渤
夜中の三時半、約三千円を払って病院を追い出された。垣根に頭から突っ込む直前まで知り合いのメンズパブで制止も聞かずにガバガバ飲んで居た私の財布はスッカラカンで、三千円を払ったら硬貨のみになってしまった。クレジットとキャッシュカードは全部家だから自分の家に帰るのはどうにかなるとして、この男のタクシー代金をどうしようかと思った。今ここでタクシー代と詫びとしての謝礼金を2,3万ポンと渡してハイ金輪際さようなら、とできたらどれほどいいか。しかし神は私を許してくれなかった。
のでとりあえず質問する。
「あの、お宅は…どの辺りで…」
私新栄なんですよかったら払わせて下さい。は、言葉になることはなかった。
「新栄だよ。悪いけど、いや悪くはないか、さっき支払いの時あんたの財布覗いた」
「え、あ」
ヤバイ。これはマズイほんと。
「あんた家どこ」
「…新栄のキングの横です…」
「そう。あタクシー来た、乗ろう」
「え、あの」
私がうろたえてその場で往生している内に男は慣れた動作でタクシーを止めた。振り返って私がその場から動いていないのを見るとカツカツと寄って来て私の肩を抱いて支えタクシーに乗せた後から自分も乗って「新栄のキングまで」なんて言っている。
待ってくれ、見返りは何だ。
グワングワンする頭で必死に考える。私は一体巡りと貯金で細々と暮らすしがない女子大生でレギュラーのキャバ嬢や風俗嬢みたいに金持ってねえぞ。お前ホストだろどっからどう見てもホストだろ、その過剰なシルバーアクセサリーに光沢感のあるスーツに金髪のロン毛、ガリ。ホスト以外だったら何してる奴かお聞かせ願うわ。絶対客にして巻き上げてやろうとか思ってんだろ、とタクシーの窓から顎に手をついて外を見詰めるホストを横目で睨み付けているとこっちを振り向いた。
「すごい酷い顔してるよ。どこで飲んでた」
「…ミッドナイト…です…」
「メンパか、あそこ、いい噂聞かないから、もうやめとけ」
「知り合いが居るんです…」
「やめとけ」
「はい」
ハイハイハーイそれで惚けさせて風落ちさせる気だろ!!!見え見えなんだよ魂胆がァ???ハァ???舐めてんじゃねーよマザーファッキン!!!それにしても今日はマザーファッカーcold!!!ゲロ臭も凍る寒さの2月、鬼頭美織20歳、頭から公園の茂みに突っ込みアル中になりホストに助けられる。そしてここからホス狂への険しい山を、
「おい」
男の呼びかけにはっとする。
「着いた」
「え?」
「新栄のキングって言ったじゃん」
「はあ」
まだ頭の中の私が、ホスト風俗惚け金ホストと警鐘をギャンギャン鳴らしていて現実についていけずにいると、男がタクシーを降りて私の座席側の扉を開けた。手を引かれてよろよろと降りる。
「家どこ」
「そこの見えてる緑のビルです」
「そう。自分で帰れるな」
「はあ」
「じゃ」
バタン、ブウン。男は再びタクシーに乗り込み去って行った。動きがゆっくりに見えるほどスマートで、素早くて何が起こったかわからなかった。タクシーが信号で左折するまで見送ったが男は一度も振り返った様子は無かった。私はゲロまみれのまま異臭を放って立ち尽くしていたが、よろよろと帰路に着いた。
オートロックのマンションの8階に部屋を借りて三ヶ月が経った。力無く鞄を引っ提げエレベーターで部屋のある階まで上り、部屋のドアノブに手を掛ける。
私の何も無い日々。今日だけ洪水のようだった。施錠して全裸になりシャワーを頭から被った。酷く気分が悪かったがあまりのゲロの臭いに絶えられなかったので緩慢な動作で全身を洗った。あの手の感触が消えなかった。私は呆然と先程の素晴らしい男を思い返してはきらきらしいこの感情を有難く思った。
名前も連絡先も分からない、男。なんて、私の感情はオートフィクションだ。私はあの男に会ったことがあるし、あの男も私を覚えている。お互いに初対面の風でやり取りをするなんて、なんて嫌な男だろうか。いや、初対面の風を装っていたのは私だけだ。なんてどうしようもない女だろうか。
座り込んで四肢を力無く投げ出し、鉛の様な首を垂れ、重い腹を突き出して、頭からシャワーを被り続けた。私の目だけが力を持って真下を見詰めている。