息抜き
――闇に融ける女がいた。
その身を泥のように滞積している闇に浸し、カテナは苛立ちを募らせていた。
陽の光を遮るためにカテナが日中を過ごす黒い棺桶。
その内部は半ば異界と化している。
棺桶の材質は木製であり、特に希少な素材を使用しているわけではない。
だというのに、寝返りするにも窮屈であるはずの内部はカテナから生じた闇に満たされ大幅な空間拡張が為されていた。
「……どこにいる鏑木仁乃」
苛立ちの原因である男の名をカテナは口にする。
あの夜、自身の肉体を霧に変化させ逃走を図った鏑木仁乃。
カテナは仕損じたことに怒りを覚え、その後を追うことに決めて北を目指した。
漠然とした目的地設定であるがこれも仕方ない。
霧となり消え失せたその時点で、追跡に必要となる痕跡というものの一切が文字通り霧散してしまったのだ。
匂いや気配は勿論のこと、はたして本当にその場に存在していたのかも信じられないほどに全てが欠き消えていた。
獣化した状態の拓未であれば、カテナには欠き消えたと思えたその場に残留する何かを文字通り嗅ぎ取れていたかもしれないがそれを聞く気は無い。
追跡をするには厳しい条件ではあったが、何もしないよりはマシだと霧が流れていった北へと進路を設定したカテナ。
未だ手がかりは無く、本当に鏑木仁乃が北にいるかも分かりはしない。
そんな状況にカテナは苛立ちを覚えていた。
消えずに募り続ける苛立ちのせいで眠ることもままならない。
その苛立ちは滞積する闇にも影響を与えた。
闇はカテナの苛立ちに反応して蠢く。
巨大な芋虫が蠕動するかのように居心地悪そうに闇が動く。
この時、外界では棺桶が僅かに揺れ、焚き火で暖をとっていた真理を驚かせたがカテナの知ったことではない。
近くに不死者が近づくとこの揺れは更に激しくなる。
内部で闇が先の比較にならないほど暴れるからだ。
棺桶内部の異界化を知らない拓未はこの揺れをカテナの寝相だと思っている。
不死者という気に食わない存在の接近に寝ながらも苛立ってるんだろう。という解釈で。
間違ってはいないが、正確でもない。
「……まったく、あの駄犬は」
カテナが自らの下僕を思ったことで、闇は蠕動することを停止した。
多少ではあるが苛立ちが和らぎ、心の平静が保たれたのである。
顔には微笑も浮かんでいた。
だが、それも長くは続かなかった。
「……む」
カテナの探知能力は大変に優れているが万能ではない。
本気になれば数キロ先の地下深くにいる不死者であろうと探知してみせる精度がある。
だが、平時からそんな無意味なことをするカテナではない。
平時の探知は周囲百メートル程に留めている。
この距離ならば発見した際、逃げるにしろ戦うにしろ対処に充分な時間が取れるからだ。
そして、いまその探知範囲ギリギリの所で一体の不死者の存在をカテナは確認した。
「……これは」
微笑は明確な笑みへと変わった。
獲物を見定めた肉食獣のごとき笑みへと、
「きゃっ!?」
真理が悲鳴を上げる。
棺桶がなんの前触れもなく蓋を開き、中からカテナが現れたからだ。
いったい何事かと真理は目をぱちくりさせる。
「小娘……」
「は、はいっ!」
カテナに呼ばれたので真理は元気良く返事をした。
カテナは気分屋でいつ爆発するかも分からない爆弾だ。と、拓未から注意を受けている真理。
気分を損ねないように気を張って応対する。
「周囲に不死者は……いない。野性の獣どもはいるが、距離があるので問題にはならんだろう」
「……は、はぁ?」
カテナは真理に現在の周辺情報を伝えた。
突然、そんなことを言われてどう返答するのが正解か分からない真理は仕方なく曖昧な相槌を打った。
探知の結果、周囲には熊や猪など猛獣がいると分かる。
だが、その距離は遠く離れていて問題にはならない。
「なので、私は息抜きに出る」
「えっ!?」
その宣言に真理は動揺を隠せず声に出した。
「安心しろ。使い魔を置いていく。これで問題は無いだろう」
いつの間にか、真理の肩には影によって編まれた拳大の蜘蛛が一匹いた。
何かあれば、その蜘蛛がカテナに危機を知らせてくれる。
周辺の猛獣程度なら蜘蛛だけで対処は可能だ。
「わ、わかりました」
ここで反論なり抵抗なりをするという選択肢は真理にはない。
そうしたところでカテナが止まってくれるわけもなく、不況を買うだけになることは目に見えていた。
真理はただ首を縦に振るしかなかったのだ。
首肯する真理を満足げな表情で一瞥すると、カテナはその場を後にする。
夜の闇に紛れカテナは跳ぶ。
目標は先ほど確認した不死者。
「……僵屍か、懐かしいな」
その笑みは酷薄なものへと変わっていく。




