自宅介護を選択
義母の《愛の園》での暮らしぶりは、平穏な日々であった。ただ外野が煩かった。義母の入所を知った親戚が田舎から見舞いにやって来た。そして閉鎖病棟での義母の様子と、例の臭いにビックリしたのだろう。『あんな所に閉じ込められて可哀想過ぎる!』それに対して夫の兄や姉たちも責められる羽目にあったようだ。『あんた達が側についていながら、どうしてあんな事になったの?』『症状が進んで、とても自宅や他の病院では診てもらえなくなったんだから、仕方ないじゃない。何とか頑張ってはみたのだけど、これ以上どうしようもなかったんだ…』いったい誰が何を頑張ったんだろう?何も関わらないように頑張っただけじゃないか?でもそんな事は、もうどうでも良かった。義母の姿に涙を流しながら『あぁ、可哀想に…』と言って帰っていった親戚も、それっきり見舞いに来ることはなかった。夫の兄や姉たちと同じ様に。最初から解っていた事だったので私は特別に腹も立たなかったし、もう何も期待などしてはいなかった。皆んな自分たちの事しか考えてなんかいないのだ。上の義姉などは『私たち夫婦は、母さんの為に休日になると西国巡りをしているのよ!』である。そんな時間があるくらいなら義母の面会に来てくれればいいのに…でも私は口には出さなかった。
そのうち義母の体力が落ちてゆき、一日の殆どを部屋の隅で横になって過ごす様になっていた。決して栄養が足りていないとか、世話をされずに放ったらかしにされていた訳でもないのだけれど、気力というものを失いつつあるのだろう。そのせいで、もう徘徊をする事も大声を出す事もなくなっていた。オムツをした大っきな赤ちゃんの様に思えた。そうなると不思議と義母に対して同情のような気持ちが芽生え始めていた。一年程《愛の園》で暮らした頃に、私は思い切って医師に相談してみる事にした。『自宅介護という事は可能でしょうか?』いったい私は何を言っているのだ?やっとの思いで義母から解放されて平穏な日々を取り戻したというのに!夫も勿論、反対した。せっかく手に入れた義母の《終の住処》を手放す必要がどこにあるというのか?しかしココを訪れるたびに私の思いは大きくなってきていた。入所の日に頬を流れる私の涙を拭ってくれた、義母のあの細い指。あの時の感傷が蘇ってきたのだろうか?私にもよく解らなかった。医師は私に『今のお母様の状態では不可能な事ではありません。ですが、それなりに大変な事ではあります。それに一度退所されますと、おそらくもう順番は廻ってこないかと思われますし、よくお考えになられた方が良いかと…』最もな忠告であった。私はとんでもない事をしようとしているのかも知れない。たぶん後悔する日もあるだろう。夫や息子たちとの大切な時間を犠牲にする事もあるだろう。それでも私の気持ちは既に決まっていた。
最初は反対していた夫も、とうとう諦めたようだ。 自宅介護に向けて、私は医師や市の福祉課にも相談しながら必要な手続きを進めつつ準備をしていった。ココで着ていた介護服(何故だか解らないが当時は販売されていなかった)と同じような着替えを作っているというボランティアの方を紹介してもらって、夏用と冬用を三着ずつ注文した。ボランティアとはいえ生地代や御礼は必要だ。床擦れ予防の為に布団の上に敷くエアーマットを購入し、オムツも箱買いをした。食事の摂らせ方も教わった。胃ろうは義母が元気な頃から断っていたので、食べられなくなったらおしまいである。摘便の仕方も練習した。本人にいきむ力が無くなっていたので本当は下剤を使用すれば良かったのだけれど、オムツ被れの心配があった。そうなると私の責任である。自宅介護を選択したからには、義母に今いるココより不快な生活を強いる事は出来ない。導尿カテーテルの毎日の消毒方法も教わった。感染症を起こさないように器具も毎日煮沸消毒し、膀胱内に消毒液を出し入れする。食事量の減少による栄養不足にならない様に《エンシュアリキッド》も購入した。それでも誤嚥性肺炎を起こさないとは限らないが、それはココに居ても自宅に居ても起こる時には起こるものだと言われた。慰めの様にも聞こえたが、それは寝たきりになったらあり得る事なのだ。義父と同じ様に。そうしていずれは老衰という事になるであろうとも告げられた。そうなるとやはり、最期は自宅で看取ってやりたかった。本人には解らないにしても。それこそ私の自己満足によって義母の死期を早める事にもなりかねない。しかし義母は強かった。
義母は《愛の園》から、もとあった自分の部屋に敷かれた布団の上での生活へと移行した。起き上がっても布団から移動することは無くなっていた。痩せてきた義母の背中にはエアーマットを使用していたにも関わらず褥瘡が出来てしまい、二度も皮膚移植を受けた。その傷口からは死の入り口を感じさせる臭いがしたが、それは別の意味では生への執念の臭いでもあるように思えた。ちょっとした着替えの時の力加減で、皮膚には青あざが出来た。まるで虐待をされた子供の様にも見えた。定期的に訪問検診に訪れてくれていた医師からは、それもよくある事だから気に病まないようにと慰められた。終わりのない介護の日々、それでも私は何故か後悔はしなかった。自分や家族の時間をこれほど犠牲にしているにも関わらず何故だろうか?それは義母が他人であったからかも知れない。私がまだ若くて体力があったからかも知れない。
ある時、義姉が二人揃って義母の見舞いにやって来た。退所してから初めての事だ。見舞いといっても替えのオムツひとつ持ってくるわけでもなく、様子を伺いに来たといったところだろう。私が勝手に退所させた義母の世話を、ちゃんとしているかどうか。そして義母の部屋に入るなり顔をしかめた。《愛の園》と同じ臭いがしたからだろう。私はわざとその時、二人の目の前で義母のオムツを替えてやった。今度は二人とも鼻をつまんで義母の部屋を出ていった。オムツ替えを終えて、私は義姉たちに言った。『ごめんね、臭かったでしょう?私、もう慣れちゃったから平気なんだけどね。息子たちも時々、手伝ってくれるんよ。それが凄く嬉しいんよねぇ〜』そう言ってハンドソープでこれ見よがしに洗った手で、珈琲を淹れて二人の前に差し出した。二人は何も言わずに珈琲を啜った。『勝った!』と私は思った。別に何の根拠もなく何の意味もないのだけれど、私は二人に勝ったと思ったのだ。
二人は珈琲を飲み終えると私に言った。 『母さん何か大切な物があるとか言ってなかった?例えば貯金とか宝石みたいな物とか…』あぁ、その為に二人揃ってやって来たのか!私は義母の通帳を二人に見せた。義父の遺族年金と自分の年金の出入が記帳されている。『これだけじゃあ、とてもじゃないけど介護は無理なんよね。私がパートに出られないせいもあるんだけど。だから毎月、私の実家から仕送りしてもらってるんよ。恥ずかしいけど…』二人は通帳を返して義母の部屋へと入っていった。そうして義母の箪笥の引き出しを順番に開けていき、ガサゴソと捜し始めた。私はそんな二人を見ながら『お義母さんは、お気に入りのネックレスや指輪は仏壇の引き出しに入れてたと思うけどなぁ〜』と言ってやった。それを聞いた二人は、目の色を変えて仏壇へと駆け寄る。そして義父の位牌に手を合わせるでもなく、すぐに捜し始めた。そして『あ、あったあった!これよ!』そう言ってプラチナと真珠のネックレス、宝石のついた指輪を見つけると私に言った。『これ、前から私たち二人にいつかあげるって言ってたのよね〜』『ねぇ、どっちがいい?』二人の嬉しそうな顔を見ながら私は義父の事を思い出していた。おりんを一度だけチーンと鳴らして、お布施だけを持って帰ったお寺のお坊様。同じである。二人とも義父の位牌には見向きもしなかった。それどころか『もう他に何処かに置いてないかなぁ?』と言いながら、部屋の鴨居にまで手を突っ込んで探っている。私はそんな二人の滑稽な姿を見ながら、笑いを堪えるのに必死だった。義母は何事もない様に、ぼんやりと二人を眺めている。そうして二人は戦利品をそれぞれ手にして、満足げに帰って行った。二人の娘が実の母親を見舞ったのは、その日が最初で最後となった。私は、ふん!と鼻で笑って心の中で呟いた。『二度と来るな!』
続く…
*注*
この物語は著者の体験に基づくものであるが、登場する人物、団体、場所等は、架空のものである。