3
日下真理の知る世界は白であった。
生まれてから十四年という歳月を暮らしてきた施設は床も壁も天井も白く、汚れなどひとつとして見当たらない清潔な場所だった。
それは彼女に与えられていた個室もそうであったし。
真理の父が働く職場も同じような仕様であった。
そして、白というのは真理自身にも当てはまる。
上質な絹糸と見紛う美しさの腰まで届く純白の髪。
汚れを知らぬ新雪のような肌。
紅玉と比しても遜色ない紅の瞳。
生物学的に言えば、アルビノと評される容姿だ。
しかし、厳密にはアルビノとは異なる。
先天的なメラニン色素の欠乏による白い肌と紅い瞳ということではない。
彼女の体質は紫外線に弱くもなければ、一般的な人間と大差ない。
ただ、白い肌と紅い瞳を持って誕生したにすぎない。
――西暦一九九九年。
世界が終わったその時を境に、真理のような特異な容姿で産まれてくる子供は数多く確認されている。
真理の育った施設にもそういう子供が何人かいた。
親を亡くしたり、親に捨てられたり、様々な理由で保護された子供たち。
真理はそんな子供たちと兄弟のように仲良く暮らしていた。
真理の年齢は十四歳。子供たちのなかでは一番の年長者。
当然、姉のような立ち位置となり毎日忙しなく動いていた。
幼い子供同士の喧嘩を止めたり、食事の手助けや読み書きの指導。
休まる時の少ない日常を真理は楽しんでいたし、そんな生活がずっと続くと思っていた。
――その時が来るまでは、
日下真理の知る世界は赤く染まった。
壁や床に飛び散る赤。
施設を焼き焦がしていく赤。
紅の瞳に映るそれを真理はただ見つめることしか出来なかった。
『……真理、逃げなさい。すぐに逃げるんだ』
着ている白衣の半分以上を赤く染めた父が最後の力を振り絞り真理を逃がした。
『私は、間違ってしまった……』
それが真理が最後に聞いた父の言葉。
緊急時のために設けられていた脱出用の暗い道を言われたとおりに真理はひたすら走った。
父が最後に言っていた言葉の意味を考えながら。
――いったい、父は何を間違ったというのか?
そんなことを考えているうちに出口に辿り着く。
重く錆び付いた扉をなんとか開いて外へと飛び出した。
日下真理の世界は灰色に染まった。
初めて真理が目にした本物の空はどんよりと厚い雲に覆われていた。
本で読んだことのある太陽なんてどこにも見えない。
梅雨入りを控えた不安定な天候であるなど、真理は知らないので現実はこんなものなのかと納得してしまう。
――これからどうすればいいのか。
真理が途方にくれたのも仕方がない。
真理はこの終わった世界での生き方など知らないのだから。
いままでは安全な場所で他者に庇護され生きてきたのだから。
「あれ、ナニ?」
そんな真理でも、この世界で生き抜く術の一つをすぐに学んだ。
「へ?」
――全力で逃げることだ。
◆◆◆
「……もう、ダメ」
あれから何日が経ったのかもう真理には思い出せない。
安全な施設から外の世界に出た直後に襲われた悪夢。
それは様々な形で真理に襲いかかり、奇跡的に逃げおおせてきた。
だが、それも限界を迎えた。
休むことなく酷使し続けてきた肉体は限界をとうに越しているし精神も衰弱しきっていた。
いまは自身を追う四体の追跡者をどうにか振り切って路肩に打ち捨てられた廃車の物陰に潜んでいるところだ。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろ」
もう立つ気力は残っていない。
廃車に背中を預けて疲労感に身を委ねる。
ふわふわと心地よい眠気が真理の意識を即座に侵した。
いま眠ってしまえば助からない。
そんなことはわかっているはずなのに、その睡魔に抗おうという気持ちは微塵も起きなかった。
微睡む真理の頭のなかでは、つい先日までの日常が映画のように投影されている。
映し出される記憶の欠片を真理は楽しそうに見ていた。
『私は、間違ってしまった……』
それはノイズのように一瞬だけだったが、鮮明な形で真理の脳裏に蘇った。
もう疲労困憊の身体を動かすことは出来ず、睡魔に刈り取られてゆく意識を覚醒させることは難しい。
それでも真理は一言だけ言葉を紡ぐ。
「……なにが間違っていたっていうの、お父さん?」
遠ざかっていく意識のなか真理はそれを目にした。
(……誰?)
四体の【屍者】と対峙する男の背中を。