第三話
「桃子ちゃん、桃子ちゃん!」
インターホンから声が聞こえる。成美が来てくれた。
あの後桃子は勇気を振り絞って、再度ドアノブを掴み、部屋に入ってまず手を入念に洗った。なかなか落ちないので泣きそうになった。汚れが落ちても落ちたような気にならず、何十分も洗い続けた。
それから成美に電話した。本当は亜衣を呼びたかったが、今は連絡がつかない。蓮、という名も思い浮かんだが、それはあえて避けた。
成美は電話してから一時間ほどでやって来た。運よく今日は仕事が休みだったらしい。
桃子は成美が来るまで、寝室の隅でうずくまって半べそをかいていた。
「どうしたの? 真っ赤な目して。それにおでこ、血がついてるじゃない」
そう訊かれても、桃子には答える気力がなくなっていた。
とりあえず成美は桃子をソファに座らせ、先ず額の傷の手当をした。傷口を洗浄し、ガーゼをあてて、テープで軽く止める。
「これでよし、と。で、何があったか説明できる?」
成美が優しい口調で再度訊くと、桃子はゆっくりと浴室の方角を指差した。成美は促されるままに浴室に行き、うわあ、と声をあげた。
「ひどいね、あれは。一体何があったの? もしかして、さっき電話で『ドアノブに直接触れるな』って言ってたのも関係あるの?」
桃子は小さく頷いた。成美の言葉で再び記憶が蘇り、体が震えて涙が滲んでくる。
成美は桃子の傍らに座り、そっと頭を撫でた。
「どうやら、ここでは落ち着かないみたいね。それじゃあ、今から私のところにいきましょう」
桃子に着替えるように言って、成美はその間、引越し用に用意しておいたダンボール箱を一つ解体して、浴室の窓を塞ぐようにテープで固定した。
*
成美の住むマンションは、桃子がバイトしているコンビニのすぐ近くだった。自分が引っ越す予定になっているアパートからも、歩いて五分とかからない。
初めて入る成美の部屋は、桃子と同じ1LDKで広さも同じくらいだった。外見の様子では築年数はかなり経っていそうだったが、中は最近リフォームしたのか、存外きれいだった。
基本的に椅子とベッドで暮らしている桃子とは対照的に、ここでは床にカーペットを敷いてこたつを置いてあった。隣の寝室も畳で、覗くとベッドがない。毎日布団を敷いて寝ているらしい。
「とりあえず、おこたに入ってて」
言われるままに、桃子はこたつに足を入れた。下半身が温もってくると、自然と気分も落ち着いてくる。
こたつなんて久しぶりだ。桃子は珍しく、仙台の実家を懐かしく思った。
しばらくすると、成美が大きなマグカップを持ってきた。勢いよく湯気が立ちのぼっているカップの中を見ると、ココアのようだった。
「桃子ちゃん、何も食べてないでしょ。今から何か適当に作るから、それまでこれでもたせてね」そう言って成美はキッチンに入ってなにやら作業を始めた。
それを遠目に眺めながら、ココアを少しすすった。
熱い。それにちょっと甘すぎる。
でも、その甘さと熱さが、緊張をほぐしてくれる。口の中にココアの香りが広がり、全身の筋肉が弛緩していくようだった。
リラックスすると、今度は猛烈な空腹感が襲ってきた。ココアの味と香りが胃を刺激し、ぐう、と大きく唸り声をあげた。
もう一度、今度は多めにココアを口に含んだ。飲み込んでから、思った。
こんなに甘いの飲んだら、太っちゃうよ。
成美が作ってくれた料理は、グラタンだった。
これもまた熱そうだな、と思いながら、スプーンでグラタンをすくい上げると、キツネ色に焼けたチーズと、とろりとしたホワイトソースの合間に、マカロニやエビの姿がちらっと見えた。
数回息を吹きかけてから、グラタンをほお張る。
「どう、口に合うかしら?」
正面に座り、同じものを食べながら成美が訊く。
成美が料理が得意なんて、知らなかった。今まで一度も聞いた事がなかった。きっと、五臓六腑に染み渡る、というのは今自分が体験していることなのだろう。
桃子は間髪入れずにもう一口食べた。食べてから成美に言った。
「うん。美味しい……でもお」
「なあに?」
「甘いココアに脂っぽいグラタン。これじゃあデブデブになっちゃうよお」
成美は大声で笑い出した。
「ようやく元気が戻ってきたみたいね」
結局、桃子はココアもグラタンも残さず胃袋に納めてしまった。
(第四話につづく)
お読みいただきありがとうございます。
もうしばらくゆっくりペースが続くと思います。




