。そこから万感を込めて上り詰めて来たひじきは、おじさん、だった。

「なんだ」

 私は答えた。おじさん、は先端を鋭くさせるとロケットのように切り離されて、真っ直ぐ上方の空へと出発した。それから一切れ一切れであるひじきが一同にぐつぐつと煮立って来た。すると、遊んでくれてありがとう、が一斉になって窓ガラスへと飛び掛かった。窓ガラスは、遊んでくれてありがとう、にまみれた。果たして墨汁に濡れそぼったようである窓ガラスである、が、一々を見て行くとそれらは確かに、小さなひじきが重なり合っているのである、遊んでくれてありがとう、なのだった。私は頷いた。頷くというそれだけで良いのだと思った。だから頷いただけであった。或いは言葉は要らないのであって、小僧の方でももう既に無いのであるその目に映じることで、私の言われぬ言葉をそこに盗み見るのではないかと思われた。走り去る風が窓ガラスのひじきを拭い去って行く。と、最後に歯磨き粉チューブを絞ったようにしてペースト状めいたひじきの群体が窓ガラスへと追い縋った。それは、反応なしかよ、なんか言ったら、であった。私は思いがけず、豚のように鼻を鳴らしてしまった。

「はいはい」

 すると頭なし、あたまとられの小僧の身体がぱたりと止んだ。私は、急いで後ろのリアガラスから小僧の姿を確認しようとして振り返った。本当に小僧は走りを止めていた。その姿はだんだんと遠退いた。遠退いて行くに列れて、遠退いて行くばかりに小さく見えて来るはずの小僧の身体はむしろ大きくなって来た。やがては小僧は青年だった。やはり始めに遠目で見た時の姿は、見たと思ったのに過ぎないという幻の姿なのではなかった。だがそれも次第に遠間へ延いて行くこの距離の上では、また黒いというだけのか細い切れ目に彼は早くもなって行く。それが今になって、一本のひじきに見えている。遠く後方に微かであるひじきは消えて見えなくなるその間際に屈折をした。私はこれで全てを見送ったのだと感じて、一息深く漏らしてしまうと、居直った。こんなことがあっても、車は余りにも間断なく、依然として例の緩やかな速度を保ったままその走行を止ませはしない。私は再び、溜め息を吐いた。臭う車内だ。ふと起こることも巻き起こってみれば、それに対応をしようとして追われているというコンディションは我知らず変調を来しているものである。まるで腹に鎮めの石をでも抱えているかのように、私は車酔いから覚めていた。目を瞑ってみるのである。

厚着をして、汗をかいて、病もろともにそれを洗い流そうではないか。きっと、洗い流されるものの汗と病とであるだけなのではない、とそう信じることをして。

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