涙は止まっていた。
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ニア視点でお送りします。
「千五百万エン」
―――私をそんなおかしな値段で買った新しいご主人様は、どこか人が良さそうなそんな人だった。
奴隷の契約をする時まず私は新しくご主人様となる人が私の知っている人であった。
なんとその人は私が以前に財布を盗んだ一人だったのだ。
生活するためにもたくさんのお金が必要で、誰から財布をとったのかなど覚えていないことが普通だったのだが、その人の財布にはかなりの額のお金が入っていたので覚えていた。
そして当然というべきかその人は私のことに気がつく。
しかしそんなことは既に気にしていないかのように振舞って、あまつさえ私のわがままも聞いてくれた。
あまりにも自然だったので、後から盗んだことを謝っていないことに気がつき頭を悩ませるのだが、それは今話をしなくてもいいだろう。
それから私は、世話をしていた獣人の子供たちだけでも国に連れて帰ってくれないかと夜に頼み込んだ。
その時私は尻尾が切られていてどうせ自分には国には居場所がない、それならいっそ自分の身を犠牲にしてでも……と意気込み、ご主人様に懇願する。
それなのにご主人様はありえないような力を以てして、なんと私の切られた尻尾を元に戻してしまった。
そしてご主人様は当たり前のような顔をしながら、国に連れ帰ってくれる約束もしてくれたのだった。
「…………」
私はご主人様を見ながら、ふと考える。
今まで私は獣人の国に帰るのは無理だと思っていたが、今回ご主人様が私の尻尾を治してくれたことで、国に帰ることは無理でもなんでもなくなった。
それどころかビエスト国へ向けて出発する際、私はご主人様が荷物の中に恐らく私との契約書だろう物をいれているのを見た。
人が良さそうなご主人様のことだ。
もしかしたら、私を奴隷から開放してくれる気なのかもしれない。
それは高いお金を払って私を買ってくれたご主人様には悪いことでも、私にとっては願ってもいない話、のはず。
それならどうして――――――こんなにも胸が苦しいのだろう。
「はぁー、遠かったぁ……」
そしてとうとう、私たち一行はビエスト国の近くまでたどり着いた。
ご主人様は伸びをしながら、少しだけ遠くに見えるビエスト国を見つめている。
今回少しビエスト国から離れたところに馬車を止めているのは、何でもご主人様が誰か偉い人にそう言われたかららしい。
恐らく、獣人は人間を嫌っているためで安全策をとったのだろう。
「ネスト、これまでありがとう」
「ありがとーっ!!」
馬車から先に降りていたブロセルが、ご主人様の名前を呼びお礼を言っている。
子供たちもすっかりご主人様に懐いて、もしかしたらビエスト国での人間に対しての考えや風潮に合わなくなってしまっているかもしれないが、それもご主人様なら仕方ないと思う。
ブロセルたちはこちらに手を振りながら、馬車から離れていく。
「…………」
ご主人様は手を振り返しながら、どこか寂しそうな顔を浮かべていた。
「……よしっ」
そしてブロセルたちが見えなくなってから、ご主人様は何やらこちらに笑顔を向けてから自分の荷物をあさり出す。
「……」
私はその後ろ姿を見つめることしかできない。
「ニア」
どうやら目的のものを見つけたらしいご主人様が、私の名前を呼ぶ。
―――契約解除しよう。
やはり、ご主人様は私に奴隷契約の契約書を向けてきた。
「……うん」
きっとこれが一番良い。
私は自分の胸にあるモヤモヤとした何かを感じながらも、ゆっくりと頷いた。
奴隷契約の解除の仕方は簡単。
ただその書類を破ってしまえばそれで終わり。
もちろん契約者、さらに主でなければ破っても契約は解除されないのだけれど……。
「じゃあ、やろうか」
そしてついにご主人様は契約書を破るべく、腕に力を込めている。
「……っ……!」
「……え……?」
―――気がつけば私は、ご主人様を押し倒していた。
自分でも何をしているのか分からない。
ただ、胸の中のモヤモヤとした何かが私を動かしたのだ。
「ど、どうしたニア!?」
ご主人様は近くにいるはずなのに、その声はどこか遠くで聞こえているような気がする。
「……い、……じょ……ない」
そしてさらに加えて、どこからか別の声が聞こえる。
「……解除したく……っ……ない……っ!」
―――それは紛れもなく、一片の間違う余地もなく、今までずっと聞いてきた私の声だった。
「耳だって……触っていいし……っ!」
私の口からどんどんと溢れだしてくるたくさんの言葉。
ご主人様や人間のほとんどは知らないらしいが、本来獣人の年頃の女の子が自分の耳を触らせてもいいのは、自分が生涯を寄り添うと決めた人だけである。
それでも私はご主人様と一緒に居られるなら、とそう思った。
「……えっと……」
対してご主人様はどこか気まずそうな顔を浮かべて、どこかを見つめていた。
「…………ぁ」
その視線を追った先にあったのは、ちょうど真ん中で破られてある私とご主人様をつなぐ契約書。
―――間に合わなかった。
その事実だけが、私に襲いかかる。
「……うぅ……っ……」
そして自分とは思えない程、目からは涙が止めるまもなく溢れ出してくる。
「泣かないで」
「……ぇ……?」
ふと頭に感じた温もり。
気がつけば私の頭にはご主人様の手が優しく置かれている。
そしてその瞬間、私の涙は止まっていた。
「……え、な、なんで……?」
それはつまり未だに私たちの奴隷契約が続いているということ。
「あー、多分これニアが破っちゃったみたい」
状況を理解できていない私に、頬を掻きながらご主人様が教えてくれる。
どうやら私がご主人様を押し倒した時に破ってしまったと言うことらしい。
私は思わず胸をなで下ろし、ご主人様に身体を預ける。
「……また、契約書をもらいに行かないといけないな」
ご主人様は私の耳元でそっと呟く。
「……うん」
そしてそう頷く私はきっと―――心から笑えていた、と思う。
「…………そろそろ出発しましょう……?」
その後、すっかり忘れていたトルエちゃんから、どこか怒りを含んだ声でそう声かけられたのは、また別の話。