使えないはずの回復魔法
「…………」
俺はナイフの交錯する音が聞こえた方を振り返り、じっと耳を澄ます。
「ネスト、どうしたの?」
急に立ち止まった俺を訝しげにアウラが聞いてきた。
すると隠れられそうな部屋を探していた皆も、一体何事かと立ち止まる。
でも俺はそんな皆から意識を一端逸らすと、今しがた走ってきた方を振り返る。
どうしてかは分からないが、そちらから意識が離せない。
「ネスト、早くしないと……っ」
「ネストさん! 急いでくださいっ!」
要領を得ない俺の腕をアウラとルナが腕を引いてくるが、俺はその場から動けない。
「ネスト……?」
さすがに不審に思ったアウラが強引に腕を引くのを止めて、恐る恐ると言った風に聞いてくる。
「……なあ、ここからはアウラたちだけで行ってくれないか?」
「なっ……!?」
「ネ、ネストさん、さすがにそれは……」
俺の言葉にアウラとルナは驚きを隠せていない様子で反応する。
それも無理は無いだろう。
俺も、自分が今どんなことを言っているのかは理解しているつもりだ。
ここにはルナを含めて、それぞれの種族の王族が三人いる。
それだけでなくアウラやトルエだっている。
そこに優先順位なんて存在しないし、あってはいけない。
そんな彼らを置いて、一体どこへ行く気なのか。
逆の立場だったら俺だってそう思う。
そしてそもそもアスハさんがヴァイスの下に残ったのも、戦力として数えられる俺とアスハさん二人を分散させるためだ。
ここで俺がこの場を離れてしまうのは、その意味が全くの無に帰してしまう。
「……ごめん、でも行かせてくれ」
それでも俺は、自分の意思を曲げるつもりはない。
どうしてと聞かれたら、上手くは説明できない。
だけど行かないという選択肢は、もはや無いに等しい。
「……出来るだけ早く戻って来るから」
アウラたちはやはり納得してなさそうな表情を浮かべていたが、俺はそれだけを言い残して、今来た道を再び走った。
◇ ◇
「はぁ……はぁ……っ」
長く走りすぎたせいか、どうしても息が荒れる。
こんな時、回復魔法さえあれば、もっと長く全力で走れて、もっと早くアスハさんの下へ辿り着くことが出来たのだろう。
でも今、そんなないものねだりをしたところで何も始まらない。
俺が出来ることは、息が切れてもひたすら走り続けて、一刻も早くアスハさんに合流することだけだ。
ヴァイスは強い、それは間違いない。
でもアスハさんと二人がかりなら、恐らく何とかなるだろう。
どちらかが欠けていれば、それだけで厳しい。
「…………」
だがどうしてだろう、嫌な予感がしてならない。
先ほどから、剣戟の音も一向に聞こえない。
それがまた不安を煽る。
「……いや、アスハさんなら大丈夫」
これまで幾度となく、アスハさんには手助けしてもらってきた。
そんなアスハさんが万が一、なんてことはあり得ない。
しかしそう思ったところで、頬を伝る冷や汗は止まらない。
「……確か、ここあたりだったはず」
かなり走って、ようやく俺はアスハさんと別れた場所の近くまでたどり着いた。
地面には争った形跡がいくつも残っている。
「ふ、二人はどこに……っ!」
しかし件の本人たちが一体どこに行ったのかと探していると、曲がり角のところでアスハさんの後ろ姿を見つけた。
「アスハさん……っ!」
アスハさんの背中越しにはヴァイスの姿も見える。
どうやら何とか間に合ったらしいということに、ほっと胸を撫でおろす。
「……ネストさん」
アスハさんも俺の声で気付いたのか、こちらを振り返って来る。
「————ごめん、なさい」
その胸には、一本のナイフが刺さっていた。
「……は?」
アスハさんは一言だけ謝罪の言葉を残して、崩れ落ちる。
倒れたところからは、円が広がるようにして血だまりが出来てきている。
そんな目の前の光景に、俺は思わず何が起こったのかが理解できない。
「アス、ハさん……?」
覚束ない足取りで、俺はアスハさんに近寄る。
しかし当然のように、俺の呼びかけに対して答える声はない。
糸の切れた人形のように力ないアスハさんに、俺は何もすることが出来ない。
「あー……、ちょっと遅かったっすね」
そんな俺に、煽るような言葉を吐いてくるヴァイス。
でも今はそれすらも、上手く頭に入ってこない。
「ヒ、ヒール……」
気付けば俺は、使えないはずの回復魔法の呪文を唱えていた。