黒犬の血
『――止まれ、駄犬』
それは復路で突然起こった。
日中はほとんど言葉を発することなく棺桶に入っているだけのカテナ。
そんな彼女が唐突に口を開いたのである。
棺桶越しの声だというのにその美しい声音は損なわれることなく鮮明に拓未の耳に届く。
「……どうした?」
初めて経験する出来事に拓未は緊張を隠せない。
歩みを止めて、カテナの言葉を待った。
現在は県境からの復路の最中。
あと三十分も歩けば元いた廃屋に戻れる位置だ。
ここまでの道程には何の問題も発生しなかった。
降りしきる雨のせいで視界は不良であり、路面は滑りやすく、予想していた通り移動には滴さない状況だ。
だが、予想の範疇を越えもしてはいない。
県境までの道は幸いにも土砂で塞がっていたり寸断されることはなく大きな問題も無かった。
所用時間にも大きなズレはなく、これなら二人と荷物を回収しても日没には余裕で間に合うはずだ。
それだけに、カテナの不意をついた呼び掛けは拓未を不安にさせた。
『不死者の気配だ』
「……数は」
カテナの言葉に冷静な声音で拓未は応対する。
『一体だ』
「……種類は」
一体であるからと油断する拓未ではない。
感染者や亡霊ならばともかく拓未では純粋な実力で敵わない不死者も多く存在する。
太陽が雨雲で隠れているとはいえ、現在は昼間の屋外でありカテナの協力は望めない。
拓未は心してカテナの言葉を待った。
勝てない相手であれば、残してきた二人を連れて逃げなければならないからだ。
『キョンシーだ』
「……待て、その場所は」
最悪の想像が拓未の脳裏に過る。
『あの廃屋だ』
「――ッ!」
カテナの言葉を聞いた瞬間、拓未は棺桶を置き去りにして駆け出した。
その無礼をカテナは責めなかった。
昼間の――しかも、屋外である時点で自身に出来ることは多くないからだ。
カテナが探知範囲の外。現在地より一キロは離れる廃屋の気配に気付いた時点で事は既に終わっていた。
生者の血を啜ったことによるキョンシーの力の増大。
それをカテナは感じ取ったに過ぎない。
『夜までは、まだ長いな……』
全力で駆けてきた拓未が目にしたのは非常な現実であった。
「…………そん、な」
廃屋の壁には大穴が空いていて、地面には荷物が散乱していた。
ぬかるむ地面には争いの形跡がありありと見られる。
そして、そんな地面に座り込む少女の姿があった。
「……鈴」
鈴である。
その腕に首から血を垂らす真理を抱え茫然とした様子で鈴が降りしきる雨に身を濡らしていた。
拓未は足早に二人の元に歩み寄る。
「……アタシ、本気を出せなかった」
拓未の存在を感じ取ると、鈴は独白を始める。
「……違うな。アタシは本気を出さなかったの」
それは自身の罪の吐露。
鈴が悔やんだのは過去の自身の所業。
その時、真理に狙いを定めていた自身の師に鈴は背後から桃木剣による一撃を加えた。
床には数々の法具が並び、選択肢は無数にあった。
しかし、そのなかで鈴が選んだのは桃木剣。
殺傷能力が最も低い武器であった。
「……アタシなら師匠を止められる。だから、大丈夫。そう思った」
真理の安全を最優先に考えるのであれば、それは悪手でしかなかった。
師は真理に標的を定めていて無防備にその背を晒していた。
ならば、一撃で無力化――首をはねるなりするのが有効な一手だった。
だが、鈴はそれを躊躇った。
自身の実力を過信し、その一瞬に、真理の命より、師の安全を優先し、そして――
「…………真理ちゃん。アタシを庇って噛まれちゃった」
真理はキョンシーに噛まれた。
その毒牙は深く突き立てられ思うままに血を啜った。
鈴はそれを見ていることしか出来なかった。
「……キョンシーはどうしたんだ」
この場には真理と鈴の二人しかおらず、真理を襲ったというキョンシーの姿はどこにも無かった。
「師匠は逃げたわ……」
真理の血が啜られ続けるなか、鈴は何とか気力を振り絞り八卦鏡を使用した。
霊力を流し込み増幅。光線のように照射され、キョンシーは撃退された。
「……そう、か」
拓未はギリギリと力の限り拳を握る。
「真理は、どうなるんだ……」
鈴の腕に抱かれた真理は苦しそうに呼吸し、もとより白かった肌は蒼白となり生気が感じられない。
首には二つ牙を突き立てられた跡が残り、血を滴らせた。
「……このままじゃ、真理ちゃんもキョンシーになる」
「ッ……」
山中で鈴と出会った折に聞いた話を拓未は思い出した。
キョンシーの爪と牙には毒があり、それにより傷つけられれば毒に感染しキョンシーとなる。
真理はその毒に感染してしまったのだ。
拓未は悔しげに顔を歪めた。
「でも、アタシはそんなの嫌……」
鈴はその手にもち米を掴むと首にある真理の傷跡に押し当てた。
「ゥゥぁ!!」
真理から悲鳴が上がる。
それと同時にもち米を押し当てた傷跡からも黒い煙が上がった。
「なにをしてるんだ?」
「キョンシーの毒を中和させてるの。真理ちゃんを治す為に……」
鈴は押し当てていた手を離した。
その手に捕まれていたもち米は先ほどまで白かった筈なのに、どす黒く変色している。
毒を吸収した証拠だ。
「治るのか! 真理は!?」
半ば諦めかけていた拓未だったが、その顔に生気が宿る。
キョンシーの毒が治療可能なモノだと知ったからだ。
「…………いまのままじゃ難しい」
鈴は正直な見解を口にする。
「もち米だけじゃ、キョンシーの毒を中和し切れないの。他にも色々、必要なものがある。一応の応急処置をするだけでも、絶対に無くちゃいけないものがあって……」
「なんなんだそれは! 言ってくれ、俺が何とかしてみせる!」
「それは――」
鈴が言う必要な物は到底いますぐに用意出来る物ではなかった。
生きた鶏や蛇の生き肝。蓮の実にもち米。
どれか一品ではなく複数品が必要だという。
拓未は再び絶望しそうになるが、鈴が最後に忘れていた一品の名を口にすると正気を取り戻した。
「いま、何て言った?」
「……だから、血よ。黒犬の生き血」
その品を鈴が忘れていたのはあまりにも入手が困難だからだ。
古来より、犬という存在は『死』と結び付く事が多い霊的な存在。
ギリシャ神話のケルベロス。
エジプト神話のアヌビス。
北欧神話のガルム。
古来より冥府と結びつけられる犬の化生は数多い。
鈴が黒犬の血を求めたのも頷ける。
鈴は何故黒犬でなければならないのか。
何故その生き血でなければならないのかを知らなかったが、師匠よりその効力は教わっている。
黒犬の生き血は非常に強力であり、それ単体で効力を発揮する。
だが、そう簡単に用意出来るものではない。
野山に野犬は多く生息しているが、その中から黒い犬を都合よく探し出せる訳がない。
仮に見つけられたとしても捕獲することは難しい。
野犬は基本的に群れで行動していて下手な不死者よりも危険だ。
牙は鋭く、野山を疾駆する強靭な肉体。
群れによる狩猟技術は卓越していて、闇雲に人間が挑んでも彼等の餌になるだけなのだ。
だから、鈴はその品を諦めていた。
「…………それがあれば、真理は助かるのか? 助けられるのか?」
拓未は鈴に問う。
「……うん。黒犬の生き血だけでもあれば、完治は無理でも安全な状態までには回復出来るはず」
鈴はその問いの意味を図りかねたが、拓未はその答えが聞けただけで十分だった。
「……そうか」
拓未は立ち上がる。
「拓未?」
まさか、いまから野山を探し回るつもりかと鈴は拓未を止めようとした。
だが、そうではない。
「――変身」
遠く英国で語られる伝承。
墓守等と称される怪異。
その存在を拓未は良く知っていた。
「拓未……アンタ」
――黒妖犬。
獣頭人身の異形がそこにはいた。




