真偽
遠くの方に見える、神社さまのような大樹の上で無数の鳥たちが羽を休ませている。
ただ、ぼーっとそれを眺めていた。
しかしそれは、とある拍子に一斉に飛び出した。
前屈みに、だらけきった背筋を伸ばして、飛んだ鳥たちを目で追う。
何故鳥たちは急に飛び出したのか?
そんなありふれた疑問が胸の内を落雷のように横切った。
誰かが石を投げたのかもしれないし、何らかの大きな音で驚いて飛んだのかもしれない。
はたまた、お腹が空いて飛び立った一羽につられて一羽また一羽と連鎖したのかもしれない。
そこには一つの確証だって無いし、もっと別の要因があるのかも、しれない。
なんなら実は間違っておらず、一言一句すべてが完全解答なのかもしれない。
ひょっとすると、鳥たちが存在していなかった可能性だってある。
……もうやめよう、いくら考えたって無駄なのだ。
考えた、想像しただけで正解が得られるなんてことは絶対に無いのだから。
でも、はっきりと正解だと分かる完全解答を僕はいくつか知っている。
一つ目は、今お腹が空いているということだ。
自慢じゃないが、ここ何年かは朝ご飯を食べ損ねた日は無い。
朝ご飯は、スカスカで窮屈になった胃袋に満足感と幸せを運んでくれる。
それに、頭が冴えて自分はもしかすると天才なんじゃないか、と錯覚してしまう日すらある。
それくらいに朝ご飯というものは、僕を形作るものの一つなのだ。
二つ目は、時間の流れの遅さだ。
等間隔で同じ所を廻り続けるトケイというものは、何故こうも鈍いのだろうか。
先ほどから何度も目を向けているが、一メモリしか動いていない。
これだとあと十メモリ動くのにどれ程の時間を要するのか分かったもんじゃない。
出来れば、僕が死神にお迎えされる前には終わって欲しい。
僕の喉から、自然とため息が漏れ出た。
僕はまた神樹さまの方へと顔を向ける。
いつも目にするごくごく普通の光景だ。何の変哲もなければ、興味も無い。
真上から照りつける太陽、心地良い風、青々とした木々。
本当にいつも通りで退屈な景色だ。
何か僕の好奇心を深く刺激してくれることが起きてくれないだろうか。
……あれ、神樹さまってあんな所にあったっけ?
「……さん! 聞いているの? この問題を解いてごらんなさい」
僕が窓の外の世界に取り込まれていると、聞きなれ過ぎた大きな声で机の前に引き戻された。
そうだ、まだ終わっていないのだ。
「あ、はい」
僕は立ち上がって、黒板へと近づく。
書かれている数式に目をやる。
まあ解けるだろ、と高を括って来てみたが、どうも何かの暗号だったらしい。
つまり近くで僕を見守るこの人物は、どこか遠い国のスパイなのかもしれない。
僕に機密の暗号を解かせて、国家転覆を目論んでいるのか。
「さ、早く解いて。間違えても良いから」
急かされた僕は仕方なく解き始める。僕のアイデンティティという国家が転覆されかけたからだ。
背に腹は代えられない。
窮地の展開で友を助ける代わりに自分が死ぬか、それとも友を犠牲に自分が助かるか、と問われた時、自分が犠牲になる方を選べる人間はごく少数派だろう。
口で言うのは簡単だ。僕にだって出来る。
本当にその状況で為せるのは、漫画の主人公やヒーローくらいのものだろう。
ところで、僕は難解な数式を書き終えた。
「はい、ありがとう。席に戻っていいですよ」
僕は平穏な地へと帰還した。
ここに窮地は一つたりとも存在しない。安全な場所だ。全て平等に時は刻まれる。
書き終えた黒板に目を向け、もしかしたら当たっているのではないかと一つまみの希望を胸に、耳を傾ける。
「えーと、結論から言うと間違っています」
分っていた。最初から期待などしていない。したこともない。
でもいいのだ。間違えるのは悪いことじゃない。僕のおばあちゃんもよく言っていた。
間違ってしまったものでも、ちゃんと出来るようになればいいのだ。
僕は今朝、朝ご飯を食べ損ねた。
よって極度の空腹に苛まれていた。
そんな中で暗号に挑戦したんだ。むしろここまで出来て及第点だろう。褒めてくれ。
「えー、この問題は……」
さぁ、早く解いてくれ。
そう思うと同時にチャイムが校内に鳴り響いた。規則正しい音程だ。
ちらりとトケイを見れば、針は十メモリ、確実に動いていた。
ったく、時間は流れるのが早すぎるのだ。
僕は不貞腐れるように机に肘をついた。
「はい、じゃあ今日はここまで。今日は試験範囲の復習でしたが、明日は授業を進めます。 今回の範囲は少なめなのでちゃんとやるように」
はぁ……これだから僕は数学が嫌いなんだ。
ため息をつきながら改めて窓の外を見ると、神樹さまは消えていた。
呆然とする僕の耳に、親友の僕を昼ご飯へと誘う声と、腹の虫の声が聞こえてきた。