感染者
感染者。
ヒトの世界に終わりを招いた原因の一つ。
始まりは定かではない。
とある製薬会社が行っていた新薬の臨床試験が失敗したことで生まれたという噂が定説だった。
被験者に選ばれた数人の若者達に投与された新薬。
それは万能薬と期待されるような代物だったという。
現在の医学では不治の病とされるものすら完治させ、治療困難な難病をも容易く克服させる。
しかも、安価で大量生産できるのだと。
それが本当であれば医療の現場は大混乱となったはず。
医師や医療と深く結び付く企業などは自らの既得権益を侵されることになり猛烈な反発を起こすことは必至。
そのため開発と試験は秘密裏に進められていたという噂だ。
投与された新薬。それが真に万能薬とされるものであれば後の世に悲劇は生まれなかっただろうに。
はたして、彼等に投与されたモノはなんだったのか?
◆◆◆
「感染者だと……」
太陽が徐々に姿を隠していき闇が深くなるに比例し数を増やしていく無数の影。
拓未はその一つに視線を固定し低く呟いた。
艶のない死人のような白い肌。
血管が肌にくっきりと浮き出ていて、痣のように全身を駆け巡る様が見える。
そして、炭化したかのように黒ずんだ四肢。
それは聞き及んでいた『感染者』の特長に完全に合致していた。
目の前の光景を自身が見ている悪夢の一幕であると拓未は信じたかった。
次の瞬間には目覚めていて、何事もない日常が始まるのだと。
「き、木場さん、感染者って?」
一人で青ざめている拓未の姿に、真理は不安な表情で問いかけた。
「……そうか、ついこの間まで安全な場所にいたんだもんな」
拓未が聞いた限りでは、真理が遭遇した脅威は屍体のみで済んだ様子。
幸運なことだと拓未は思う。
「奴等は感染者。俺も詳しい成り立ちは知らないが、今朝の屍体なんかよりよっぽどヤバい」
拓未が知る成り立ちというのは、どこかの製薬会社が人体実験かなにかした結果生まれた存在。
そんな噂話とも都市伝説とも言える大雑把な情報のみ。
成り立ちについてはほとんど知らないに等しい。
それでも、その危険性は熟知していた。
(……どうして、感染者がここに?)
真理を不安にさせぬよう、疑問は自身の内だけで拓未は消化する。
常に警戒は怠らなかったはずだった。
毎日、拓未は昼日中に付近の状況を出来る限り確認している。
今日は予想外の出来事に見舞われたせいで、付近の様子を確認してはいなかったが、あれだけ大量の感染者が周囲の建物に潜むのを見逃すはずがない。
(今朝の屍体にしてもそうだったが、これはさすがにおかしい。何故……)
感染者は日光――紫外線に対し脆弱だ。
太陽の下に数分もいれば身体は重度の火傷と変わらぬ状態に達する。
そのため、昼間は日光を遮れる地下や屋内に潜み、夜間に『狩猟』を開始する。
(何故、知性があるはずの感染者がここにくる!?)
感染者は、屍体とは決定的に異なる。
屍体が食欲という単一の本能のみで行動する死者であるのに対し、感染者には原始的ではあるが思考する意思と知性がある。
彼等の生命活動は停止していない。
なにかに感染した人間というだけで、心臓は拍動を止めていないし、脳は機能を失っていない。
だからといって、ヒトと分かり合える訳ではない。
感染者はヒトを喰らう。
というよりも、同種以外はすべて食物と見なしている。
野生化した家畜や猛獣も各地に隠れ潜む人間も、感染者からすれば等しく肉に過ぎない。
農耕を行える程の知能は残されておらず、感染者は同種で群れをつくり協力して狩猟を行う。
人語を失くした代わりに咆哮のようなもので、互いに意思を疎通させていた。
(ここには、俺はともかくアレがいるってのに……)
重ねて言おう。感染者には知性がある。
野生動物がわざわざ銃を持つ人間を襲わないように、感染者も狩猟の対象は狩りやすい弱者を好んで選ぶ。
例えば、武装した人間の群れと、野生化した家畜の群れが変わらぬ距離にいれば、家畜の方を襲う。
武装した人間のほうが狩りにくいと正しく理解出来る知性がある証拠。
つまり、自ら危険な対象を獲物とはしないはずなのだ。
「木場さんっ!!」
真理が叫んだ。
「ッ、日没か!?」
太陽が完全に姿を消した。
静寂と闇が辺りを満たし、真理と拓未は息を飲む。
一斉に感染者が動き出した。
この時を待っていたとばかりに、ビルからビルへと恐ろしい跳躍力をもって迫り来る無数の影。
「木場さん!」
真理が指差し叫び、拓未がその方向を見る。
拓未達がいる場所から一番近くに位置するビルの屋上。
そこから一体の感染者が、拓未たちのいるビルの屋上へと跳び移ろうとしていた。
二人に防ぐ術などはない。
辺りに物でも落ちていれば投げつけるくらいの抵抗は出来ただろう。
しかし、残念なことに投げられるような物はなにも無い。
二人には見ていることしか出来なかった。
「――騒がしいぞ」
――そう、二人には。
バゴッ!
凄まじい速度で投擲された何かにより、跳び移ろうとしていた感染者の頭部が粉砕された。
「……へ?」
突然の猟奇的な光景に真理は呆けた声を出してしまう。
もう遅かったが慌てて、真理の目を遮る拓未。
「……お前は主人の留守すらまともに守れないのか?」
妖艶な黒いドレスを身に纏い黄金の長髪を風に靡かせる女がいた。
「そのうえ、女連れとは……」
血のように紅い瞳。縦に裂けた瞳孔は冷たい視線を拓未に送った。
「発情期か、駄犬?」