第二話
近頃、頻繁に昔の夢を見るようになった。
複数の男に押さえつけられ、レイプされながらこちらを見ている子。その目は訴えている。苦痛と絶望と悲しみ、そして自分に向けられた非難。その子が「助けて」と叫んでも、何もできない。ただじっと様子を見ているだけ。彼女の声が次第に大きくなり、やがてその声で目が覚める。
「またか……」
蓮は起き上がると、深いため息をついた。こんな夢を見たときの寝ざめは最悪だ。その最悪の気分を、ここ数日味わい続けている。
あの時のことを思い出すのは辛い。自分が無力だったことは事実だ。だが、何もしなかったわけではない。蓮は毎朝同じ言い訳を思い浮かべて、やはり毎朝と同じように、左手に視線を移した。滲んだ汗で光っている。
左手の甲そして掌にまで貫かれた傷跡は、あの時彼女を助けようとした証拠だ。そしてそれは叶わず、さらにこの傷は左手から器用さと握力の大部分と、そして夢をも奪っていった。
もし僕に罪があるのならば、その罰はすでに受けている――そう主張してもいいはずだ。それでなんとかして現在の自分との折り合いをつけようとしている。左手の傷跡は、今の蓮にとって、免罪符なのだ。
しかし、心のどこかで納得できていないと感じることもある。それは、あの事件が決着していないような気がするからだ。
――彼女はあの後、どうなったのか。今はどうしているのか。
ナイフを突き刺された後、気を失ったらしく、いつの間にか外に放り出されていた。目が覚めたのは朝で、彼女も、彼女を輪姦したバンドの連中もいなくなっていた。
結局のところ、彼女の名前すら判らない。「サキ」と呼ばれていたという記憶があるだけだった。
バントとは縁が切れ、楽器もやめた。
残ったのはこの傷跡だけ。
これでいいのだろうか、何か重要なことをやりそこなったのではないか、僕は中途半端なんだろうか、それとも、勇気がないのだろうか――。
そんな思いが、蓮を不安にさせていた。
最近よくあの時の夢を見るせいで、昼日中でも昔を思い出す。思い出すからよけい不安が増大する。
そして、そんな夢を見るようになった原因は、きっと桃子が関係しているのだろう。
*
「今日も来てませんか……あの、連絡は?」
バイト先のコンビニに着くなり、蓮はオーナーに尋ねた。
オーナーの杉内は「ないよ。まったく」と無愛想に答えた。「最近の若いモンって、こんなものなのかねえ。しっかりやってくれる子だと思ってたんだけどなあ。ここまで無断欠勤されるのは、初めてだよ」
「僕は桃子さん、いや、木村さんは、いい加減な人じゃないと思います」
「でもねえ、こちらからも何度か電話してるのに、何のリアクションもないじゃないか。明らかに無視されてるね、これは。休むなら休む、辞めたいのなら別に辞めてもらって構わないけど、せめて電話の一本くらいよこすのが、最低限の礼儀ってもんじゃないかなあ。そんなにここの仕事嫌いだったのかなあ、それとも何か辞めたくなるようなことでもあったのかなぁ」
最後の方はほとんど独り言になっている。喋りながら、仕事の手が休むこともない。オーナーは怒っているというより、呆れてしまっているようで、既に半ば桃子のことは忘れかけているのかもしれない。
いつまで経っても人員不足問題が解決しないこの店では、事実上杉内オーナーと蓮、幸秀の三人で辛うじて持たせている状態だった。朝から昼の時間帯には主婦のバイトが幾人かいるが、時間の融通がきかない。ここにきて桃子の欠員は深刻な痛手ではあるはずなのだが、とにかく毎日が忙しすぎて、仕事の不満やら辞める理由やらの、いちいち細かい個人的な事情に拘っている余裕もないというところだろう。
もし、桃子が本当にここの仕事内容、あるいは環境に何らかの不満を抱いて辞めたのであれば、その具体的理由についてオーナーはもっと真剣に考える必要がある、と蓮は思っている。なぜなら桃子の前にも、立て続けに三人辞めているのだ。辞めたくなるような原因が、店側にあっても不思議ではない。
しかし蓮はあえてそのことは口にしない。アルバイトの立場だから遠慮しているということではない。桃子がここに現れない理由は、別にあると思っているからだった。
「あのコが、辞めたくなるような出来事、かあ」
ずっと黙ってカップめんの補充をしていた幸秀が、呟きながら蓮をチラっと見た。
「なんだよ」
「いや、何でも。また後で、な」幸秀は作業を再開した。最近疲れ気味のオーナーが少々イラついているので、私語は避けるようにしている。
幸秀の言った「また後で」のタイミングは、夕方になって訪れた。今日の深夜はオーナーが一人で勤めることになっていたので、一旦二階の自宅に戻り、食事と休憩をとっている。また勤務に戻ってくるのは、午後十時の予定だ。
「で、どうなのよ。実際のところは?」
来客の合間を縫って、幸秀が訊いてくる。
「どうって言われても……」
「まじで、何にも心当たりないのかよ」
「うん」蓮は頷く。いっしょに肩まで落っこちそうだ。
「よく思い出してみろよ。知らないうちに地雷踏んだのかもよ。普通ありえねーだろ、付き合い始めたばかりでいきなり音信不通って。何か、俺らには理解できないような理由で怒っているんじゃないのか。あのコ、プライド高そうだし、怒りっぽそうだし――実際よく怒ってたし――結構難しい性格なのかもよ」
幸秀の言うとおり、理解不能な状況だと蓮も思う。音信不通になって、もうひと月以上過ぎている。
桃子と初めて過ごした夜。あれ以来一度も会っていない。その後何度か携帯でのやりとりはあったが、怒っているような気配は感じられなかった。
確かに桃子から、一時帰省するからしばらく会えないような連絡は一度あった。ただ、蓮にしてみれば、可能であればクリスマスや年末年始を一緒に過ごせたらという思いもあり、十二月も中旬に差し掛かるころには頻繁に連絡をつけようとした。
だが、何一つ返事がこないまま、結局年が明けてしまった。確かに年末年始を実家で過ごすということは十分に考えられることでもあるし、などと考えているうちに、既に一月の中旬にまで日付が進んでしまっている。
彼女のマンションにも何回か行ってみたが、いつも留守だった。
「仲直りしたいのなら、とりあえず連絡することだな。メール打て」
「もう何度も打ってるよ」
「まだ足りないってことじゃないのか。誠意が感じられないとか……。とにかく、相手に返事を出す気を起こさせることが先決だな。嘘でもいいから謝っとけ。オーナーも喜ぶぞ」
「なんでオーナーが出てくるんだよ」
「だってあのコがバイトに来ないのは、蓮に会いたくないからだろ――と、俺は思うぞ」
「ええっ? まさか」
「他に何か理由があるとでも?」
「……」蓮は答えられず、ため息交じりに呟いた。「僕は一体、何をやらかしたんだろう」
「もう、あきらめちゃえば? もしかしたら、その方がいいかもよ」
急に話の方向を転換した幸秀に、蓮はちょっと驚くとともに若干の不満を覚えた。
「なんだよ、さっきはメールで謝れとか言っておいて」
「そうだけど、蓮、お前にはあのコを怒らせたとか、傷つけたとか、浮気したとか、そういう心当たりは一切ないってことだろ」
「うん。いくら考えても、思いつかない」
「じゃあ、ないんだよ」
「は?」
「何もないのに、連絡を絶った。そう考えた方が自然だろう。つまりあのコは、そういう面倒な女か、厄介な女かどっちかだったってことだよ」
「どういう意味だよ」
「まず、面倒な女っていうのは、何か意図があってわざと連絡してこない場合だな。要求があるのか、試しているのかわからんが、蓮に気付いてほしいことがあるわけだ。それで、自分からは何も言わないクセに、蓮が期待通りの行動を起こしてくれないと、勝手に怒る。そういうわがままな奴ってこと。俺はそういう女は勘弁してほしいな。そんで、厄介な女っていうのは……そうだな、要するに遊ばれた、みたいな。イケメン蓮くんにちょっと興味があったから近づいて、一回味見して、ああこんなもんか、ってことであとはサヨナラ、とかな」
「幸秀……喧嘩売ってる?」
「怒るな怒るな。あくまで可能性の一つを、俺の個人的な見解として――」
「もういいよ。この話はやめよう」
蓮はすっかり不機嫌になった。味見された挙句に捨てられたというのは、さすがに傷ついた。
「でもよお、蓮」
「なんだよ。まだ何かあるのか」
「ひとつまた思いついた。実家に帰るって言ってたんだろ、最後の電話で」
「あ、うん。用事があるとかで」
「いつこっちに戻ってくるとか、言ってたか?」
「確か、未定だけど一週間か十日間くらいだとか言ってた」
「もしかしたらさ、今もいるんじゃないか、実家に。確か仙台だったか」
「今も仙台に? なんで?」
「そりゃあ、用事があるからだろ。何の用事か知らんけど。でも、そうだとしても、音信不通の理由にはならないよな」
「何が言いたいんだよ」
「だからさ。たとえば親が入院した、なんてやむを得ない場合は未だに実家に留まっていても不思議じゃない。でもそれなら普通、事情を説明するために一度や二度は蓮に連絡くらい入れるだろ。何もないってことは、もう東京には戻らないつもりじゃないか、ってことだよ」
「え……」
「彼女、悩んでたんだろ? モデルになる夢を諦めようかって。で、結局諦めて、実家に帰ってやり直すことにした、とかね」
「でも桃子さん、まだひとつモデルの話があるかもって言ってたし……」
「〝かも〟だろ。駄目だったのかもしれないし。それに今の状況を踏まえると、彼女が何もかも、全て正直に蓮に話しているとは限らないな。小さなごまかしや嘘くらいは当たり前だ、付き合い始めてからの日も浅いしな。そもそも、二人がお互いのことを話す時間なんて、それほど多かったわけじゃないだろう」
「じゃあ、桃子さんは、初めから別れるつもりで実家に帰ったってことなのか?」
そうは思えなかった。幸秀の言うとおり、桃子とゆっくり話ができた時間はあまりない。それでもこれまでの経験からして、桃子が器用に嘘をつけるとは思えなかった。むしろ本音が顔に出てしまい、即座にバレるタイプだ。
「用事があって帰ったのは本当かもしれないし、戻ってくるつもりだったのかもしれない。でもなあ、人には里心ってものがあるんだよ――実家住まいの蓮にはぴんとこないかな――家族が優しかったり、懐かしい友達に会えたりして、予想外に癒されたりすることもあるんだ。だから不意に気が変わることだってある。それで、東京での出来事や出会った人のことは全て忘れてしまおう、縁切ってしまおう、人生リセットしてしまおう、なんて考える人もいる」
「桃子さんが、そんな……」
「あー、落ち込むな。今のは俺の想像だし。事実は全然違うかもしれないし。でもな、仮に――仮にだぞ――俺の想像が当たっていたとしたら、彼女が今ここにいないのは蓮、お前のせいでもなんでもないよ。彼女の選択だ」
「つまり、僕はふられた、ということか」
幸秀の完全主観による想像のストーリーではあったが、正直なところ「桃子ならやりかねない」と思わせる節だらけの話だった。幸秀って、やっぱりよく女の人を観察している。
「僕、仙台に行ってみようかな」
「おう、行け行け。お土産は牛タンに笹かまでよろしく。ところで、彼女の実家の住所知ってるのか?」
「あ……」蓮は床にへたり込んだ。渾身の一球をあっけなくホームランされたピッチャーさながらの落ち込みようだった。
「蓮! 蓮はいる?」
いきなり店内に大きな声が鳴り響いた。驚いて蓮が立ちあがると。猛スピードでドアを弾き飛ばし、そのままレジ前まで突進してくる人物の姿が目に映った。
蓮の姿を見つけると、何かを訴えようとするが、かなりの距離を全力疾走してきたのか、呼吸が乱れ、上手く話せないようだった。
蓮も幸秀もこの人物をよく知っている。特に幸秀はこの人について詳しい。何故こんなに慌てているのかは全くの不明だが。
「あの、お久しぶりです。どうしたんですか?」
蓮が声をかけると、右の掌を正面に突き出して「ちょっと待った」という仕草を作る。仕方ないので、呼吸が整うまでしばらく待つことにした。
蓮は微かな胸騒ぎを覚えた。
この人なら、桃子のことを知っているかもしれない。蓮の知る限り、桃子と最も親しい友人の一人――渡瀬成美。
幾度か深呼吸をして、ようやく落ち着いてきた成美は、改めて蓮を見つめて口を開いた。
「ねえ蓮、桃子ちゃんって、今どうしてる?」
(「一 悪夢」終了。次回から「二 肉球の裏側」です)
お読みいただきありがとうございます。
蓮編の第一章は二話のみで、次回から第二章となります。
なお、現在第一章のタイトルを再検討中です。コロコロ変わるかもしれませんが、内容の変更はありません。




