第二話・その二
亜衣と再会したのはちょうどバイトが忙しくなってきた、去年の今頃だった。
タレントになりたいくせに、そのためにやっていることが『街を歩き回るだけ』の桃子に、亜衣は心底呆れて「せめてオーディションくらい受けろ」と助言した。そういう方法があること自体、桃子は知らなかった。
亜衣はそれ以来、しばしばオーディションの情報を桃子に提供するようになった。桃子は言われるままに片っ端から受けたが、今のところ成果はない。
バイトにオーディションに、一応行けるときは行く短大。ぎりぎりのところで進級はできたが、この春、とうとう過労でぶっ倒れた。桃子はそれまで生活に困窮していることだけは誰にも言わなかったが、亜衣に看病されて、ついに弱音を吐いた。
実家の仕送り額よりもはるかに家賃が高いことを聞いて、亜衣はこれで何度目かわからないが、また呆れて言った。
「こんな高いマンション借りてるからだろう。さっさと安いアパートに引っ越せ」
いやだ、と駄々をこねる桃子に、亜衣はバイトの情報を提供した。それは新宿のキャバクラだった。
半ば男性不信気味の桃子にとっては最も苦手とする方面の仕事だった。
案の定、耐え難い苦痛を伴ったが、大幅な収入増によって生活が安定の兆しを見せ始めたこともあり、頑張って続けた。嫌だ嫌だと念じながら接客するので自然と無愛想になるが、別に店内ナンバーワンなどに興味もなく、中にはクールなキャバ嬢と静かな時を過ごすことを好む客もいたから、それなりに中堅どころとしての評判は定着し始めていた。
ある夜のこと、泥酔しきった客が大声で笑いながら桃子の胸が小さいことを指差してからかった。一番気にしていることを酒のつまみにされ、桃子は沸騰寸前になった。それでも無理矢理愛想笑いを作って対応すると、客は図に乗って「乳は発育不足だが、こっちの方はどうなんだい?」とスカートの裾を摘まんで捲り上げようとした。
桃子は反射的に客を殴ってしまった。キレた瞬間の記憶は未だに曖昧だが、どうやらグーでやったらしい。指輪をはめていたし、加えて当たり所も悪かったらしく、気がつくと目の前に鼻血を噴き出した客がひっくり返っていた。
その店では、客のとった行為は明らかに禁止事項ではあったが、客への暴力はもっと問題だった。しかし、まったく反省しない桃子は店のオーナーとも喧嘩して、結局クビになった。それが一昨日のことだ。
テレビの音もなくなり、静まり返った部屋で、桃子は氷もすっかり融けきってほとんど残骸と化したアイスコーヒーを飲み干した。
「げ、ぬるっ」呟くと同時に、大きなくしゃみが出た。
少し部屋を冷やし過ぎたらしい。見ると、冷房の設定温度が十八度になっていた。
設定温度を上げつつ、再びパソコン机に向う。パソコンはまだライブチャットのサイトにアクセスしたままだった。
いくら画面を見つめても、もう二度とやる気は湧いてこなかった。
近々芸能界デビューすると勝手に決めている桃子にとって、日頃からスキャンダルになる可能性をできるだけ排除することは、極めて重要な課題なのだ。
これはキャバクラのバイトとは違う。何かの拍子でうっかり顔が映ったりするかもしれない。画像が流出でもしようものなら大変だ。画像は流れなくても、有名になれば噂は流れるかもしれない。
それに、何よりもプライドが許さない。いくらネット越しとはいえ、どこの誰だかもわからない男に自分の裸を見せるなんて言語道断だ。
肌を見せていい相手は、ちゃんと自分と釣り合いのとれる男だけだ。こんなサイトにくる奴はどうせパソコンオタクに違いない。きっと地味でださくて色白で太ってて、髪が脂ぎってて炭酸が大好き、みたいな奴だ。直接女と話すこともできなくて、部屋に閉じこもってネットで自慰にふける、いかにも不潔で不健康な感じだ。
でも、それなら、これからどうすればいいのだろう。桃子は途方に暮れてしまう。
もう一度亜衣に相談して別のバイトを探すという手もあるが、亜衣のくれるバイト情報は風俗系や水商売系が中心だ。彼女自身もライブチャットをやっているし、そういうのが性にあっているのだろう。
ゆっくり探している暇はない。今月は何とかなるが、来月の家賃が払えるかはかなり怪しい。
思考が堂々巡りをしていることに気づいたとき、桃子は一つの結論に達した。
もうバイトや生活のことで悩むのはうんざりだった。こういうことで時間や労力を費やすことは無駄な気がしてきた。そこで、以前過労で倒れた時に、亜衣がくれた助言に従うことに決めた。
引越ししよう。もっと安いアパートに。せめて実家の仕送りでカバーできる家賃の範囲内のところに。
バイトは、とりあえずまたコンビニか何かにしよう。慣れてるし、気楽だし。
引越し代は親と相談しよう。「隣に変な住人が越してきた」とか言えば、何とかしてくれるだろう。
でもここにはぎりぎりまで住んでいたい。
東京に来て、初めて住んだ場所。桃子はとても愛着を感じている。家賃が高い分、新しくて広くて住み心地が良い。オートロックがないこと以外、不満はない。駅からも近く、便利だった。
外はいつの間にかきれいな夕焼け色になっていた。悩むだけの昼下がりだった。
窓辺に立って、桃子はもうすぐ見納めになるであろう風景を眺めて思った。
そうだ、また戻ってこよう。今にオーディション受かって、プロになって、お金を稼いだらまたここに住もう。桃子は密かに、はるか遠くに沈み行く太陽に誓うのであった。
*
夕食後、桃子はパソコン机に向って、自分のブログを立ち上げた。
今日はひたすら部屋で悩んでいただけなので、記事のネタがない。
【もうすぐ、引越しするかもしれません】
そこまで書いて、既に続きが全く思い浮かばなかった。
ブログには『犬のぷにぷに』という名前をつけてある。だが、別に犬の話題を扱うブログではない。単に日記のように思いついたことを書いているだけのものだ。なんとなく、犬の足の裏のぷにぷにした感触が大好きだったから、それをブログ名にした。
ブログは今年になってから、パソコンを買ったことをきっかけに始めた。それから月に一~二回程度のペースで地味に更新している。
でも今までこのブログを見た人は誰もいない。
桃子はここ数カ月のアクセスの統計を確認してみた。
訪問者ゼロ、コメントゼロ……。
見慣れた数字でも、桃子を落ち込ませるには充分だった。
過去の記事タイトルを少し読み返してみた。
【ブログ、はじめました】
【タレント志望です……】
【オーディション、挑戦……】
【オーディション、落選】
【次のオーディションに懸けます……】
【なんとか進級できました……】
【あの審査員は、絶対におかしい……】
【今度は自信あります……】
【やっぱり運も大事かも……】
何だかオーディションの記事ばかりだった。
過去の記事のタイトルを見ただけでも、今までの落選の歴史がリアルに蘇ってくる。この一年、挫折と孤独の日々だったような気がする。
オーディションとは出会いだ、と桃子は思っている。
自分の魅力を正しく理解できる人と出会えたとき、未来は開ける。
これまでに会った審査員は、みんな眼が節穴だった。そんな審査員なんてこっちからお断りだ、と言いたい。
しかし結局誰一人として自分を理解してくれないとき、心は孤独で埋め尽くされた。
誰も認めてくれない、誰も褒めてくれない、誰も慰めてくれない。どうしようもない心細さに、逃げ出したくなる衝動に、歯を食いしばって耐えてきた。
いつかは出会えると信じたい。自分を正当に評価してくれる人に。正しい眼を持った人は、きっといるはずだ。
しかし悠長に構えている余裕はない。桃子は秋には二十歳になる。アイドルもモデルも低年齢化が進んでいる昨今では、桃子は決して若い方ではない。小中学生に混じって審査を受けるなんてことも珍しくないのだ。
あと何年頑張れるだろうか、来春卒業した後もこんなことを続けていられるのだろうか。
もう時間がない。考えれば考えるほど焦りが募ってくる。
早くしなければ、早く出会わなければ。もうすぐリミットなんだから。お願いだから早く現れてほしい。私を解かってくれる人。
【だれか、早く私を見つけてください】
桃子は誰も見てくれないブログにそう書いて、すぐに消した。
涙が溢れて止らなくなってしまい、更新はやめることにした。
(第三話につづく)
長ーいひとり言のような状況が続きましたが、ようやく終ります。
ブログの書き込み記事部分については、とりあえず【】の記号でくくっていますが、これは仮です。今後、メールやチャットのやりとりシーンなどもあり、それぞれどういう記号を使うか悩んでいます、後日記号は変更するかもしれません。
字体を変えられればいいのですがw