第三話・その一
翌日、桃子は猛暑で怯む体に鞭打って外出した。
雪村亜衣と渡瀬成美、そして伊原美沙と会う約束があった。
オーディションを何度か受けていると、応募者の中に、以前他の会場でも見かけた顔を見つけることがある。そんなことが偶然にも数回重なり、次第に「あの人、今日は来てるかな」と探すようになった。見つけると、先方も同じような気持だったらしく、お互いなんとなく「どうも」とか言ったりして、徐々に親しくなっていった。
成美と美沙は、そうして出来たオーディション仲間だ。きっかけは昨年末の頃、成美の方から話しかけてきた。その約一ヵ月後、二人の話に傍で聞き耳を立てていた美沙が、強引に割り込んできた。三人は歳もバラバラだったが、住所が杉並区であるという共通点があった。いつの間にか亜衣も知り合いになり、時折会っては情報交換したり、オーディション対策を練ったりしている。
四人が会うのは、たいていはJR中野駅北口近くの喫茶店。
今日も昼までに中野に向う。仲間といっても、事実上亜衣以外は桃子にとってはライバルである。この場合のライバルとは互いに高め合うとか切磋琢磨するような好敵手ではなく、もっと積極的に蹴落とすべき敵、競争相手という意味だ。そしてそれは他の者にとっての桃子も、同様の立場のはずだった。
だから桃子は通常、二人に引けをとらぬよう、それなりに身なりを整えていく。でも今回は面倒なので、すっぴんに近い状態で、肩まである髪は後ろで縛り、Tシャツにジーンズ、サンダルという動きやすさ優先の恰好で出かけた。会合の後、引越し先と新しいバイト探しをするつもりだった。
それに外を歩き回るとき、汗かきの桃子は極力メイクをしたくなかった。もともとメイクしなくても充分に見られるし、かえって健康的で清潔に見えると思っている。桃子にとってメイクをする目的は、自身の欠点を補い美貌を上乗せすることではなく、お洒落に関する知識と技術とセンスを兼ね備えている、ということを周囲にアピールする手段なのだ。あくまで自分ではそう思っている。
店内に入ると、たちまち冷気が全身を包み、桃子はほっと一息ついた。額と鼻に浮き出ている汗をハンカチで拭いながら辺りを見回すと、窓際のテーブルに亜衣が一人、黙々とパソコンと戦っている姿があった。時計を見ると十一時五十二分、まだ他の二人は来ていない。
亜衣の正面に座ると、彼女は黙ったまま、桃子の方を見ることもなく、ただ一瞬だけ右手をしゅっと挙げて挨拶した。いつものことである。
世界中のあらゆることを知りたい、という亜衣は、いつもパソコンを使って調べものをしている。例のチャットの他にも情報を扱う何かの仕事をしているらしいが、一体の何の仕事なのか、教えてくれない。
桃子にとって亜衣はオーディションの情報源だ。桃子から依頼しなくても、勝手に情報を無料で提供してくれる。調べる手間が省けるので桃子はありがたく思っているが、どうして協力してくれるのか、謎だった。
情報といっても、公開のオーディションは一般公募するわけで、別に亜衣でなくても雑誌やネットから同様の情報を入手することは容易だ。ただ亜衣の場合、まず速さが違う。まだ公表される前の情報も教えてくれるのだ。そして、主催者の企業情報や当日の審査メンバーなど、事細かなことも付随してくることが多い。ちょっと怪しい会社とか、予め合格者が内定しているのに形だけ行なわれるようなオーディションは省いてくれる。どうやってそういう情報を手に入れられるのか、それも謎だった。
この後やってくるはずの成美と美沙も、亜衣の情報をあてにしている。桃子との付き合いを続けているのも、亜衣の情報の恩恵に預かれるから、というのが本音だろう。
桃子は亜衣の情報を独占しておきたかったが、亜衣が訳隔てなく二人にも教えてしまう。それを止める権利は桃子にはないのが残念だった。
正午を過ぎると、店内は急に混み始めた。入り口にはサラリーマンやOLの集団が塊になって押し寄せようとしている。その集団にもみくちゃにされながら、一際小柄で、一見してメイドと見紛うばかりの白いフリルだらけのスカートを穿いた、ストレートのロングヘアの女の子がこちらに向って来る。
伊原美沙だ。十七歳の現役女子高生。だが遥かに幼く見えるまん丸い瞳のロリ顔と、不釣合いに大きい胸。いかにも今時のグラビア受けしそうな風貌の持ち主だ。
「ちわーす。今日も暑いっす。でもこの店寒いっす」
美沙は相変わらずの元気さと、独特の口調で桃子と亜衣に挨拶した。
「なんすか、センパイ今日は身軽い格好っすね」
美沙は桃子を「センパイ」と呼ぶ。だからといって年長者を敬うとか、礼儀正しいということではない。自分が若い、ということを強調するためだと桃子は気づいている。
でもそんなことには歯牙にもかけないのが大人の振る舞いというもの。桃子は敢えて爽やかな笑顔を作って応えた。
「うん、ちょっとこの後いろいろやることあってえ――」
「うわー、亜衣さん、なんすかこれー?」
桃子の返事も聞かずに亜衣のパソコンを覗いて大騒ぎしている。
この、少しは落ち着け、ガキ。と桃子は内心舌打ちする。
「うわ、何でやめちゃうんですかー?」
亜衣は美沙を無視するようにパソコンを閉じた。
「子どもに見せるもんじゃないよ。それにほら、どうやら揃ったようだし」
亜衣は顎をしゃくって入り口の方角を見るように促した。
桃子と美沙が同時に視線を移すと、背の高い、細く引き締まったバランスの良いシルエットの女性が颯爽と歩いてくる。
渡瀬成美だ。OLのスーツを改良したようなフォルムの白いブラウスに黒っぽいデニムのスカート。それが成美の職場のユニフォームだとわかっていても、まるで彼女のためにしつらえたようにはまっている。
「なるネエ、相変わらず背筋伸びきってるっすー」
美沙の羨望の眼差しを受け止め、まあね、と笑顔で答えながら、成美は座った。そして理想的ともいえる曲線を具えた長い脚を、優雅に組む。
美沙は成美のことを「なるネエ」と呼び、常々自分にはない格好よさがある、と称賛している。ちなみに桃子について、美沙はいいとも悪いとも言ったことがない。
「この服着てるときは周囲に店の者だって言ってるようなものでしょう。だから悪い印象与えちゃいけないのよ」
「えー、それって、なるネエのポリシーですか?」
「店長の指示よ」
成美はこの喫茶店の近くにあるネイルサロンに勤めている。昼休みを使ってここに来るので、店の制服を着ていることが多い。噂では成美のネイリストとしての腕はかなり優秀で、彼女のオリジナルデザインには定評があるらしい。固定客も多く、近いうちにチーフ格に昇格するのではないか、と亜衣は分析している。
「それよりも、美沙ちゃんのその格好はなに? コスプレ?」
成美は口元に手を持っていき、上品に笑いながら、フリルだらけの美沙に言った。
「あははは。ゴーゴー夕張がロリータに走ったみたいっしょ。なんか、バイト先でファンのコできちゃって、プレゼントしてくれたんすよ。それで、もうすぐバイト辞めるし、一回くらい着てあげないとかわいそうだと思って。今日はこれで働くっす」
美沙は夏休みに入って、秋葉原のメイドカフェでバイトを始めたが、独特の口調で「ご主人、おかえりっす」などと口走ってしまう。それを支持してくれる客もいたが、店からは注意されるらしい。
美沙の口調は癖というより、他者との差別化を図るため、意図的に創りだした個性だった。だから本人に直すつもりは毛頭なく、結果辞めることを選んだ。
「にしても、恥ずかしくないのお? そんなふりふり」冷めた口調で桃子は言った。
「えー、だめっすか?」たちまち膨れっ面になる美沙に、「大丈夫大丈夫。似合ってる。すごく可愛い」とフォローを入れる成美。
「ですよねー。それにここ、中野だし、全然平気っすよー」
「しかし、なんだな。その喋り方と格好は、ちとギャップがあるし、似合わんな」珍しく亜衣が突っ込みを入れた。
「うぐ。でもー、そのギャップの加減がいいって場合もあるっすよー。実際これってファンのプレゼントだし」
「つまりは、ただのマニア受け、か……。マイノリティでも支持者がいること自体は、悪くないな」
「うぐぐ、ちとへこむっす。まあいいっす。何事も経験ってことで。若いうちは何でも挑戦、が大事っすー」
微かに「若い」という部分を強調したことを、桃子は聞き逃さなかった。美沙がこの中で一番若いという事実は揺らぎようがない。美沙が十七歳、桃子が十九歳、成美は二十四歳だ。ついでに亜衣は桃子と同級生だから同じ十九歳。
桃子は内心反発する。この童顔の巨乳めが、他に売りがないから、若さにこだわるのだ。
「そうよね、若いっていいわねえ」成美が美沙の機嫌をとっている。
――なんでこのおばさんはガキに媚を売るのかなあ。
いつもこんな調子である。桃子は引いて、他の三人はそれなりに盛り上がる。そして何となく自分だけ取り残されたような気分になると、桃子は周囲を見回すのが習慣だ。
うん、見てる見てる――いつもより少なめで二、三人てところか。ま、今日は私が地味だからしょうがないね――。
周囲から、ちらちらと自分達に向けられている視線。
成美、美沙、桃子、三人とも容姿には多少なりとも自負があるつもりだ。その三人が一箇所に固まっているとどうしても目立つ。周囲の男達からは好奇の視線を注がれる。それが鬱陶しいこともあるが、最近は快感を感じる方が多い。やっぱり自分はいけている、と再確認できる幸せなひと時だ。しかも、今日は亜衣も一緒だ。
かつては地味でブスのはずだった亜衣は、東京で再会して以来、少しずつではあるが、確実に美人度が増している。いや、ブスだと決めつけていたのは桃子の思い込みで、もともと素質はあった。そして、どうやらその素質が開花しつつあるようだった。最大の原因は高校生のときに比べて、かなり痩せたこと、分厚いメガネを外してコンタクトにしたこと、そして人並みに化粧を覚えたことだ。
無愛想な性格と鋭い目つきは変わらないが、それがかえって彼女の知性を強調することに資している。タレントの卵三人の個性、勢い、美貌に亜衣の知性が加わって、このテーブルが放つオーラは敵なしと言っていいだろう。
しかし、亜衣はどうやら自分がいけていることに気づいていないのか、それとも価値を見出さないのか、成美や美沙が褒めても全く無関心だ。
その態度は桃子を安心させる。自分達に影響されて、こっちの世界に興味を持って欲しくはない。亜衣はあくまで桃子の協力者でいてほしい。もし競争相手になったら、それは最大の敵になるかもしれない。
いや、桃子に勝ち目はないかもしれない。だから亜衣にはそのことを気づかせてはならない。
(その二につづく)
人物紹介コーナー【伊原美沙】
いはらみさ。桃子のオーディション仲間。高校三年生、17歳。身長156センチ。東京都杉並区生まれ&在住。
顔、目、豊かなバストなどを全て「丸」で表現できる、キュートな外見の持ち主。かなり童顔。
「ッス」が口癖。一人称は「じぶん」、桃子を「センパイ」、成美を「なるネェ」と呼ぶ。
のんびりした態度から、お気楽な性格と思われがちだが、実際は影の努力家。また好奇心旺盛で、なんでも臆せず挑戦するパワーあふれる人物。
勘が鋭く洞察力にも優れ、精神的にはかなり成熟している。策士な一面あり。