断てよガムシロップ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
こーちゃんは、一日にコーヒーどれくらい飲んでる?
いや、なんか昼間は飲んでる印象だけど、暮れるころにはパタリと飲んでいない気がしてさ。いったいどれくらいお世話になっているか知りたくて。
……コーヒーカップ3、4杯くらい? へえ〜。
僕も最近、コーヒー飲み始めたけれどブラックで飲むのって、しんどいんだよねえ。いまでこそ世界に少しずつ認められてきたみたいだけど、ひと昔前はブラック飲みは少数派と聞いたことがあるよ。
ちょっと調べてみたんだけど、昔のコーヒーは現在より煎れ方が深くて、苦みがしんどいものが多かったらしい。
そのために人々は、砂糖やミルクをくわえて飲むのが日常化しており、年月が経ってもなかば慣習のように続けているのだとか。
その点、日本はお茶文化に親しんでいるためか、素材の味をそのまま感じることをよしとしている。舌そのものも、世界有数の繊細さを有しているとのことで、苦いコーヒーそのままでも、楽しむすべを見出していったのだとか。
そう考えると、コーヒーに手を加えたがる僕は、日本人としてはみみっちいレベルなのかな。ふふふ。
そのせいなのか、奇妙な目に遭ったことがあってさ。できる限り、ブラックに近づけて飲もうと努力しているんだ。
そのきっかけの話、聞いてみない?
僕の一時期のトレンドは、ホットコーヒーにガムシロップの組み合わせだった。
――ほーら笑った。「ガムシロはアイスに使うもんで、ホットは砂糖を入れるだろうが、たわけ」って顔だ。
実際、ホットにはガムシロより砂糖を入れる方がよいとされている。
理由として、ガムシロップの成分は、熱を帯びているものと一緒だと甘さを感じづらい性質を持っているらしい。
そのためホットで砂糖と同程度の甘さを感じるためには、より大量のガムシロを投入しないといけない傾向にある。だからカロリーを控えるためにも、ホットには砂糖をくわえるようにしたほうがいいのだとか。
しかし、僕はかたくなにガムシロップ派だ。
砂糖と僕は相性が悪い。丹念にかき回したつもりでも、いざ飲み干す段になれば、カップの底にへばりつく塊を目にすることになる。こいつが嫌だった。
粉末関係にいえることだけど、これらの溶け残りを見てしまうと、個人的にもったいない感がすごい。一か所に肩を寄せてうずくまって、目に余る拒絶の姿勢だ。
そうまでして僕の口に入りたくないかと、いささかむっとくる。ならば最初からコーヒーそのものになじみ、見える固体を残さないガムシロこそが、僕の胃にやさしい。
なので僕はガムシロを入れる。ひとつ混ぜてはかき回し、満足いかなければ次を投入。同じようにして、不満があればまた投入。
たとえ多めになっても問題ない。粉が身を寄せ合う、あの姿さえ見なければいい。
なにやら対決の様相さえ見せる僕のコーヒー飲みは、日に日にガムシロ投入の量を増やしていった。
カフェインを含む飲み物は、眠気を飛ばすというけれども、このガムシロたっぷりの味付けはその効果を上回るほどなのだろうか。
寝る前に口にするとむしろ熟睡できる傾向にあり、寝コーヒーが僕個人のお気に入り。
ガムシロの事情を知る親からは、歯をちゃんと磨きなさいよと、小言をよくいわれたけれど。
それからしばらく経って。
はじめに気が付いたのは、給食で出たけんちん汁だったと思う。
やけに薄味だなあと思いながら、飲み干した直後。器の底に黒ずみながらわずかに溜まる、液体の姿が見えたんだ。箸の先につけてなめると、つい口をすぼめたくなるくらいのしょっぱさが舌を走る。
醤油をじかになめたかと思った。もしかして、やたら薄味を感じたのもこれだったのか。
帰宅してからの夕食も豚汁。これもまたヘルシー志向の薄味。ほうれん草を入れなさいとはいつものことで、その葉物のためか味がいくらか薄まるのは慣れっこのはずだけど、今回は度が過ぎる。
そうして底をさらう段階になると、あの濃密な液体が横たわっているんだ。
二度、豚汁をお代わりし、よくかき混ぜてみても結果は同じ。はっきりとした溶け残りがあったよ。
先に話した嫌悪感もあって、僕は汁物類を残すようになる。
飲み物に関しても、似たようなものだ。市販の牛乳やジュースの味がやたら薄いことが続き、底には果汁や味を濃縮した粉のようなものが残ってしまうんだ。
他のみんなが飲むときには、そんなことはない。何かに嫌がらせでも受けているのかと、腹の立つままスプーンなどを突っ込んでかき回す僕だけど、そのしつこさが実を結ぶときは訪れなかった。
ただひとつ。残らずにいてくれるのは、ガムシロ入りのコーヒーのみだ。
僕はますますコーヒーへ傾倒して、他の飲み物やスープ類は申し訳ばかりいただいて、残すようになっていく。
そんなある日に、母親から妙な話を聞く。
ここのところ、ベランダに干している洗濯物へ鳥などが寄ってくることが、多いのだという。
特に、僕の布団を洗って干すときには、その傾向がより顕著なのだとか。くだんの寝コーヒーの件もあって、布団にこぼしているんじゃないか疑惑があったわけ。
誓って、そのようなことはしていない。この手の汚しを母が嫌うのは、とっくの昔から知っていたし、細心の注意は払っていたつもり。
母も僕に劣らぬ負けず嫌い。だったら実際に見せてやると、次の休みの日に僕の布団を洗って干すから、それを家にいて見届けろときたもんだ。
休日は、絶好の洗濯日和。
服を掛けられた物干し竿の向こうで、ベランダの手すりに沿い、家族全員分の布団が干されていた。
僕はそこに面する窓のそばに「特等席」といわんばかりの椅子を用意され、そこで見ていろとのお達し。来たときの対応は自分がするから、手を出すなとも。
意地の張り合いだ。なら見届けてやろうじゃないかと、僕はコーヒーカップをそばのテーブルに。ぽんぽんガムシロを入れ、足を組みながら椅子に腰を下ろしていた。
実際、勝負にすらならなかったよ。母の圧勝だ。
干し終わり、僕が椅子に座って10分と経たないうちに、灰色の鳥が一羽、僕の布団へ舞い降りた。
ヒヨドリだ。両目のふちを赤く染めながら、僕の布団のてっぺんへ降り立ち、首を上下させながら、その表面を軽くついばんでいく。
そうこうしているうちに他のヒヨドリたちも集まってきて、母が戻ってきたときにはもう4羽ほどが布団を席巻。たちまち追い散らされていった。
しかし彼らも、時をおいてはあちらこちらに飛来し、気づかれるや追っ払われていく。
ヒヨドリでなく、メジロが現れることもあった。
サイズの差はあれど、彼らもまた布団たちの上をちょんちょんと跳ね回り、こづくように口の先を動かしていく。
干し始めて、およそ4時間のうち、のべ100羽近くベランダにやってきただろうか。トイレや昼ごはんでいったん席を外すことがあったから、もっとかもしれない。
うちではあと1時間ほどで布団を取り込む頃合い。僕に見せつけるためか、あえて布団はそのままにしてあった。
白旗はとっくにあげているも、最後まで見届けろとのことで、僕はまだ椅子に座っている。ガムシロコーヒーももう4杯目だろうか。
これまでの3倍、すべて飲み干したけれども底に残るものはなにもなかったのだけど、これも僕にとっては少しおかしい。
実はガムシロなしのコーヒーを、試しに飲んでみたことがある。例の飲み物残りが気になったからだ。
結果、たとえブラックコーヒーであっても、底にコーヒーの塊が残った。インスタントでもドリップでも、かけらが入っていないことは飲む前にしっかり確かめたというのに、いざ終わるときには底に残る。
コーヒーもまた薄味、薄香りだ。水、とまではいかないが、苦みもまたいまひとつと、半端な気持ち悪さがあったよ。
ただガムシロ入りのみ、残ることが一切ない。
あたかもガムシロが、本来残るものを全部すくい上げているかのようだった。そうまでして、僕の体の中へ入りたがるのはいったいなぜなのか……。
考えをめぐらす僕の耳に、突然飛び込んできたのは、鳥たちの悲鳴。
顔をあげると、僕の布団へすでに二羽ほど足をとめていたヒヨドリが、バランスを崩している瞬間。
奇妙だったよ。中に何かがもぐりこんだか、それとも上から引っ張ったのか。
布団は中央から大いに盛り上がり、山のようになっていた。そこから逃れようと、一羽のヒヨドリはのけぞり気味ながら、飛び立つことができたんだ。
だがもう一羽は、明らかに高度が足りない。
振り払われたその体は、布団の向こうへ落ちゆき、隠れてしまったのだけど、見えなくなる直前。
腹のあたりに、急に溝が真一文字に走って、その上部と下部がそれぞれ違う角度で倒れていったように見えたんだ。
そして盛り上がった布団の部分は、耳障りな音とともに、ひとりでにちぎれ飛んでしまったんだ。
中ほどから食い破られたそれが、ぼすんと手すりに着地。振動がベランダ全体へ伝わった。
洗い物の途中の母が駆けつけてきて、状態を確認。ヒヨドリもまた、僕が見たような無残な姿で下に転がっていたらしい。
取り込まれた布団を試しになめてみると、ガムシロップの味が口いっぱいに広がったよ。
そして、僕の頬に浮かんだ汗もまた甘みをたっぷり含んでいたのさ。
どうも僕の出す汗にお熱な甘いもの好きは、鳥だけじゃないらしい。
以降、僕はガムシロを含めた糖分控えめな生活を心がけている。あの得体のしれない奴に、じかにかじられる時が来るのは勘弁だからね。