初めての夫婦喧嘩
私は結婚してから、夫と喧嘩をするという事がなかった。それはたぶん、私が夫に対して愛情といったものを強く求めていなかったからだと思う。まぁ、そんな暇など無いくらい結婚してから今日まで色んな事があり過ぎた。小さな口喧嘩くらいはあったかも知れないが、記憶にもない程度の事である。愚痴は一度だけこぼした事がある。まだ義母が元気だった頃に、義母に対して夫が私に内緒で《お小遣い》を渡していたのを知った時だ。私は自分の両親にさえも何も出来ないでいたし、反対に援助して貰っていた時期もあった。そんな時にどうして年金の入ってくる義母に《お小遣い》など渡す必要があるのか?夫は義母に対しては、かなり甘かった様に思う。それにしたって夫が出来得る範囲のことなのだから、そんなに大袈裟な喧嘩にはならなかった。夫は私に謝り、私の両親にプレゼントを贈るようにと、自分の財布からお金を出した。それだけの事だ。ましてや暴力や暴言などという事は一切、憶えがない。でもその日は違っていた。
義姉たちが母親の見舞いに来て…といっても、何一つ見舞いの品を持って来た訳ではなく、逆に義母の大切にしていた物を奪って帰っただけなのだけれど。二人が帰ったあと、私は少し気が抜けたような感じで椅子に腰かけていた。目の前のテーブルには灰皿とコーヒーカップがある。私は義姉たちがプカプカと煙草を吸って、その吸い殻を揉み消していった灰皿の中を見つめていた。そうしているうちに何となく虚しくなってきた。ついさっき『勝った!』と思ったあの気持ちは何処へ行ってしまったのだろうか?そう思うと今度は無性に悲しくなってきた。いったいあの二人は何をしにやって来たのだ?一度だって義母のオムツを替えた事も無いのだ。実の母親だというのに!私は灰皿に残された吸い殻を一つ、手に取った。口紅がフィルターにベッタリと付いているそれを指で伸ばして、仏壇に置いてあったライターで火をつけた。それを思いっきり吸い込むと、苦い味と煙で涙が出てきた。
ちょうどその時、帰宅した夫が部屋に入ってきた。『何をやってるんだ!何で煙草なんか吸ってるんだ?』私は黙って夫の顔を、たぶんぼんやりと見つめていたのだろう。『そんな風にストレスが溜まるんじゃないかと心配して、なるべく早く帰るようにしてるんじゃないか!会社の同僚の誘いもいつも断っているんだぞ!それなのに…』我に返った私は、吸い殻を灰皿に押し付けて消した。この人はいったい何を言っているのだ?何も解っちゃいないのだ。私は夫の言葉を遮って言い放った。『何でだって?見れば解るでしょう?今日ね、お義姉さんたちが来たのよ。それでお義母さんのオムツを替えるのを見て、どうしたと思う?鼻をつまんで部屋から出て行ったわ!それでここで煙草を吸いながら珈琲を飲んで、お義母さんの大切にしていた物を勝手に持って帰っていったわ。それがこの タ、バ、コ !』『だからって今更、吸う事なんかないだろう?』私は結婚と同時に煙草を辞めていた。『今更って何?早く帰るって何?同僚の誘いを断ってるって?当たり前の事でしょう?それ以上に、毎日何をしてくれてるって言うの?』私は泣きながら、その灰皿を夫に投げつけた。『お義姉さんたちも、煙草を吸って珈琲を飲んで、お義母さんの通帳をチェックして部屋を物色して、戦利品を手にして満足気に帰っていったわ!それだけしかしなかったわ!』
『ごめん…』暫くして夫は、そう言って床に散らかった吸い殻を片付け、義母の部屋へと入って行った。その間に私は夕食の準備をし、義母の部屋を覗きに行った。既に外は薄暗くなりかけていて、もうすぐ息子たちも帰ってくるだろう。夫は暗くなった部屋で電気も灯けずに、義母の傍らに寄り添っていた。私は『もうすぐ晩ご飯だから、先にお風呂に入れば?』と声をかけた。夫はもう一度『ごめん…』と言った。それは私に対してなのか、義母に対してなのか、解らない。『もういいから、子どもたちが帰って来たら変に思うよ!』そう言って私は夫の肩に手をかけた。その肩は小さく震えていた。それっきり私は夫と喧嘩をするといった事はなかった。息子たちに夫婦喧嘩をしている姿など見せたくはなかった。そう、これは私が選んだ道なのだから。謝らなくてはならないのは、むしろ私の方だったのかも知れないのだから。
続く…
*注*
この物語は著者の体験に基づくものであるが、登場する人物、団体、場所等は、架空のものである。