滴
どれくらい時間が経ったかわからないが、30分くらいだろうか、目を開けると薄暗いグリーンの部屋の天井が視界に入った。カピカピの目元を手で拭うと点滴で繋がれていて、やはりここは病院のようだと認識した。
私は偶然通りかかった見知らぬ恩人によって119番され急性アルコール中毒という最も情けない診断を下されて点滴治療を受けているようだ。なんて恥曝しな女なんだろう。胃洗浄は多分していないようだから、軽症だったのだろう。鏡月のフルボトル四本目で記憶が無いが、しかしゴキブリのようにしぶといな私は。
尿意に襲われて便所へ行こうと上半身を起こしたら酷く視界が揺れて気持ち悪かった。頭の方に入り口があるようなので、未だ朦朧とする意識の中で体の向きを変えようと動いていたら頭の上から「起きた?」と声がして、私はそこで初めて部屋に自分以外の人が居た事に気付いた。
驚く元気も無いので体に染み付いた反射神経という名の惰性で振り返ると、スーツを着た長髪の男がくたびれた簡易パイプ椅子にくたびれた感じでぞんざいに座って居た。
くたびれたというかこの人の方が何か重篤な病を体に内包しているのではとこっちが心配になるほど物凄く怠そうだった。
とりあえずこの部屋の主は、私か?この男か?という疑問が生まれたのでとりあえず便所の報告を恐る恐るしてみることにした。
「…トイレに行きます」
「そう」
その二文字で私はどうやらこの部屋の主導権は、この髪の毛の所々に固形の吐瀉物が付いて全身からゲロの匂いを発している化け物のような女ではなくこのロン毛にある様だと理解した。ほとんど動作の見受けられない部屋の主に触れぬよう静かにそっと部屋を出てトイレに行って放尿すると驚く程の量が出た。何か考えようと思ったが思考回路がアルコールで埋め尽くされていて何も考えられない。
まだ酒が残っているためガタガタとドアや壁にぶつかりながら部屋に戻ると男はさっきの体勢から多分1mmも動かずにそこに居た。
男からなるべく離れるようにそろそろとベッドに腰掛けた。柵もシーツも何も無い担架に近い硬いベッドに腰掛けて、この状況はどうしたものかと、点滴を中程まで逆流している血を見ながらボーっと考えていると、カツカツと男が寄って来て私の手を持って点滴の台から降ろし、点滴のチューブを高く持ち上げた。チューブの中のドス黒い血が薄くなって、見る見るうちに逆流した血が体内に戻っていく。セクシー系の香水の匂いがして、また吐き気に襲われた。点滴のチューブと、私の手を取ったままの男の手は、青白く痩せていた。見上げると、長い髪に隠れた男の顔が初めて見えた。面長で色白で切れ長、という感じだ。
「…ありがとうございます…」
「うん」
それだけ言うとまた無言になった。
私が所在無く見詰めていると初めて目が合った。暗い病室でもわかるほど瞳が茶色かった。
「あんたが、中野公園の茂みに頭から突っ込んでたから見てたら、突然俺の足下に転がって来た」
思い出すだけで迷惑だ、というような顔をして説明をし出した。意識が無くなる前の景色の、尖った靴はこの男の物だったらしい。
「それで救急車呼んだんだけど何故か俺まで救急車に同乗させられてここに」
なんて可哀想な人なんだろう。私だったら走って逃げる所だ。
「すみません、本当に何と言えばいいか…」
今すぐ土下座したいくらいだ。
「いいよ、もう」
どうしよう、謝礼金いくら支払えばいいんだろうなどと考えた。明らかに許してはくれなさそうな態度だ。
逆流した血は完全に体内に戻って、男は私の手を膝の上に下ろした。謝礼金について考えるあまりうろたえながらも少し残念に思った。
「寝なよ」
ふと屈んだかと思うと私の膝の裏と肩甲骨の辺りを軽く持ち上げてなんとベッドにそっと寝かせた。男の襟元が近付いて、男の香水の香と私のゲロの臭いを同時に吸い込んだ。電撃が私のシナプスからアルコールを弾き出した。
目が合った。茶色の瞳に吸い込まれるように私は再び抗う術無く眠りに落ちた。